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「大人の お伽噺」 3 プレイボーイ




「人生は、思っているより短いンだ。だから、私は、この一夜の夢ともいえる私の人生において、素敵な女の子と、ちょっとした冒険のほかには興味を持たないことにしている。」
(最後のプレイボーイといわれたポルフィオ・ルビローザ、通称 ルビ、の言葉。



「大人の お伽噺」 3 プレイボーイ_d0004856_014349.jpg1965年7月16日付けの「ル モンド」紙を開くと、よくある交通事故のひとつにしては、大きく紙面をさいた記事に目が止まることだろう。

記事の横には、粒子の粗いモノクロ写真が一枚。そこには、優雅なブローニュの森に突っこんで、無残にもフロントがつぶれたフェラーリが映っている。

運転していた男は、即死だった。

事故時刻が深夜未明であったことから、目撃者も少なかったが、それでも、ブローニュ近くのレーヌ マルゲリット アベニューをかなりなスピードで疾駆する赤いフェラーリーが見咎められていること、そして男の身体からアルコールが検出されたことから、酔っ払い運転の末の事故とパリ警察は判断した。


その記事が、他と少し違っていたのは、事故とともに記された、その男の華麗な経歴だった。


曰く、、、4人の魅力的な大金持ちの女性との4度の結婚。レーシングドライバーであり、優勝したポロチームのオーナー。自身も優れたポロプレイヤーとして知られ、外交官としての肩書きもある。


このドミニカ生まれの男の死につけられたタイトルは、「世界的なプレイボーイ、’ルビ’ 死す」だった。


『1978年 パリ』   


ルビの死から13年が経った70年代後半、私はロンドンからパリへ移ることにした。どういう理由からなのか、或いは、もとより、訳などナカッタのか、その時、とにかく、私はトコトン遊び呆けたかった。


とり急ぎ、当時流行っていた、テッド・ラピドス(メンズウエアでは当時、流行の先端で、吊るしではなくチャンとタイユールもあった)の店に駆け込み、グレーフランネルのやけにショルダーの張った、3ピースを誂え、私は夜な夜なナイトクラブに通った。私も、パリの夜も若く、夜明けのコンコルド広場の寂しげな噴水も、怪しげなピガールの路地を曲がるときも、それは異国の夜風の匂いとともに、何かワクワクさせる予感を残した。

歳月が多くのことを忘れさせた今でも、あの美しい夏の夜明けが、パリの街にひろがっていく瞬間を思い出すことが出来る。

私は、眠ることさえ惜しかった。夜明けまで遊び、昼には、友人とクリニョンでランチを愉しんでいた。それでも、私は活気に満ちていた。



事故の前日、ルビのポロチームは、「パガテール クラブ」で行われたオープントーナメントで優勝を果たしたところだった。ウワサでは、ルビは試合直後から祝杯のシャンパンを空けはじめ、そのまま一行は、夜の祝勝会に雪崩込んだという。ルビは、これまでそうであったように、勝利の美酒を思う存分味わい、店で一番高価なシャンパンがミネラルウオーターのように、次々と空けられた。

結局、祝勝会がお開きになったのは、翌朝5時のことだった。カナリなドンチャン騒ぎの夜ではあったが、ルビにしては珍しいことではなかった。事実、いつものように、彼の完璧な服装は、宴の後でも、少しの乱れもなかった。
ルビは、友人と今日のランチの約束をして、愛車のフェラーリに乗り込むと、エンジンを全開にした。そして、、、彼の、あのチャーミングな微笑みは二度と見る事ができなくなった。


ルビのエレガントな物腰、マナー、女の子の扱い方、そして、少し無鉄砲なところ、、、生前、彼を真似ようとした者は、数限りない。女性だけではなく、そうしたエピゴーネンの男たちも、グルーピーのように、彼の一挙手一投足の観察に熱心だった。
しかし、誰も彼のようにはなれなかった。哀れな模倣が生まれただけだった。
ルビにはカリスマがあった。それは、ルビ、そのものであり、エピゴーネンたちが即席にマネできるものではなかった。


