「人生は、思っているより短いンだ。だから、私は、この一夜の夢ともいえる私の人生において、素敵な女の子と、ちょっとした冒険のほかには興味を持たないことにしている。」 1965年7月16日付けの「ル モンド」紙を開くと、よくある交通事故のひとつにしては、大きく紙面をさいた記事に目が止まることだろう。 記事の横には、粒子の粗いモノクロ写真が一枚。そこには、優雅なブローニュの森に突っこんで、無残にもフロントがつぶれたフェラーリが映っている。 運転していた男は、即死だった。 事故時刻が深夜未明であったことから、目撃者も少なかったが、それでも、ブローニュ近くのレーヌ マルゲリット アベニューをかなりなスピードで疾駆する赤いフェラーリーが見咎められていること、そして男の身体からアルコールが検出されたことから、酔っ払い運転の末の事故とパリ警察は判断した。 その記事が、他と少し違っていたのは、事故とともに記された、その男の華麗な経歴だった。 曰く、、、4人の魅力的な大金持ちの女性との4度の結婚。レーシングドライバーであり、優勝したポロチームのオーナー。自身も優れたポロプレイヤーとして知られ、外交官としての肩書きもある。 このドミニカ生まれの男の死につけられたタイトルは、「世界的なプレイボーイ、’ルビ’ 死す」だった。 『1978年 パリ』 事故の前日、ルビのポロチームは、「パガテール クラブ」で行われたオープントーナメントで優勝を果たしたところだった。ウワサでは、ルビは試合直後から祝杯のシャンパンを空けはじめ、そのまま一行は、夜の祝勝会に雪崩込んだという。ルビは、これまでそうであったように、勝利の美酒を思う存分味わい、店で一番高価なシャンパンがミネラルウオーターのように、次々と空けられた。 結局、祝勝会がお開きになったのは、翌朝5時のことだった。カナリなドンチャン騒ぎの夜ではあったが、ルビにしては珍しいことではなかった。事実、いつものように、彼の完璧な服装は、宴の後でも、少しの乱れもなかった。 ルビは、友人と今日のランチの約束をして、愛車のフェラーリに乗り込むと、エンジンを全開にした。そして、、、彼の、あのチャーミングな微笑みは二度と見る事ができなくなった。 ルビのエレガントな物腰、マナー、女の子の扱い方、そして、少し無鉄砲なところ、、、生前、彼を真似ようとした者は、数限りない。女性だけではなく、そうしたエピゴーネンの男たちも、グルーピーのように、彼の一挙手一投足の観察に熱心だった。 しかし、誰も彼のようにはなれなかった。哀れな模倣が生まれただけだった。 ルビにはカリスマがあった。それは、ルビ、そのものであり、エピゴーネンたちが即席にマネできるものではなかった。 事実、ルビの死後においてもプレイボーイを気取る社交人種、輩は枚挙の暇がない。しかし、ルビのようなタイプのプレイボーイはいなくなった。 それは、一種の冒険家、、、無謀ともいえる情熱と速度で、人生を、うらやましいほど魅惑的な冒険物語に仕立てしまう男、と言えるかもしれない。 このとき、私は、、、 「SALAD DAYS for Playboy」 ルビは、1909年、武勇で知られたドミニカの将軍、ドン・ペドロ・ルビローザの末っ子として生まれた。終生、彼の愛称となる‘ルビ‘は、当時、兄弟たちがヤンチャな末の弟につけたものだ。 生地は、ドミニカ共和国の北部、チバオバレーの街、サンフランシスコ デ マコリスだった。 サンフランシスコ デ マコリスは、自然に恵まれた田舎町で、厳しいけれど男らしい父親、愛情に満ちた母親、仲の良い兄弟に囲まれ、ルビは素直で幸せな幼年期を過ごす。 ルビが6歳のとき、家族に劇的な変化が訪れる。父親が、軍務から外交キャリアに進むことを決心したのだ。1915年、父親のフランス領事館への転勤に伴って、家族は田舎町から、エレガントなパリ ジョルジュビレ 2番地へと移り住むことになる。 この時代に、ドミニカからパリへ外交官として赴任してくるということは、それなりのエリート層といえるだろう。