「眠りにつくときに、翌朝、目覚めることを楽しみにしている人間は、幸福である。」 「優雅なる無関心」 公は、ホーズ&カーテイスでシャツをつくる際に、シャツ生地で、幾つもボウタイを作らせている。コレを、春夏のスーツに、よく合わせているのだが、タイではなくて、コットンのボウタイなのが、品の良さと、不思議に軽やかなカジュアル感を醸し出して、秀逸な着こなしだと思う。 写真で見る限り、公のボウタイの結び方は、デインプルをつくらない、ナチュラルな結び方で、これは、気取りのない優雅さを感じさせる。 ウインザー公が、「ウインザーノット」でタイを結んだことは、生涯なかったというのは、有名な事実だが、タイも、デインプルをつくらない、シンプルなプレーンノットかダブルノットだった。 面白いことに、少年期や青年期の初め頃には、キチンとタイを締め上げて、公は写真に収まっている。それが、ウインザー公としてのスタイルが出来上がるとともに、結び方も変わっていく。 そこには、公の内容の変化があったはずなのだが、そう言えば、公がどういう人物なのか、最後には、どういう人物として、死を迎えたのか、そういう、公の内面を示した記述は、資料を探ってみたが、意外に少ない。 「スタイル」というものが、人の内面と密接に関係するとすれば、そもそも、ウインザー公なる人物は、いかような人物だったのか? ダヌンツイオの「スタイル」なら、察することができる。それは、多分、「懐古的なエレガンスへの憧憬」と「ロマン的な英雄崇拝」から生まれたものだと思う。 事実、ダヌンツイオは、そういう人生を送ろうとしたし、ある意味、そういう人生を生きたと思う。敬愛すべきは、その「スタイル」の軸は、少なくとも、自身の内で完結し、生涯、ぶれることはなかったということだ。 翻って、ウインザー公の内実を、推測した時、奇妙な空白感を覚えるのは、何故だろう? 「王位放棄」後の、公の「政治活動」としては、幾度かにわたるドイツ訪問と、「有事の際(ヒットラーによるイギリス占拠ということか?)」には、英国の交渉窓口は、唯一ウインザー公とするという、ヒットラーとの、イノセントな「密約」ぐらいなもので(公の行動を不穏に思ったチャーチルによって、第二次大戦中は、バハマに総督として「幽閉」される。)、公が明確な意思を持った政治的人間であったとは思い難い。 また、或る夜のデイナーで、同席した紳士によると、公の話題は、カントリーハウスのガーデニングに終始したという。 また、乗馬や、狩猟など、公は、意外(?)にスポーツ好きで、特に、乗馬の障害競技を好み、落馬による、2度にわたる骨折を心配した家族をしりめに、障害競技をやり続けたという。 また、ウインザー公の回想録を読むと、やはり、それなりに興味深いが、一人の男の人生としては、どこか、生々しさに欠けるような気がする。翻って、「ウオリス・シンプソン」の生涯を考えれば、それは、一人の女性の生涯としては、かなり生々しく、ドラマチックだ、、、 こうして考えていくと、思い浮かぶのが「優雅なる無関心」という言葉だ。 ソサエテイーにおいて、最もエレガントとされるのが「優雅なる無関心」という態度で、これは、幼少時より、徹底的に教育される。しかし、今の時代に、この態度を、正確に説明するのも、実感として納得するのも、難しいと思う。 ここでいう、「無関心」という範囲は、物事に動じないというだけではなく、有事にあっては、自らの危険や死も意に介さないという所までをも含む。といって、「勇猛果敢」とか、「厭世観」とか「ニヒリズム」というのとも違う。自然に体が向かうというのが正解で、武士道とは、根本的に違う。 それは、「哲学的」なものではなく、身体に近いものなのだ。 これに、「優雅なる」という形容詞がつく所で、これは、モウ、付け焼刃では適わないことがわかる。これは、意識して身に着けるというものではない。 ウインザー公の人生に、スタイルがあるとすれば、それは、この「優雅なる無関心」に他ならないだろう。そういう意味では、前代未聞の「王位の放棄」は公のスタイルにおける頂点であり、それ以降は、一種の引退生活であったのだろう。 セシルビートンの言によると、戦後、公の表情には、しだいに、自身の「人生の空虚さ」への苛立ちがみえはじめたという。 「ウインザー公は、首を仰け反らせながら、無防備に笑うんだ。まるで、狂犬病にかかったテリアのように。」、、、 陽光ふりそそぐ、南仏の公の広大な別荘「La Croe」の毎日も、公の気分を安らがせはしなかったようだ。公は、落着きがなく、「失われた日々」に縋りつくように、日中はテラスで、バグパイプを奏でることが日課だった。そして、その物悲しいウエールズのメロデイーは、デイナーの合図まで続いた。 しかし、誰もが認めるところだが、それでも、公の生来のチャーミングさと、ある種のグラマラスさは消えなかった。それは、公に染み付いたもので、意識するとか、しないとかではなく、ウインザー公という存在そのものだった。 それこそが、公の「優雅さ」であって、それは、悲しいことに、人生の充足感とか、そのようなものとは別のところにあった。 私は、公のスタイルを、最も理解していた一人は、フレッド・アステアだと思う。聞くところによると、アステアは、ロンドン公演の際、楽屋を訪れたウインザー公の装いの、エレガントな「軽さ」に敬服したという。それで、さっそく、ホーンズ アンド カーテイスに駆け込み、公と同じ衣服を注文しようとしたが、ホーンズ アンド カーテイスは、これを丁重に断った。 結局、アステアは、アンダーソン アンド シェファードで、背広を作り、アンダーソン アンド シェファードは、アステアのおかげもあって、それ以降、サビルローでも、最もアメリカ人顧客の多い、米国の流行を追う特異な存在となる。 