男の躾け方 「愛人」-2


六義庵歳堂


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突然、支那風の音楽が流れてきて、色鮮やかな中国の朱の絹のガウンを着た女が、これも朱の盆に乗せられた香炉をかかげてフロアの中央に摺り足で躍り出た、その朱の絹には、東洋の赤い魚が絡まるように三匹、描かれていた。女は、王朝の宝物のようにゆっくりと香炉を床に置く、翡翠の色をしたそれからはモウモウと香の煙が立ち昇っていた。ご丁寧に「パイロット」の女たちも、フロアの各所に香炉を置きはじめ、その匂いはいつしか私たちの席をも包んでいった。


その香の甘い匂いは、麝香鹿の腹部から抉り取られた純粋なムスクを思わせたが、匂いを現す言葉よりも、むしろ或る時代や空間を想い出させるものだった。それは、厚い霧がかぶさって茫洋としか思い出せないものだったが、どこかで懐かしい気分にもさせる、その懐かしさは子供の頃に嗅いだ母親の肌の匂いのようなもので、その匂いに囲まれた安心にウトウトまどろんでいると、急にガクンと意識を奪われそうになる、私は、何度かその匂いに引き摺り込まれそうになって、気を取り直さなければならなかった、


眼を凝らすと、フロアに置かれた香炉の後ろには、薄い布が張られた屏風がいつのまにか置かれ、あの香炉を掲げ持っていた女が、ひとしきりお客に愛嬌を振りまくと、その屏風の陰に隠れて、絹のガウンを脱ぎさった、

そのガウンは羽衣のように舞って、音もたてずに床に落ちる、その衣に描かれた赤い魚の一匹のギョロりとした眼が私を睨んでいるように思えた、

屏風に隠れた女が衣を脱ぎ去るのと同時に、もう一人、同じ朱の絹の女が現れるとフロアの中央に躍り出て満面の笑みとともにその衣をぬぎさった、形の良い乳房と、その白い肌が闇に浮かぶ、驚かせたのは腰に巨大な張り形をつけていたことで、もう一度、思わせぶりな笑みを浮かべると、さっそく屏風の陰に隠れた、薄布を通して交差するふたりの女のシルエット、それは、絹の衣に描かれていた戯れあう東洋の魚を思わせた、どこからか中国の弦が低く響いてくる、


それを合図かのように、私は、こらえきれずに瞼を閉じたように思う、それは匂いのせいなのか、シャンパンのせいなのか、それともノルマンデイーへの旅の疲れが災いしたのか、

しかし、それは心地良いふわりとした「旅」のようだった、闇のむこうから、女の声が聞こえてくる、、、

「あたしは、マダム リーヌにいわれて、いつものようにアベス通りにお客を迎えに出た、今日のお客は東洋人の若い男だということ、夜の通りは少し風が吹いてこの季節にしては肌寒かった、
ショールをはおりたかったけど、マダムは着るものにはウルサかった、男たちの印象に残る服を着なさい、あなたの魅力は、その胸よ、それを見せつけてやりなさい。同僚のヴェラがいうには、マダムは元バレリーナーだったらしい、それも、将来を嘱望されたバレリーナーだった、それが練習の最中にくるぶしを痛めて、それから、この世界に入ったらしい。何だか、ママンを想いださせる。

人はいつまで挫折を繰り返せばいいのかしら、それとも神様はひとり何回と生まれたときからその回数を決めていらっしゃるのかしら、通りの向こうで煙草の火が赤く灯るのが見える、それは、まるで暗い夜の海で船を導く何かの合図のように見えた、街灯の下で所在なげに煙草を吸っている若い男、東洋人かどうかはここからははっきりしないけれど、問題があるような客には見えないわ、彼もあたしのことに気づく、あたしは、夜の鋪道を精一杯魅力的に歩いていく、

そう、私はママンのことを考えていた、正確にいえばママンのことを思い出そうとしていた、フェルム通りの叔父さんの家にしばらくぶりに立ち寄ったとき、ママンから12年振りに連絡があったと知らされた、本当はママンではなくて、ママンの‘友達‘という人からだったけれど、
ママンは病気で、あまり良くないという、当惑げな叔父さんの顔、でも、あたしは、叔父さんが思うほどママンにうらみを抱いていない、むしろ、ほんとは、いまママンに会わなければいけないことに戸惑い、当惑している、12年間はあたしにとってはとても長い時間の積み重ねだった、その積み重ねのなかで、ママンがいないさびしさや、空虚さはあたしが慣れ親しんだ、あたしのもう一部分なのだ、それが、こんな形で唐突に結論を迫られることに、あたしはとまどいを感じてしまう、