ルビは、この後、13年間、パリジャンとして自由な少年期を送る。 記録では、ルビは16歳のとき、モンマルトルで、はじめての情事を持ったとされている。第一次大戦をルビは、パリで体験し、ベルエポックの時代よりはエレガントさに欠けていたにせよ、戦勝気分で、より陽気で、自由であったコスモポリタン、パリで早熟な少年期を満喫する。ルビの人生は、順風満帆と思われた。 しかし、ルビは人生をエンジョイするのに急ぎすぎた。ルビは、学校よりもスポーツや女の子や音楽に夢中になった。父方も、母方も筋金入りの職業軍人の家系から考えれば、ハッキリ言えば「オチこぼれ」だった。(私の偏見では、「良い」プレイボーイは、エリート家庭の「育ちの良いオチこぼれ」から生まれるという「黄金律」があるように思う。) ルビは、カレの受験に失敗してしまう。両親の落胆は大きく、特に父親からはキツク叱られた。1926年、父親は外交官として英国に転任するが、ルビだけは、カレの再受験に備えるため、家族と離れてパリの寄宿学校に残ることになる。ルビは、パリで一人になる。これが、ルビのようなタイプの少年にとって、どう影響するかは、火を見るより明らかだった。 ルビは、箍を外されて遊び呆けてしまう。 結局、ルビは、1928年に、家族がドミニカに戻ることになった時点で、3度もカレの受験に失敗している。 この間、ルビと父親との間に、どのような会話があったかは、記録に残っていないが、察するにあまりある。英国の父親は、罰として、経済援助をストップしてしまう。そして、家族はパリのルビを残して母国に戻ってしまう。 「SELF-MADE Man」 独立独歩で成功した男を、英語では「SELFMADE Man」と表現する。 日本で思うよりはズット、欧米の家族の繋がりは深いから、大概、子供は家業を継ぐか、家族との繋がりのなかで人生を終える。「SELFMADE」=家族とは違う生き方で成功するのは、案外、特殊なことなのだ。 パリに一人、残されたことから、ルビの「SELFMADE」の人生が始まる。 とりあえず、一銭の金もなくしては、パリにとどまることはできない。それで、彼は初の冒険を試みる事にした。ルビは貨物船にまぎれこんで家族の後を追い、ドミニカのサントドミンゴまで辿りつく。 サントドミンゴは、ドミニカ共和国のなかでも植民地風の魅惑的な都会だった。 この時、ルビは19歳。無一文で、特定の職業もなく、カレの受験の失敗以来、家族のなかでも「浮いた」存在だった。ただ、水際立った美男で、パリでの13年間の生活によって身についた洗練された物腰と、教養があり、いやでも、街では目立った。 ありあまる時間と、故郷ドミニカの都会という舞台を得て、ルビは、自分の「生き方」を学んでいく。いわば、後年の華やかなプレイボーイの下地を創っていく。 ルビは、いつも午後は有名なコンデ通りで過ごした。そこには数々のバー、店や市場があり、プロムナードは、そぞろ歩く美しい女の子たちで溢れていた。恋を探すには格好の場所だった。夜は、パーテイ仲間とこの古い街を徘徊し、得意のダンスを踊り、時には売春宿にいったりもした。 ヤワなプレイボーイ気取りの男には無い、ルビのある種のタフさ、男らしい毅然とした態度には、このボヘミアン生活の裏づけがあったように思える。 後年の華やかなパリでの生活ばかりがクローズアップされて、この時代の記録が、あまり残っていないのが残念だが、無一文の若者が、夜の都会を徘徊する間には、リアルなトラブルもあったろうし、快楽だけではなく、ある種の刹那さに迷ったはずだ。 それが、単なるプレイボーイに終わらせない、ルビの人間の奥深さと、カリスマに繋がっていったように思う。 「転機」 1930年、ルビに転機が訪れる。父親が病に倒れ、ルビはその看病のために、ボヘミアン生活を切り上げて故郷のサンフランシスコ デ マコリスに戻る。 父親の病は重く、周囲も本人も、死を覚悟していた。ルビは、死に向かう父親と数ヶ月を過ごす。 