事実、ルビの死後においてもプレイボーイを気取る社交人種、輩は枚挙の暇がない。しかし、ルビのようなタイプのプレイボーイはいなくなった。

それは、一種の冒険家、、、無謀ともいえる情熱と速度で、人生を、うらやましいほど魅惑的な冒険物語に仕立てしまう男、と言えるかもしれない。



このとき、私は、、、

金や時間を惜しむのにクヨクヨするのはウンザリだった。
人生の「成り行き」というのに、一度、この身をまかせてみたかった。
何故か、自分では強運だと信じていた。

「考え」ていることは、無意味なような気がした。もっと、肉感的な事実を味わいたかった。








「SALAD DAYS for Playboy」

ルビは、1909年、武勇で知られたドミニカの将軍、ドン・ペドロ・ルビローザの末っ子として生まれた。終生、彼の愛称となる‘ルビ‘は、当時、兄弟たちがヤンチャな末の弟につけたものだ。

生地は、ドミニカ共和国の北部、チバオバレーの街、サンフランシスコ デ マコリスだった。
サンフランシスコ デ マコリスは、自然に恵まれた田舎町で、厳しいけれど男らしい父親、愛情に満ちた母親、仲の良い兄弟に囲まれ、ルビは素直で幸せな幼年期を過ごす。


ルビが6歳のとき、家族に劇的な変化が訪れる。父親が、軍務から外交キャリアに進むことを決心したのだ。1915年、父親のフランス領事館への転勤に伴って、家族は田舎町から、エレガントなパリ ジョルジュビレ 2番地へと移り住むことになる。

この時代に、ドミニカからパリへ外交官として赴任してくるということは、それなりのエリート層といえるだろう。ルビは、この後、13年間、パリジャンとして自由な少年期を送る。


記録では、ルビは16歳のとき、モンマルトルで、はじめての情事を持ったとされている。第一次大戦をルビは、パリで体験し、ベルエポックの時代よりはエレガントさに欠けていたにせよ、戦勝気分で、より陽気で、自由であったコスモポリタン、パリで早熟な少年期を満喫する。ルビの人生は、順風満帆と思われた。


しかし、ルビは人生をエンジョイするのに急ぎすぎた。ルビは、学校よりもスポーツや女の子や音楽に夢中になった。父方も、母方も筋金入りの職業軍人の家系から考えれば、ハッキリ言えば「オチこぼれ」だった。(私の偏見では、「良い」プレイボーイは、エリート家庭の「育ちの良いオチこぼれ」から生まれるという「黄金律」があるように思う。)


ルビは、カレの受験に失敗してしまう。両親の落胆は大きく、特に父親からはキツク叱られた。1926年、父親は外交官として英国に転任するが、ルビだけは、カレの再受験に備えるため、家族と離れてパリの寄宿学校に残ることになる。ルビは、パリで一人になる。これが、ルビのようなタイプの少年にとって、どう影響するかは、火を見るより明らかだった。

ルビは、箍を外されて遊び呆けてしまう。

結局、ルビは、1928年に、家族がドミニカに戻ることになった時点で、3度もカレの受験に失敗している。

この間、ルビと父親との間に、どのような会話があったかは、記録に残っていないが、察するにあまりある。英国の父親は、罰として、経済援助をストップしてしまう。そして、家族はパリのルビを残して母国に戻ってしまう。


「SELF-MADE Man」

独立独歩で成功した男を、英語では「SELFMADE Man」と表現する。
日本で思うよりはズット、欧米の家族の繋がりは深いから、大概、子供は家業を継ぐか、家族との繋がりのなかで人生を終える。「SELFMADE」=家族とは違う生き方で成功するのは、案外、特殊なことなのだ。

パリに一人、残されたことから、ルビの「SELFMADE」の人生が始まる。


とりあえず、一銭の金もなくしては、パリにとどまることはできない。それで、彼は初の冒険を試みる事にした。ルビは貨物船にまぎれこんで家族の後を追い、ドミニカのサントドミンゴまで辿りつく。