あたしは、いつも何か大事な忘れ物をした子供のように自信が持てなかった、その 『忘れもの』を誰かに咎められるんじゃないかと、いつもあたしはソワソワしてた、実際、ママンがいなくなったのもあたしのせいじゃないかと、しばらくの間、思い悩んでもいた、何度云われてもブロッコリーを食べなかったから、時々、ママンの眼を盗んでママンの高価な化粧品(実際、ママンの化粧品は、名の知れた高価なものばかりだった。)をつかっていたから、、、
あたしは悪い子だったんだ、だから、ママンは、そんなあたしに愛想をつかして出て行ったんだ、あたしは、そういう風に時間を積み重ねてきた、

ときどきは、あたしだってなんとか良い子になろうと努力した、そしたら,ごほうびのショコラを持って、ママンが戻ってきてくれるかも知れない、
でも一向にママンから連絡はなかった、それで、叔父さんの目を盗んでは、一日中、地下鉄に乗ってママンを探しにいった、といってもママンの居場所に心当たりがあった訳じゃない、ママンだって出掛けるはずだ、いつか地下鉄の中で出会うかもしれない、そう思いついたのだ、ブランシェ広場駅からシャトー・ド・ヴァンセンヌまで、或いはポルト・デ・ラ・シャペルまで、あたしは一日中、地下鉄を旅していた、

それは、ママンとあたしの「鬼ごっこ」。そう、ずっと、ママンと鬼ごっこをしていると思えばいいんだ、

あたしは、一度、地下鉄にのってママンと住んでいたプレ・シェボー通りのアパルトマンにいったことがある、そこをもう一度訪れるのには少し勇気がいった、そこには幸せだった頃の思い出がつまり過ぎている、実際、あたしは幸せだったのかどうか確信はできないけれど、少なくともママンと一緒で、ありきたりの毎日は過ぎていったはずだ、ミラボー橋のすぐ近くにある、そのアパルトマンは豪華なつくりの建物で、そこに住んでいた極く短い期間だけ、ママンは羽振りが良かった、

当時、ママンには外国人の愛人がいて、あたしは、その男が来るときには、ときどき外に遊びに出掛けさせられた、叔父さんの話では、そのアパルトマンも外国人の男がママンのために借りたものだったそうだけど、それを知ったのも、外国人の男がママンの愛人だったという事を理解できたのも、ズット後になってからのことだ、子供のあたしには、外に追い出されることがとにかく苦痛だった、、、」



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私は、リュックに肩を揺さぶられて目を覚ました、
「大丈夫か?ノルマンデイーでは随分、遊びすぎたようだな、」
私は、どれぐらい眠っていたのだろうか、喉がいがらっぽいぐらい渇いていて、たまらず自分でシャンパンを注いで飲み干す、それがヒビ割れた黄土色の枯れ地に小川が流れるように喉を伝っていくのが分かった、


私は現実の世界にまい戻ったのだが、頭の中はまだ「もうひとつの世界」に囚われているようだった、
気が付くと、いつの間にか私の横には情報機関の父親をもつ彼女が座っていて、いつものように眉間に皺を寄せながら、心配そうに私を覗き込んでいる、
彼女の真面目な心配顔に、いまの私が答えられることといったら、気弱な微笑みを返すぐらいのものだった。意地をはらずに、私は手短に答える、「バスルームにいって、顔でも洗ってくるよ、」そう、事実、冷たい水が恋しかった、私はまるで東洋から四角い水槽に入れられて長旅を辿った魚のように、新鮮な水の感触が恋しかった、

3人に見守られながら、ゆっくりと立ち上がリ、大丈夫だと少しみんなに微笑んで、フロアに出る、目を凝らしてみると客たちは何事もなく談笑していて私だけが遅れてやってきた旅人のようだった、相変わらず、黒く塗られた店の中は夜の闇を思わせた、

誰かに、バスルームの場所を聞こうと思って、私は目の前を通り過ぎた女のひとりに声をかけた、黒いドレスを着た女が振り返ると、それは私を案内してきたさっきの「パイロット」の彼女だった、私は少し驚いたが、彼女は無邪気に笑いかけると、「あの黒いドアの向こうよ」とコケッテイシュなしぐさで店の奥の方を指差す、私は、君はさっきまで私の頭の中に住んでいたんだ、君のママンのことも知っている、と思わず言い出しそうになった、