死を覚悟した父親の言葉に敵う息子はいない。ルビは、サントドミンゴのロースクールに入学することを約束させられる。もとより、ボヘミアンや、街のチンピラに成りきるには、ルビは育ちが良すぎた。 父親の死後、ルビはサントドミンゴに住む姉のアナの家に寄宿し、父親と約束した通り、ロースクールに入学した。 時同じくして、ドミニカの独裁者といわれたトルフィーヨ将軍が国の政権を握った。ここから、ルビの人生が大きく動いて行く。 ルビは、或る日、サントドミンゴの由緒ある「カントリー クラブ」で、この老獪な独裁者と出会う。 将軍は、ルビの男らしい毅然さと、優雅な身のこなし、その出自に強い印象を受けた。政権を握ってから、将軍は自分の軍隊の将来を考え続けていたのだ。その「ニュープラン」のなかで、ルビは格好の人材と、将軍には思われた。 数日後、ルビは将軍に大統領官邸に招かれる。そして、官邸を出るときには、トルフィーヨ将軍の私設ガードに任命されていた。 このとき、独裁者にとって、ルビは、「新しい軍隊」をアピールするための単なるアクセサリーに過ぎなかったのかもしれない。 老獪な将軍が、血筋はともかく、ルビが「軍人」に適切かどうかを見抜けなかったハズがない。或いは、独裁者特有の気まぐれだったのかもしれない。 だが、その気まぐれは、大きな代償を要求した。 「最初の結婚 フロール デ オロ トルフィーヨ」 1932年、ルビはパリへ赴任する。一文無しで貨物船に紛れ込んでパリを逃れて以来、4年振りの思い出の地だった。シャンゼリゼに、もう一度舞い戻ったとき、さぞや、感無量であったろう。 パリには、トルフィーヨ将軍の愛娘、フロール デ オロが留学していた。フロールは、黒い瞳と、健康的に日焼けした肌を持つラテン美人で、まだハイテイーンだった。 残された写真をみると、当時17歳という年齢にしては、フロールは、すでにラテン美人特有の少しダークな色気さえみせている。しかし、将軍の手厚い加護のもと育った彼女の実質は、いまだ無垢で、ロマンチックな夢を求める育ちの良い少女だった。 そんな彼女にとって、颯爽としたルビは童話の王子様のように見えたのかもしれない。父親の周りにいる無骨な男とは明らかに違っていた。 フロールがルビに夢中になるのに、時間は掛からなかった。 二人は、父親である独裁者のカントリーハウスで、乗馬を楽しみ、ルビは彼女にギターを奏でながら愛の歌を囁いた。二人の恋は、ゴシップとして、周知の事実となり、ついには独裁者の知るところとなった。 困ったことに、将軍は娘の未来に「プラン」を描いていた。ゆくゆくは、どこかの王族に嫁がせようと思っていたのだ。当然、ルビは将軍の逆鱗に触れ、軍を解雇される。 そして、オザマ川の土手にある、16世紀初頭に建てられた伝説の砦フォリタリーザ オザマの、これもいわくつきの塔、トーレ ド オマージュにルビを幽閉してしまう。 、、、まるで、「岩窟王」みたいだ。 このコーラルロックで建造されたゴシック風のいかめしい塔は、1970年まで(つまり、トルフィーヨ将軍が亡くなるまで)牢獄として使われていた。ペーニャ・ゴメス、ホアン・ボッシェなど数多くの高名な政治犯が幽閉されたことでも知られ、この独裁者のお気に入りだった。 (この、オザマ砦、トーレ ド オマージュについては、数多くの逸話が残っていて、メッポウ魅力的で、いつか書き残したい。) しかし、ルビは決して動揺しなかった。ルビのタフさ、強さ、そして誰もがルビに一目置いたのは、この、一種の精神の高貴さだったのかもしれない。 結局、将軍は愛娘の嘆願に負ける形で、二人の結婚を許す。この時、ルビは23歳、フロールは17歳だった。 1932年12月3日、ルビとフロールの結婚式がとり行われる。ドミニカの各新聞が、派手に、その一面で取り上げ、式には外国からの貴賓も駆けつけた。さながら、ロイヤルウエデイングのようだった。この時の写真でみるルビは、30年代のエレガントなモーニングを着て、屈託のない笑顔を見せている。 