サントドミンゴは、ドミニカ共和国のなかでも植民地風の魅惑的な都会だった。

この時、ルビは19歳。無一文で、特定の職業もなく、カレの受験の失敗以来、家族のなかでも「浮いた」存在だった。ただ、水際立った美男で、パリでの13年間の生活によって身についた洗練された物腰と、教養があり、いやでも、街では目立った。

ありあまる時間と、故郷ドミニカの都会という舞台を得て、ルビは、自分の「生き方」を学んでいく。いわば、後年の華やかなプレイボーイの下地を創っていく。


ルビは、いつも午後は有名なコンデ通りで過ごした。そこには数々のバー、店や市場があり、プロムナードは、そぞろ歩く美しい女の子たちで溢れていた。恋を探すには格好の場所だった。夜は、パーテイ仲間とこの古い街を徘徊し、得意のダンスを踊り、時には売春宿にいったりもした。

ヤワなプレイボーイ気取りの男には無い、ルビのある種のタフさ、男らしい毅然とした態度には、このボヘミアン生活の裏づけがあったように思える。
後年の華やかなパリでの生活ばかりがクローズアップされて、この時代の記録が、あまり残っていないのが残念だが、無一文の若者が、夜の都会を徘徊する間には、リアルなトラブルもあったろうし、快楽だけではなく、ある種の刹那さに迷ったはずだ。


それが、単なるプレイボーイに終わらせない、ルビの人間の奥深さと、カリスマに繋がっていったように思う。


「転機」

1930年、ルビに転機が訪れる。父親が病に倒れ、ルビはその看病のために、ボヘミアン生活を切り上げて故郷のサンフランシスコ デ マコリスに戻る。


父親の病は重く、周囲も本人も、死を覚悟していた。ルビは、死に向かう父親と数ヶ月を過ごす。

死を覚悟した父親の言葉に敵う息子はいない。ルビは、サントドミンゴのロースクールに入学することを約束させられる。もとより、ボヘミアンや、街のチンピラに成りきるには、ルビは育ちが良すぎた。

父親の死後、ルビはサントドミンゴに住む姉のアナの家に寄宿し、父親と約束した通り、ロースクールに入学した。


時同じくして、ドミニカの独裁者といわれたトルフィーヨ将軍が国の政権を握った。ここから、ルビの人生が大きく動いて行く。


ルビは、或る日、サントドミンゴの由緒ある「カントリー クラブ」で、この老獪な独裁者と出会う。

将軍は、ルビの男らしい毅然さと、優雅な身のこなし、その出自に強い印象を受けた。政権を握ってから、将軍は自分の軍隊の将来を考え続けていたのだ。その「ニュープラン」のなかで、ルビは格好の人材と、将軍には思われた。

数日後、ルビは将軍に大統領官邸に招かれる。そして、官邸を出るときには、トルフィーヨ将軍の私設ガードに任命されていた。

このとき、独裁者にとって、ルビは、「新しい軍隊」をアピールするための単なるアクセサリーに過ぎなかったのかもしれない。

老獪な将軍が、血筋はともかく、ルビが「軍人」に適切かどうかを見抜けなかったハズがない。或いは、独裁者特有の気まぐれだったのかもしれない。 だが、その気まぐれは、大きな代償を要求した。


「最初の結婚  フロール デ オロ トルフィーヨ」

1932年、ルビはパリへ赴任する。一文無しで貨物船に紛れ込んでパリを逃れて以来、4年振りの思い出の地だった。シャンゼリゼに、もう一度舞い戻ったとき、さぞや、感無量であったろう。


パリには、トルフィーヨ将軍の愛娘、フロール デ オロが留学していた。フロールは、黒い瞳と、健康的に日焼けした肌を持つラテン美人で、まだハイテイーンだった。

残された写真をみると、当時17歳という年齢にしては、フロールは、すでにラテン美人特有の少しダークな色気さえみせている。しかし、将軍の手厚い加護のもと育った彼女の実質は、いまだ無垢で、ロマンチックな夢を求める育ちの良い少女だった。
そんな彼女にとって、颯爽としたルビは童話の王子様のように見えたのかもしれない。父親の周りにいる無骨な男とは明らかに違っていた。


