私家版サルトリアルダンデイ 4. 荷風と鏡花  「江戸趣味」 日本のダンデイズムと西洋のダンデイズム





番町の鏡花の家の格子戸のあく音聴こゆ秋の夜更けに
(吉井勇)



番町の鏡花の家は、小づくりな粋な江戸好みのしつらえで、表通りからすぐの玄関には緑色で「泉」とかかれた釣り行灯が天井からぶら下がっている、いまに残る、書斎で書き物に励んでいる鏡花の写真では、障子窓に面した机の横に使い込まれた長火鉢、そこには鉄瓶がシュンシュンと湯気をあげており、床の間には縦型の置時計と、軸のかわりに何やら円形の色紙のようなものが、大小5,6点飾られている。

鏡花はかなりの潔癖症で、あげくに「豆腐」の「腐(くさる)」という字を嫌い、かならず「豆府」と書いたという。その巧緻ともいえる作品は、この類稀な潔癖症の賜物なのか。それにしても、どこかで鏡花がせっせと作品を編み出していると思える時代の東京のなんと幸せなことよ。






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「むかし男」の塚涼しくて妖しくて
( 佐藤小枝 )











「日本の男のダンデイズム」と考えたとき、思い浮かぶのは、鏡花と荷風という「文学者」で、けれどそれは、鏡花が玄人好みの粋な着物を着ていたとか、荷風が背が高くて、若い時分の欧米遊学もあって着こなしが良かったとか、そういうのではない。多分、この二人が、その後の「日本の男のダンデイズム」というコンセプトの基礎を「小説」という形で作り出してしまったように思うからだ。


それを説明するには、荷風、鏡花が活躍した明治後期から大正にかけての文壇を今一度振り返る必要がある。それと、日本人にとっての「書物」という意味合いを考えなければいけないかもしれない。





ご存知のように、明治後期から大正にかけて日本の「小説」は大きな変革期を迎える。
それを簡単にいえば、「自然主義文学=リアリズム」の登場と、それを梃子とした「反自然主義」という反発である。


「自然主義」は19世紀末、エミール・ゾラによって定義され、フランスで興った文学運動で、「事実」と「真実」を描くために、小説的なファンタジー(美化)を一切、否定するというもので、つまり文学史上初めて「リアリズム」というのが定義される。
いまでこそ当たり前とも思われるこの手法も、それ以前のロマン主義あふれる小説世界からすれば、かなり衝撃的で、ゾラの「居酒屋」は社会現象ともなる。このゾラの定義以来、小説は近代化されたともいえるし、読者としては時に暗く出口のない個人的な問題につきあわされるハメになった、といえば言いすぎか。


この自然主義という波は、島村藤村の「破壊」や、田山花袋の「蒲団」という名作も生み出すが、反面、矮小化された「私小説」に、その後、疑問の声もあがることになる。ただ、当時、自然主義=リアリズムという概念は、かなり衝撃的で、それは「新しい小説」と「古臭い小説」を分けるリトマス紙ともなった。

鏡花は、この自然主義の台頭と、師である尾崎紅葉の病死によって後ろ盾も失い、一時、文壇からシャットアウトされてしまう。
それを、再評価したのが外遊帰りの荷風だった。



荷風という人物をどう捉えるか、これは正直いってよく分からない。いまとなっては、書物と足跡だけで推し量るしかない。

色々な人の書いた「荷風論」もあたってみたが、いまひとつ、どれもその人物像については茫洋としているように思う。曰く、「孤高」、「吝嗇」、「狷介」。つまり、荷風は「偉大な文学者」として分かりやすく振舞ってくれないのだ。だから、規範の「文学者論」のアプローチでは、荷風という人物に追いつけない。

ただ言えるのは、荷風が長男で、かつ生涯、家庭をもたなかった(1912年に斉藤ヨネと結婚、1913年、離婚。1914年、芸者八重次と結婚、1915年、離婚。たった3年間の家庭生活だった。)或いは、家庭を持つこと、家族をもつことを嫌ったことが、荷風という人物を知る大きなキーワードではないかと思う。