ルビの生涯にわたる、どの写真を見ても、この笑顔の屈託のなさというのは共通している。 これは、晩年のボニ ド カステラーネが、その波乱に富んだ人生にも関わらず、昔と変らぬ悠然としたエレガンスを保ち続けたのと似ている。それは、多分、計算されたものというよりは、本人の「質」なのだろう。そして、この何物にも揺るがない「質」というのが、人の精神の高貴さとか、世の中がいうエレガントさの「本質」なのかもしれない。 1934年、ルビは大佐として軍に復帰する。 ルビとフロールのカップルは、御伽噺の恋人たちのように、楽しげで無垢だった。フロールにしてみれば、ルビは自分への愛のために、一旦は牢獄に幽閉された「愛の殉教者」であり、まさにロマンチックな小説を地でいく「お姫さまを救け出してくれる王子様」だった。 若いルビも、少し舞い上がっていたようで、この時期、柄にもなく投資や、ビジネスに手を出し始める。独裁者が結婚祝いに、フロールに与えた5万ドルの大金を元手に、浚渫船(港の海底の泥や砂をさらう機械)を購入するが、結局、機械は上手く動かず、せっかくの大金を総て失ってしまう。 1936年、ルビはドイツへ赴任する。独裁者である義父は、ルビに大使館の代表、領事を命じた。これは、ルビにとって最初の大任だった。これ以降、ルビは、その父親と同じく、本格的に外交キャリアを歩んでいく。 そして、1937年には、パリ ドミニカ大使館の秘書官に任ぜられる。ルビの生来の華やかな社交性は、外交官にうってつけだった。ルビ自身も、天職として楽しんでいた。しかし、ルビのキャリアが充実する一方で、何故か、フロールとの結婚生活の雲行きが怪しくなっていく。 フロールにとっては、ルビは「私だけの」王子様であって欲しかったのだ。仕事や軍務に忙しい、野心を持った男たちは、いままでに幾人も見た。父親の取り巻きの男とは、ルビは違うと思ったのに、、、。 結局、フロールは、チョットしたイザコザをきっかけに、ドミニカに帰ってしまう。そして、父親にルビの不実な仕打ちを非難がましく訴える。 義父は、即座にルビとの離婚を、フロールに命じる。そして、当然、ルビの外交官としてのポジションは奪われ、それどころか、ドミニカにとって「ペルソナ ノン グラータ」(「好ましからざる人物」)というレッテルをつけられる。 1938年、ルビとフロールは離婚する。普通のプレイボーイ気取りの男ならば、ここで、その冒険譚も幕を閉じ、独裁者の不興を買った「好ましからざる人物」として、その存在も忘れ去られるものだが、ルビはつくづく強運の持ち主だった。 きっかけをつくってくれたのは、独裁者の3番目の妻であるマリアだった。(ちなみに、マリアと独裁者の間に生まれた息子、ラムフィは「世界最年少の将軍」といわれていた。なにしろ、独裁者は、10代に満たない少年を将軍に指名してしまったのだから。) マリアは、末の娘の出産のために、パリにやってきた。マリアとラムフィは以前から、ルビを慕っていた。第2次大戦へ向かおうとしているヨーロッパで、ルビは彼女たちの世話を親身になってする。無事、娘を出産し、故国に戻ったマリアは、夫に口添えする。独裁者も、ルビの妻への献身振りには満足だった。結局、ルビを外交官に復帰させ、パリの一等秘書官に任ずる。 準備は整った。、、、さあ、お楽しみはこれからだ。 「プレイボーイ」 ジュリアン ポタン大通りの、ルビのアパルトマンの隣に、ひとりの美女が住んでいた。時は、1940年、パリはナチ侵攻の暗い予感に震えていた。外交官として、日に日に増す不穏な空気を感じとっていたルビの毎日で、時折、出会う、隣の美女は唯一の楽しみだった。 美女の名は、ダニエル・ダリュー、当時「フランス一の美女」と謳われた女優だった。 ダリューは、生粋のパリジェンヌで、いかにもフランス好みの、シックで女振りの良い、美人女優だった。