フロールがルビに夢中になるのに、時間は掛からなかった。 


二人は、父親である独裁者のカントリーハウスで、乗馬を楽しみ、ルビは彼女にギターを奏でながら愛の歌を囁いた。二人の恋は、ゴシップとして、周知の事実となり、ついには独裁者の知るところとなった。

困ったことに、将軍は娘の未来に「プラン」を描いていた。ゆくゆくは、どこかの王族に嫁がせようと思っていたのだ。当然、ルビは将軍の逆鱗に触れ、軍を解雇される。

そして、オザマ川の土手にある、16世紀初頭に建てられた伝説の砦フォリタリーザ オザマの、これもいわくつきの塔、トーレ ド オマージュにルビを幽閉してしまう。「大人の お伽噺」 3 プレイボーイ_d0004856_175385.jpg

、、、まるで、「岩窟王」みたいだ。

このコーラルロックで建造されたゴシック風のいかめしい塔は、1970年まで(つまり、トルフィーヨ将軍が亡くなるまで)牢獄として使われていた。ペーニャ・ゴメス、ホアン・ボッシェなど数多くの高名な政治犯が幽閉されたことでも知られ、この独裁者のお気に入りだった。
(この、オザマ砦、トーレ ド オマージュについては、数多くの逸話が残っていて、メッポウ魅力的で、いつか書き残したい。)


しかし、ルビは決して動揺しなかった。ルビのタフさ、強さ、そして誰もがルビに一目置いたのは、この、一種の精神の高貴さだったのかもしれない。


結局、将軍は愛娘の嘆願に負ける形で、二人の結婚を許す。この時、ルビは23歳、フロールは17歳だった。

1932年12月3日、ルビとフロールの結婚式がとり行われる。ドミニカの各新聞が、派手に、その一面で取り上げ、式には外国からの貴賓も駆けつけた。さながら、ロイヤルウエデイングのようだった。この時の写真でみるルビは、30年代のエレガントなモーニングを着て、屈託のない笑顔を見せている。

ルビの生涯にわたる、どの写真を見ても、この笑顔の屈託のなさというのは共通している。

これは、晩年のボニ ド カステラーネが、その波乱に富んだ人生にも関わらず、昔と変らぬ悠然としたエレガンスを保ち続けたのと似ている。それは、多分、計算されたものというよりは、本人の「質」なのだろう。そして、この何物にも揺るがない「質」というのが、人の精神の高貴さとか、世の中がいうエレガントさの「本質」なのかもしれない。

1934年、ルビは大佐として軍に復帰する。

ルビとフロールのカップルは、御伽噺の恋人たちのように、楽しげで無垢だった。フロールにしてみれば、ルビは自分への愛のために、一旦は牢獄に幽閉された「愛の殉教者」であり、まさにロマンチックな小説を地でいく「お姫さまを救け出してくれる王子様」だった。

若いルビも、少し舞い上がっていたようで、この時期、柄にもなく投資や、ビジネスに手を出し始める。独裁者が結婚祝いに、フロールに与えた5万ドルの大金を元手に、浚渫船(港の海底の泥や砂をさらう機械)を購入するが、結局、機械は上手く動かず、せっかくの大金を総て失ってしまう。

1936年、ルビはドイツへ赴任する。独裁者である義父は、ルビに大使館の代表、領事を命じた。これは、ルビにとって最初の大任だった。これ以降、ルビは、その父親と同じく、本格的に外交キャリアを歩んでいく。


そして、1937年には、パリ ドミニカ大使館の秘書官に任ぜられる。ルビの生来の華やかな社交性は、外交官にうってつけだった。ルビ自身も、天職として楽しんでいた。しかし、ルビのキャリアが充実する一方で、何故か、フロールとの結婚生活の雲行きが怪しくなっていく。