荷風は、「明治の人」というよりは、かなり現代人に近い精神の持ち主だったようにも思う。
「高学歴の恵まれた家庭環境」に生まれ、何よりも「自分の生活」、「便利」「得」を優先して人生を送りたいという姿勢、一流好み、一種の「被害妄想」、主義よりは「自身の感性」に従って変節も厭わない、価値を認めたものには金を出すが、余分なものには金をつかいたくないという「合理主義」。銀座や玉の井で遊んだが、住まいはつましく、3億の預金を残して孤独死をする。

精神的自由を楽しんだというのは分かるけれど、「生活」としては何かバーチャルなものを感じる。

「徳」をめざさないというのが荷風の生き方であり、荷風という「存在」で、荷風の「文学」と「私」を同一線上で捉えようというのは「覗き見趣味」以外意味がない。

ただ言えるのは、その生き方も含めて極めてオリジナルで、つい、「濹東綺譚」などの大家然とした江戸趣味に惑わされてしまうが、荷風は目まぐるしく変節していて、その創作アプローチはかなりコンセプチュアルだと思う。特に、42年間続く「断腸亭日乗」などは、世界でも類例のない書物で、荷風自身もそれを強く意図していたように思う。鏡花は、何よりその文章と、物語の語り口で天才だと思うが、荷風はもっと確信犯的にコンセプチュアルで、日本の小説の革新とオリジナリテイーを考えていた極めて現代的な作家だと思う。




当の荷風もゾライズムに傾倒し、自然主義的な「地獄の花」を書いている。同年、1902年、父親の勧めもあり、渡米する。ニューヨークの日本大使館に勤め、その後、これも父親の口利きで横浜正金銀行のニューヨーク支店に勤める、どうしてもパリに行きたかった荷風は、父親に頼み込んで、横浜正金銀行のリヨン支店に転じ、その後、銀行を辞めて、パリに遊ぶ。パリに行きたかったのは、「ゾライズム」を、その目で確かめたかったからだろうか。



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1908年に帰国。「あめりか物語」を著して文壇デビューするが、続く「ふらんす物語」は発禁処分となっている。
この時期、荷風は、「日本の自然主義文学の田舎じみた泥臭さに失望して、江戸文化へ傾倒」しはじめる。(「日本の自然主義文学の田舎じみた泥臭さに失望して」というところが、いかにも荷風らしい。この気質が荷風の原動力のような気がする。)

帰朝後の荷風が、かえって「日本の自然主義」に疑問を抱いて(或いは、体感的に嫌って)、日本人独自のものを探し、また魅かれていったというのは、個人的にはよく推測できる。
鋭敏な荷風は「ゾライズム」という新しい波をいち早く捉え、また自身の眼でその「本場」も体験したはずだが、それだけに猿真似や流行ではない、日本人のオリジナルな文学の必要性を痛切していた、或いは自身の創作活動を本物にしていくためにはそれが必要だった。そして、そのために荷風は「江戸」を選び取った。


結局、モノゴト皆総て、「本物」になるにはオリジナリテイーが何としても主軸であって、軸が借り物のエピゴーネンは真似の仕方がいかに器用であっても、所詮は代用品。その存在は、いつか消えていってしまう。

荷風は、公私にわたって他人に対して厳しかった。そのことは、言い換えれば「本物」と「偽物」ということに敏感だったと云うことだ。荷風は、体質的に「偽物」が許せなかったのだと思う。とくに、「本物面をした偽物」は、おぞましいとさえ思っていたように見える。



1910年、鴎外らの推薦により荷風は慶応の教授となり(荷風の教え子には、久保田万太郎や佐藤春夫らがいる。)、「三田文学」を創刊し、初代編集長となる。
同年(1910年)、荷風は、初代編集長として鏡花の「三味線堀」を、さっそく「三田文学」に掲載している。三田派の久保田万太郎や、佐藤春夫らすべてが、鏡花贔屓になったのは、荷風の影響ともいえるだろう。



荷風は何故、日本の小説のオリジナルテイーの軸として「江戸文化」を再評価し、傾倒していったのだろうか。

明治維新によって日本の近代は始まり、それは現代へとつながっている。つまり、この分かれ目で日本人のエトスも、また切り替わった、或いは「切り替わされた」ということになる。
それは、簡単にいえば「立身出世主義」という「理念」への転換である。