当時、既にシャルル・ポワイエと共演した「うたかたの恋」(1935年)などでスターとしての地位も確立し、もともとコンセルバトワールでチェロを学んでいた人なので、舞台でも成功をおさめていた。 1941年、ドミニカ共和国パリ大使館は、ナチによるパリ占領とともに、フランス中部の街、ウ”イシーへと移る。いわゆる、第二次対戦中(1940年ー1945年)のエタ・フランセと呼ばれる親独中立政権、ウ”イシー政府である。 この時期、ルビは夜の街頭で、不審な銃撃をうける。難は逃れたものの、その後、ルビは、他の外交官とともに、ゲシュタポによって、6ヶ月間も投獄されている。 大使館の移動とともに、ルビもウ”イシーへと移る。既に、ダリューとルビは深い仲になっていた。ウ”イシーに引っ越す直前、ルビはダリューにプロポーズする。結局、1942年、ウ”イシーで二人は結婚式を挙げることになる。 この結婚は、全世界中の新聞が書きたて、「ヨーロッパのスター女優を射止めた、ラテン男」、ルビの名は、2大陸で知れ渡ることになる。 当時、ダリューの人気は絶大で、ドイツをも含むヨーロッパ全土のステージ、映画で活躍していた。ダリューという人は、多分、デイートリッヒ同様、高いプロ意識を持った女優だったのだと思う。 観客はダリューに「パリジェンヌ」を求め、夢見た。ダリューも、それを具現化し、年々、シックでミステリアスな「性」を磨き上げた。 ダリューは恋人よりも、優れたプロの女優だった。確かに、魅力的で、その美しさを演出する才能もあった。ルビもそれを認め、誇りに思っていた。この時期、ダリューは美しく輝き、映画に舞台にと精力的に活動する。その結果、ルビはひとり、ウ”イシーに取り残されることになる。 ルビは、孤独に身をもてあまし、1945年に別の魅力的な女性に出会う。ジャーナリストで、「世界一、裕福な女」といわれた億万長者のアメリカ女性、ドリス・デュークである。 5年間の結婚生活の後、ルビはダリューと協議離婚する。 1947年、ルビとドリスはパリのドミニカ大使館で結婚式を挙げる。ルビにとっては3度目の結婚となる。二人は、リブゴーシュに3フロアーの館を買い、このころから、ルビはアートに興味を持ち始める。ドリス・デユークの莫大な資産の加護のもとに。特に、彼の18世紀のフランス絵画のコレクションは優れたものだった。 アートとともに、同時期に興味を抱いたのがポロだった。これは、ルビの生涯を通じての情熱となり、「金のかかる」趣味となる。 ルビは、主にパリのパガテールガーデンにあるクラブを本拠地としていた。ポロ クラブは、当時、各国王室をはじめ、富と時間に恵まれたインターナショナルな有閑人種が集まる社交の場所だった。 ちなみに、ルビがオーナーを務めるポロチーム「チバオ パンパ」は、ルビの友人でもある女優ジャンヌ・モローの主演作「恋人たち」で、その雄姿を見ることができる。 きしくも、結婚後すぐに、ルビはアルゼンチン大使を命ぜられる。ラテン、ヒスパニック国の間では、最も洗練された魅惑的な都市、ブエノスアイレスは当時、ポロのワールドセンターだったのだ。 ルビは、ドリスとともに、赴任し、アルゼンチンの全紙が、この世界的に有名なプレイボーイの外交官と、世界一裕福な女性との世紀のカップルの赴任を書きたてた。 当然、二人はブエノスアイレスの社交界、外交の中心となった。 ルビは、ポロに夢中になり、夜はブエノスアイレスの濃厚な闇でタンゴを踊った。時の政権は、あのペロン政権だった。当時、中立国として大戦に参戦しなかったブエノスアイレスの社交界は、昔ながらのクラスと、カリスマ、ペロンを筆頭とする新政府派、そしてヨーロッパからの戦争亡命者も入り乱れて、ことほど煌びやかで、その実、裏に闇をもっていた。 ドミニカの外交カードとしては、ルビとドリスのカップルは格好の切り札と思われたが、或る日、突然、ルビはトリフィーヨ将軍にサントドミンゴに呼び戻される。そこで、つきつけられた現実は、アルゼンチン大使、ルビの解任だった。 トルフィーヨ将軍にとって、ルビはどういう存在だったのか。