フロールにとっては、ルビは「私だけの」王子様であって欲しかったのだ。仕事や軍務に忙しい、野心を持った男たちは、いままでに幾人も見た。父親の取り巻きの男とは、ルビは違うと思ったのに、、、。


結局、フロールは、チョットしたイザコザをきっかけに、ドミニカに帰ってしまう。そして、父親にルビの不実な仕打ちを非難がましく訴える。


義父は、即座にルビとの離婚を、フロールに命じる。そして、当然、ルビの外交官としてのポジションは奪われ、それどころか、ドミニカにとって「ペルソナ ノン グラータ」(「好ましからざる人物」)というレッテルをつけられる。


1938年、ルビとフロールは離婚する。普通のプレイボーイ気取りの男ならば、ここで、その冒険譚も幕を閉じ、独裁者の不興を買った「好ましからざる人物」として、その存在も忘れ去られるものだが、ルビはつくづく強運の持ち主だった。


きっかけをつくってくれたのは、独裁者の3番目の妻であるマリアだった。(ちなみに、マリアと独裁者の間に生まれた息子、ラムフィは「世界最年少の将軍」といわれていた。なにしろ、独裁者は、10代に満たない少年を将軍に指名してしまったのだから。)


マリアは、末の娘の出産のために、パリにやってきた。マリアとラムフィは以前から、ルビを慕っていた。第2次大戦へ向かおうとしているヨーロッパで、ルビは彼女たちの世話を親身になってする。無事、娘を出産し、故国に戻ったマリアは、夫に口添えする。独裁者も、ルビの妻への献身振りには満足だった。結局、ルビを外交官に復帰させ、パリの一等秘書官に任ずる。



準備は整った。、、、さあ、お楽しみはこれからだ。


「プレイボーイ」

ジュリアン ポタン大通りの、ルビのアパルトマンの隣に、ひとりの美女が住んでいた。時は、1940年、パリはナチ侵攻の暗い予感に震えていた。外交官として、日に日に増す不穏な空気を感じとっていたルビの毎日で、時折、出会う、隣の美女は唯一の楽しみだった。

美女の名は、ダニエル・ダリュー、当時「フランス一の美女」と謳われた女優だった。


ダリューは、生粋のパリジェンヌで、いかにもフランス好みの、シックで女振りの良い、美人女優だった。当時、既にシャルル・ポワイエと共演した「うたかたの恋」(1935年)などでスターとしての地位も確立し、もともとコンセルバトワールでチェロを学んでいた人なので、舞台でも成功をおさめていた。

ダリューは、驚くほど芸暦の長い女優さんで、30年代、40年代だけではなく、50年代には名作「輪舞<ロンド>」、ジェラール・フィリップと共演した「赤と黒」、60年代にはフレンチスター総出演の名匠ジュリアン・デユウ"イウ"イエの「フランス式十戒」、ジャック・ドウミの「ロシフォールの恋人」など各年代で息が切れることなく活躍している。最近では、2002年の「8人の女たち」で、カトリーヌ・ドヌーブのお母さん役で登場したのには驚いた。



1941年、ドミニカ共和国パリ大使館は、ナチによるパリ占領とともに、フランス中部の街、ウ”イシーへと移る。いわゆる、第二次対戦中(1940年ー1945年)のエタ・フランセと呼ばれる親独中立政権、ウ”イシー政府である。
この時期、ルビは夜の街頭で、不審な銃撃をうける。難は逃れたものの、その後、ルビは、他の外交官とともに、ゲシュタポによって、6ヶ月間も投獄されている。


大使館の移動とともに、ルビもウ”イシーへと移る。既に、ダリューとルビは深い仲になっていた。ウ”イシーに引っ越す直前、ルビはダリューにプロポーズする。結局、1942年、ウ”イシーで二人は結婚式を挙げることになる。