これは、ご存知のように、階級社会である近代以前の身分・家柄にかかわらず、学問を収めれば、社会で身を立てられるという「個の理念」である。では、近代以前の「理念」は何だったかというと、適当な言葉が見つからないが、あえていうと「奉公」という、いわば「道の理念」だと思う。

「道」という理念を、現代の日本人は理屈として知ってはいても、血としては既に失っている。
失ってはいるが、カサカサとした「傷痕(きずあと)」はどこかしらに残っているようにも思う。それは、肉体にドクドクと流れるものではないけれど、探せば、かろうじて骨の裏や神経の端に貴方も傷痕を見つけるかもしれない。

だからこそ、我々はどうしても、「江戸の侍」の美意識や、「江戸っ子」の粋に魅かれてしまう。そこには我々の損得勘定を背景とした理念では適わない、或る種の「美しさ」があるからだ。そして、その「美しさ」の源は「道」という理念にある。

「道」という理念は、西洋には存在しない。それは、ひとつの「規範」であり、宿命の上に命があった。極論すれば、あくまでも、宿命とか運命とかの中での「型」の美しさであり、「個」の精神の独立は認めていない。

「個」は、むしろ無いこと=「無我」が境地とされ、「自然」が「型」の最高位とされた。

だから、「個」の不羈独立を意味するダンデイズムは、近世以前の日本には存在しないということになる。しかし、西洋ダンデイズムに匹敵し、それを凌駕するオリジナルが日本にあるとすれば、それが「道」なのだと思う。

「精神」ではなく、「型」。
「個」ではなく、個を越えた「自然」。

「江戸っ子の粋」も、「侍の美意識」も「型」の美しさなのである。茶も書も、行き着く先は「自然」なのだ。

そこでは、「個」の精神のとまどいも、謀りごとも下品なものとされた。

いま一度、覚えておきたいのは近世以前の日本はそれだけ独自で、世界の中でも強いオリジナリテイーがあったということで、言い換えれば、明治以降、日本のオリジナリテイーは捨てられていったということになる。

現代の我々が近世以前の日本を実感することは難しい。それは、明治以降を「科学」とするならば、近世以前は我々が思っている以上に「神話」的な世界で、人が生きるという目的も死の意味合いも違うように思うからだ。
つまり、宿命のうえに生命があったということは、「個」の利益や思惑とは別のところに、命の役目があったということで、どうにも抗いようない定めのなかで、ひたすら「型」の美しさを求める姿は、何か「生物としての人間の」純粋を目指すような気もする。

ヨーロッパのダンデイズムは「個」の精神に宿り、日本の「ダンデイズム」は「型」にある。

同じく「姿」にこだわるとしても、そこには大きな隔たりがある。精神は型によって純粋化され、洗練された型は、理屈や合理とは異なる、いわばシャーマンの美しさをもっている。それゆえに我々は畏敬し惹きつけられる。

洋行帰りの荷風が、かえって江戸文化に傾倒していったのは、近代人としての自分が、或いは「明治」が失いつつある神話的なものに呪縛された近世以前の日本に、独自の「美」と「文学」があると感じたからではないか。




荷風には「江戸芸術論」という素晴らしい著作があるけれど、後味に「理屈」が残る。1879年、明治12年生まれの荷風がフランスから戻ったのが明治も41年(1908年)。三十代を目前にして、勘の良い荷風は確かにオリジナルな日本文学を編み出すためには、江戸を再認識すべきだと確信していたが、下町育ちの鏡花と違って自身の生まれや肌合いがそこにあるというものではなかった。

荷風の「江戸の再認識」の過程は、我々現代人が「和」に新鮮さを感じるのに似ている。
それが、荷風の場合、悪いわけではなくて、荷風は、その過程で、かえってより純粋化された江戸文化の「再構築」をしているように思える。