最愛の娘の元夫、元義理の息子、プレイボーイとして世界的な知名度を得た部下、、、。あるときは、突然、解任し、また或る時は、抜擢し、褒美を与える、、、。 将軍が暗殺されるまで、ルビとトルフィーヨ将軍の、この奇妙な関係は、ゲームのように続いた。 結局、このイザコザの後、パリに二人は戻り、そして、1948年、ドリス・デユークはルビに離婚を申し渡す。離婚にいたる経緯には、様々なスキャンダルがあったという。 ドリスは、離婚の慰謝料として、自家用機を一台、リブゴーシュの館、そして「ルビが再婚しないかぎり」、年に2万5千ドルをルビに払い続けることを約束した。 、、、Y氏にささぐ。 contact 「六義」 中央区銀座一丁目21番9号 phone 03-3563-7556 e-mail bespoke@rikughi.co.jp copyright 2005 Ryuichi Hanakawa
by rikughi
| 2005-11-03 23:33
| 3.プレイボーイ その1
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INDEX プロローグ 「ダンデイというスタイル」 1. スタイル ボニ・カステラーネ侯爵 1. ボニ・カステラーネ侯爵 2. ボニ・カステラーネ侯爵 3. ボニ・カステラーネ侯爵 4. 「私のワードローブから」 1.ソックスをめぐるダンデイズム 2.美しいシャツ その壱 3.美しいシャツ その弐 4.タウンスーツ 「百歳堂 散策日誌」 ウイーンの仕立て屋 モンマルトルの恋人 京都のお化け ニューヨークのダンデイ 「六義 コレクション帖」 1. コレスポンデントシューズ 2. 「フィッテイング」 3. 「プレイドスーツ」 「男の躾け方」 1 「洗濯」 2 「睡眠」 3 「磨く」 4 「捨てる」 5 「友人」 「大人の お伽噺」 1.本物の金持ち 2.スノッブ 3.プレイボーイ その1 4.プレイボーイ その2 「百歳堂 交遊録」 「日々の愉しみ」 1.シャツとネクタイ 2.旅支度 3. My Favorite Shop 私家版・サルトリアル ダンデイ 1.19世紀と20世紀 その壱 2.19世紀と20世紀 その弐 3.19世紀と20世紀 その参 4.荷風と鏡花 「江戸趣味」 ■ 愛人 「愛人」 Ⅰ 「愛人」 Ⅱ 「愛人」 Ⅲ 「愛人」 Ⅳ 「愛人」 Ⅴ フォロー中のブログ
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クラシックな「紳士用品店」をはじめました、 「Classichaberdasher 六義 」 www.rikughi.co.jp (*ほぼ毎日更新、初めて訪れる方は会員登録が必要です) このブログは、4つのブログと関連して存在しています、 「六義庵百歳堂」 最初に書き出したもので、サブタイトルの「人生が二度あれば」というのは、二度とないので、いまの自分を愉しみましょうという反語のつもりでした、なんとか半世紀を越えて生きてきて今一度「人生は愉しい」ということを再認識するために書き出したものです、年々、呆けていきますから。 極めて、マイペースで書いています。 「百歳堂毘日乗」 文章の完成度や、テーマの整合性を考えずに、思いついたことを綴るものが欲しくて始めたものです、ある意味、アバンギャルドにしたいと願っています 「テーラー六義」 六義のテーラリングについての拘りです、少し拘りがあります 「Bespoke Shoes 六義」(NEW) 六義のビスポークシューズについての拘りです、先鋭的なクラッシックを目指しています それぞれのブログへの移動は、「リンク」をご利用下さい、 では、貴方が少しでも愉しまれることを願って、少しづつ筆を進めます、 百歳堂 敬白 その他のジャンル
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