この結婚は、全世界中の新聞が書きたて、「ヨーロッパのスター女優を射止めた、ラテン男」、ルビの名は、2大陸で知れ渡ることになる。


当時、ダリューの人気は絶大で、ドイツをも含むヨーロッパ全土のステージ、映画で活躍していた。ダリューという人は、多分、デイートリッヒ同様、高いプロ意識を持った女優だったのだと思う。
観客はダリューに「パリジェンヌ」を求め、夢見た。ダリューも、それを具現化し、年々、シックでミステリアスな「性」を磨き上げた。

ダリューは恋人よりも、優れたプロの女優だった。確かに、魅力的で、その美しさを演出する才能もあった。ルビもそれを認め、誇りに思っていた。この時期、ダリューは美しく輝き、映画に舞台にと精力的に活動する。その結果、ルビはひとり、ウ”イシーに取り残されることになる。

ルビは、孤独に身をもてあまし、1945年に別の魅力的な女性に出会う。ジャーナリストで、「世界一、裕福な女」といわれた億万長者のアメリカ女性、ドリス・デュークである。

5年間の結婚生活の後、ルビはダリューと協議離婚する。


1947年、ルビとドリスはパリのドミニカ大使館で結婚式を挙げる。ルビにとっては3度目の結婚となる。二人は、リブゴーシュに3フロアーの館を買い、このころから、ルビはアートに興味を持ち始める。ドリス・デユークの莫大な資産の加護のもとに。特に、彼の18世紀のフランス絵画のコレクションは優れたものだった。

アートとともに、同時期に興味を抱いたのがポロだった。これは、ルビの生涯を通じての情熱となり、「金のかかる」趣味となる。

ルビは、主にパリのパガテールガーデンにあるクラブを本拠地としていた。ポロ クラブは、当時、各国王室をはじめ、富と時間に恵まれたインターナショナルな有閑人種が集まる社交の場所だった。


ちなみに、ルビがオーナーを務めるポロチーム「チバオ パンパ」は、ルビの友人でもある女優ジャンヌ・モローの主演作「恋人たち」で、その雄姿を見ることができる。

きしくも、結婚後すぐに、ルビはアルゼンチン大使を命ぜられる。ラテン、ヒスパニック国の間では、最も洗練された魅惑的な都市、ブエノスアイレスは当時、ポロのワールドセンターだったのだ。 ルビは、ドリスとともに、赴任し、アルゼンチンの全紙が、この世界的に有名なプレイボーイの外交官と、世界一裕福な女性との世紀のカップルの赴任を書きたてた。

当然、二人はブエノスアイレスの社交界、外交の中心となった。

ルビは、ポロに夢中になり、夜はブエノスアイレスの濃厚な闇でタンゴを踊った。時の政権は、あのペロン政権だった。当時、中立国として大戦に参戦しなかったブエノスアイレスの社交界は、昔ながらのクラスと、カリスマ、ペロンを筆頭とする新政府派、そしてヨーロッパからの戦争亡命者も入り乱れて、ことほど煌びやかで、その実、裏に闇をもっていた。

ドミニカの外交カードとしては、ルビとドリスのカップルは格好の切り札と思われたが、或る日、突然、ルビはトリフィーヨ将軍にサントドミンゴに呼び戻される。そこで、つきつけられた現実は、アルゼンチン大使、ルビの解任だった。

トルフィーヨ将軍にとって、ルビはどういう存在だったのか。最愛の娘の元夫、元義理の息子、プレイボーイとして世界的な知名度を得た部下、、、。あるときは、突然、解任し、また或る時は、抜擢し、褒美を与える、、、。
将軍が暗殺されるまで、ルビとトルフィーヨ将軍の、この奇妙な関係は、ゲームのように続いた。

結局、このイザコザの後、パリに二人は戻り、そして、1948年、ドリス・デユークはルビに離婚を申し渡す。離婚にいたる経緯には、様々なスキャンダルがあったという。

ドリスは、離婚の慰謝料として、自家用機を一台、リブゴーシュの館、そして「ルビが再婚しないかぎり」、年に2万5千ドルをルビに払い続けることを約束した。








 





、、、Y氏にささぐ。
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copyright 2005 Ryuichi Hanakawa

by rikughi | 2005-11-03 23:33 | 3.プレイボーイ その1


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