鋭敏な理論派の荷風の一方で、鏡花は明治を江戸のように生きていた。
本名、泉鏡太郎は、明治6年(1873年)、名人肌の飾り職人の長男として金沢に生まれている。母は、江戸下谷の大鼓師中田氏の娘で、能楽師松本金太郎は兄にあたる。何故、江戸女と金沢の職人の縁ができたのかといえば、維新の変革で当時の能楽界は旧文化と扱われ、窮乏をしいられていた。それを加賀藩主前田家が不憫に思い中田家を金沢に引き取ったことによる。母、鈴の祖父、中田万三郎は加賀藩主お抱えの能役者であった。

幼い鏡太郎は、江戸生まれの母が誇りだった。ところが、その母は、鏡花がやっと10歳(明治15年)になろうとするとき、29歳の若さで逝ってしまう。鏡花の作品に通低する一種の母性を持った女性像と、それを慕う少年の無垢さを持った主人公という構図は、幼くして亡くした美しい母への思慕の情から生まれているように思う。

いったい鏡花の小説世界には現実のリアリズムというのが抜け落ちている。小説的な構図はあるが、それは一種の象徴的な「お伽」で、眼を覆いたくなるような厳しい現実や社会の問題は出てくるはずも無い。ただ鏡花は、錬りに錬られた名人芸の語り口で、情緒あふるる物語を綴ってゆく。しかも、荷風が変節を繰り返し自己を再生し続けたように、鏡花もまた革新の作家であった。荷風と違うのは、鏡花の革新は自身の小説世界を常に洗練させ続けることで、それは優秀な能役者や歌舞伎役者が場数を経ながら飽くことなく「型」を洗練させていく姿に似ている。それは、玉のように磨かれ、象徴的なるがゆえに永遠のものとなる。その結果、鏡花ほど、純粋な小説世界を感じさせる作家はいない。

その生き方もまた、荷風と違い文筆家としての生涯をまっとうしている。まず、19歳のときに書生として入った、師、尾崎紅葉への終生変わらぬ忠誠、紅葉と鏡花の関係は、いかにも古き良き時代の師弟を思わせてうらやましい。それは、21歳のときに父を失い将来に不安を抱えるあまり何度も自殺をはかる鏡花に紅葉が感動的な書簡を送り励まし思いとどまらせるところや、神楽坂の芸妓桃太郎(本名を実母と同じ鈴という)との仲を断腸の思いで裂くあたりなど、それ自体が鏡花好みの物語のようだ。

鏡花が生涯に紡いだ作品は二百余篇。そのどれもが、抒情詩ともいえる物語的小説でいささかの作風のブレもない。
あたかも竜が天界を目指して昇っていくように鏡花は作家活動を通じて、虚構の美を仕組んでいく作風と天才だけに許された、時に大胆、自在な独自の修辞で詩的抒情の高みへ、より高みへと精進していく。
鏡花を愛する人すべてがいうように、鏡花の魔力は、その言葉にある。それを「文体」というには、作を重ねるごとに変革し続けており、文は筋の説明を飛び越えて、もはや純粋に鏡花の紡ぐ言葉に、読む者はカタルシスを覚えていく。それが、鏡花の魔力といえよう。
昭和14年、最後の作となる「縷紅新草」では、一時は嫌った故郷金沢をはじめて舞台にして、こんな童(わらべ)歌から始まっていく。

あれあれ見たか、
  あれ見たか。
二つ蜻蛉(とんぼ)が草の葉に、
かやつり草に宿をかり、
人目しのぶと思えども、
羽はうすものかくされぬ、
すきや明石(あかし)に緋(ひ)ぢりめん、
肌のしろさも浅ましや、
白い絹地の赤蜻蛉。
雪にもみじとあざむけど、
世間稲妻、目が光る。
  あれあれ見たか、
    あれ見たか。


物語は北国の冬、小春日和の一日、山寺への墓参りから始まる。「墓参り」というモチーフもそうだが、ここでの鏡花は、その「お箱」ともいえる小説手法を巧みに組み合わせながら物語を運んでいく。いわば自家薬籠中の「型」の上に、円熟した語りが展開されてゆく。

その物語の組み立ては、もはや自然で破綻がない、その語りは、まさしく鏡花そのもので、ただ身をまかすしかない。この作品をもって鏡花の「頂き」とはいえないだろうが、名人の「自然」の境地とは言えないか。