アステアが、仕立て上がった背広を、一度、壁にたたきつけてから着たという風説は、本当かどうか知らないが、アステアは、それ以降、「エアリーエレガンス(空気のように、軽やかなエレガンス)」と称される、ハリウッドでもダンデイとして知られるようになった。 この「軽やかさ」=「優雅なる無関心さ」というのが、エレガンスの本質だと見抜いたところが、さすが洒落道楽のアステアといえる。 実際、公の装いは、靴下に至る細部まで選び抜かれているが、といって「シリアス」さが無い。それは、公自身の人生のように、客観的には、波乱に満ちていながら、重苦しい現実の「シリアス」さからは、無縁なように見える。 極論すれば、公がどのような服を着ていようとも、或いは、自身の置かれた立場を、いまさら嘆いていようとも、多分、公は軽やかに、エレガントに映るようにさえ思う。 それは、拭いきれない「染み」のようなものだ。 「身についたエレガンス」というのは、良い仕立ての服を着続け、そういう生活を送り続けなければ身につかないが、かといって、金がかかった服や生活が「エレガンス」というわけでもない。 結局、そういったものがどうでもよくなって、それでも、そういう生活を、無作為に送り続けているうちに、それは、「染み」のように、ポツポツと現れてくるような気がする。 これを、別の角度から説明しているのが、「鬼火」で、この映画のモーリス・ロネをみたとき、コレは、ウインザー公の一変形だと思った。 この「エレガンス」のあり方は、極めてヨーロッパ的で、ある種の「クラス」にしか存在しないものだ。 この監督(ルイ・マル)は、どうして、コンナ映画を撮りたい思ったのか。筋としては、ナイーブすぎて、見る方が、かなり、のめり込まないと成立しないと思うのだが。しかし、確かに、昔は、こうした、無防備な「染み」のようなエレガンスを持った男がいた。 こうして、考えていくと、本質の「エレガンス」というのが、論理よりも身体に近いもので、意図するものではなく、より無意識にあるものだと分かってくる。そして、大袈裟にいえば、場合によっては、健全な人生を狂わせかねない「厄介な」ものでもあるような気がする。 多分、「ダンデイズム」というものも、ボー・ブランメルの最期をみるまでもなく、そんなモノなのだと思う。 しかし、アステアが、時折、ストライプのスーツにボタンダウンのシャツを合わせているのは、ホーンズアンド カーテイスへの彼なりの返答だったのだろうか。 contact 「六義」 中央区銀座一丁目21番9号 phone 03-3563-7556 e-mail bespoke@rikughi.co.jp copyright 2007 Ryuichi Hanakawa
by rikughi
| 2007-05-03 14:48
| 3.19世紀と20世紀 その参
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INDEX プロローグ 「ダンデイというスタイル」 1. スタイル ボニ・カステラーネ侯爵 1. ボニ・カステラーネ侯爵 2. ボニ・カステラーネ侯爵 3. ボニ・カステラーネ侯爵 4. 「私のワードローブから」 1.ソックスをめぐるダンデイズム 2.美しいシャツ その壱 3.美しいシャツ その弐 4.タウンスーツ 「百歳堂 散策日誌」 ウイーンの仕立て屋 モンマルトルの恋人 京都のお化け ニューヨークのダンデイ 「六義 コレクション帖」 1. コレスポンデントシューズ 2. 「フィッテイング」 3. 「プレイドスーツ」 「男の躾け方」 1 「洗濯」 2 「睡眠」 3 「磨く」 4 「捨てる」 5 「友人」 「大人の お伽噺」 1.本物の金持ち 2.スノッブ 3.プレイボーイ その1 4.プレイボーイ その2 「百歳堂 交遊録」 「日々の愉しみ」 1.シャツとネクタイ 2.旅支度 3. My Favorite Shop 私家版・サルトリアル ダンデイ 1.19世紀と20世紀 その壱 2.19世紀と20世紀 その弐 3.19世紀と20世紀 その参 4.荷風と鏡花 「江戸趣味」 ■ 愛人 「愛人」 Ⅰ 「愛人」 Ⅱ 「愛人」 Ⅲ 「愛人」 Ⅳ 「愛人」 Ⅴ フォロー中のブログ
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クラシックな「紳士用品店」をはじめました、 「Classichaberdasher 六義 」 www.rikughi.co.jp (*ほぼ毎日更新、初めて訪れる方は会員登録が必要です) このブログは、4つのブログと関連して存在しています、 「六義庵百歳堂」 最初に書き出したもので、サブタイトルの「人生が二度あれば」というのは、二度とないので、いまの自分を愉しみましょうという反語のつもりでした、なんとか半世紀を越えて生きてきて今一度「人生は愉しい」ということを再認識するために書き出したものです、年々、呆けていきますから。 極めて、マイペースで書いています。 「百歳堂毘日乗」 文章の完成度や、テーマの整合性を考えずに、思いついたことを綴るものが欲しくて始めたものです、ある意味、アバンギャルドにしたいと願っています 「テーラー六義」 六義のテーラリングについての拘りです、少し拘りがあります 「Bespoke Shoes 六義」(NEW) 六義のビスポークシューズについての拘りです、先鋭的なクラッシックを目指しています それぞれのブログへの移動は、「リンク」をご利用下さい、 では、貴方が少しでも愉しまれることを願って、少しづつ筆を進めます、 百歳堂 敬白 その他のジャンル
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