鏡花の語りは、いつも独特で、まるで優雅な芝居を見ているように、人のしぐさひとつひとつが目の前に現れる。それでいて、けして冗長に陥らない硬質な「詩」の緊張感が保たれている。そして、「美しさ」が残る。
不思議なことに、鏡花の世界を堪能したあとに残るのは、筋の印象とかではなくて、「美しい」ものを見たという一種の平穏感である。

ここで気がつくのが、自然の「境地」というのが、強靭な試練の賜物だとしても、その磨かれた「美しさ」は人を癒すということだ。何故、「型」の最高位を「自然」としたのかがようやく分かる。それは、森や滝や風のように対する者を「癒す」からだ。そこに至るには、理屈など入り込む隙もないほど完成した結晶でなくてはならない、阿り(おもねり)など忘れた充実がなければかなわない。


荷風が鏡花を、或いは鏡花だけを評価したのが分かる。本物を見極める目においては厳しい荷風にとっても鏡花は「玉」を成していた。

翻って荷風の作品をみると、そこには鏡花とは違う、何か「闇」といえそうなものが見え隠れしているように思えて仕方がない。荷風という作家は、いまの世界の優れた現代作家と同じくアバンギャルドな精神をもっていたように思う。そして、荷風の「闇」のひとつは多分「エロス」なのだと思う。

いくつかの荷風の作品には、その「先の世界」があるように思う。
それは、叙情的な作風に常にかいまみえる「エロス」で、そこに荷風は自身の文学の新しい可能性を感じていた、或いは捕らわれ始めていたのではないか。
それは、同じ花柳界、花街を描いた作家と違い、「情緒」などではなく、もっと深い人間の業の凝塊としての「性、エロス」だったように思う。また、それは、人間荷風自身が抱えていた業ともいえる。

ただ、その時代には文壇を含めて理解には限りがあり、発禁処分という恐れもあった。

事実、荷風は「腕くらべ」を、出版とは別に私家版として、より性的な改稿版を50部限定で知人に配っている。この前後、変名で「四畳半襖の下張」も発表している。


当時の社会的規制がなければ、荷風はもっと未知な小説世界をつくりだせたように思えて仕方がない。
荷風作といわれる春本「四畳半襖の下張り」のいくつかの性描写はこちらの心の奥底を抉り取る、解釈できない力をもっている。

それは、荷風自身の「闇」から生まれている。荷風は性を軸に文学的ショックを生み出せる作家で、時代が許せば、こちらが想像もできない破戒的な作品をつくりだしたかもしれない。


荷風は最後まで「闇」を抱えていた作家といえよう。その不幸は、人間的にも芸術的にも時代の先を越す勘をもっていた事にあり、いまだ正しく評価されていない気がする。




荷風と鏡花が、明治という変革期に「文学」という形で残してみせたものは「人の美しさ」というもので、不思議なほどそれ以降これを実現してみせた作家、小説は現れていない。

荷風と鏡花の作品がともにほかと違うのは、物語を辿ることの面白みというより、読み進むうちに「美しい」と呼べるような人が居たその世界の情緒にいつしか引き込まれ、感化され、頁を閉じる頃には、自分もその世界に住んでいたような不思議な余韻を覚えさせることにある。

それは、言葉で組み立てられたものだが、ここでの言葉は何かパズルのひとひらのようでそれが折り重なって言葉以上のものをつまりは、表出しているように思う。


結局、日本の昔に求められていたものは、人間の美しさだと思う。それは、しぐさの、ひとつひとつ、もの言いの、ひとつひとつ、西洋のように自己の内精神にこだわるのではなく、外に見える細かなひとつひとつに美しさと粋を積み重ねて生まれるもので、その結果、言葉では言い表されない、その人が持つ「情緒」を生み出す。


「情緒のあるひと」、、、


それが、人の美しさであり、日本のダンデイズムが行き着く先なのかもしれない。









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copyright 2008 Ryuichi Hanakawa

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by rikughi | 2008-03-03 06:08 | 4.荷風と鏡花 「江戸趣味」


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