それは、夢なのか、現実でもありそうで、私はとまどいながら彼女の眼をみつめた、、、



「、、、そんな時、あたしは外に遊びにいくふりをしてエレバーターに閉じこもっていた、なぜなら、あたしには他に遊びに行くあてもなかったし、その旧式のエレベーターには、小さいけれど赤い革張りのベンチも付いていて、左右の硝子窓と天井についた硝子のランプシェードには綺麗な模様が刻まれていた、それは、大人が二人も乗れば窮屈なぐらい狭かったけれど、身体が細かったあたしには充分な『隠し部屋』だった、

あたしは、そこが特別、気に入っていた訳でもない、でも、その2メーター四方ほどの限られた空間はなんだかあたしでも安心して統治できる小さな王国のようで、気が付くと何時間もその小さな箱に閉じ篭っていた、エレベーターは金網で保護されていて、あたしの力では精一杯に引き開けなければいけない重い蛇腹の引き戸が付いていた、そのせいで、それは犯罪者を閉じ込める檻にも見える、
あたしは、週に何回か、あたし自身をそこに収容する、あたしは、いったい何の罪を犯していたのだろう、


夜の鋪道を、街灯をひとつひとつ数えながら歩いていく、


ふと、あたしとママンには、どこか共通する部分があるのかと思う、形が良いとヴェラから誉められた小さな鼻、自分では長すぎると思っている手足、、、

数えだすと意外に思いつかない、思い出そうと努めるほどあたしは実際にはママンのことを知らないことに怯える、
ママンは『綺麗な人だった』、でもそれは記憶の中の印象で、記憶は記憶のまま、具体的な像をなかなか結ばなかった、幼いあたしは、いやがる叔父さんにママンのことをしつこく尋ねたものだ、もしかしたらあたしの記憶も叔父さんの言葉を勝手につないだものにすぎないのかも知れない、
叔父さんは、一度だけ素っ気ない表紙の古ぼけた写真アルバムを見せてくれたことがある、そこには、パリに出てきたばかりのママンが叔父さん夫婦と肩を並べて写っていた、「ほら、これがお前のママンの若いときだよ」、
モンソー公園で写されたその写真は、いかにも古ぼけていて強い5月の陽射しに目を細めるママンは小花模様のコットンのワンピースを着ていてどこにでもいる若い健康的な娘にすぎなかった、意外に印象の薄いその姿からそれからのママンの人生は読み取れなかった、

あたし自身がママンのことで、はっきりと覚えていること、、、例えばママンは煙草をすっていた、「もう一度、踊るためにはやめなくちゃ、」、「これは悪い癖なのよ、」それがママンの口癖だったが、ママンが煙草を止めたことはついぞ無かった、


あたしは無性に煙草がすいたくなった、、、


東洋人の若い男は、イギリス紳士風の青いダブル前のスーツに白い絹のハンカチを胸にさしていておよそモンマルトルの夜には不釣合いだった。あたしが声をかけたことに戸惑っているようだったけれど、あたしは構わず、煙草を一本ねだった、


煙草を一本もらって、あたしは、念のためこの若い東洋人の男に尋ねた、あなたもリーヌの店に行くの?


あたしは、彼にそう尋ねてはみたけれど、でも、実際は、煙草の煙を吐き出しながら、ママンの思い出もあたしにとってはこの煙のように実体のないものなのかも知れないという考えに気をとられていた、それは自分でそう思いついた言葉だけど、それが意味するところは分からなかった、単にあたしは今ママンと会うことが月曜日の約束のように、めんどうになっているだけなのかしらとも思う、そして何故、めんどうに思うのかは考えたくなかった、できればいつまでも、何もしない日曜の午後のように、ママンの不在に溺れていたい、


あたしが夜の鋪道に吐き出した煙草の煙はミニチュアの雲のように浮かんだと思うとすぐに消えてしまった、



、、、そうだ、リーヌの店、、、それがいまのあたしのわずかな現実だった、、
こんなあたしでも、リーヌの店で、声をかけてくる男たちは何人もいた、マダムに云われてそうした男たちが開くパーテイや、短いヴァカンス旅行につきあうこともあったけれど、あたしは、そうした男の誰かを愛したということはなかった、それに、あたしはセックスが苦手だった、

リーヌの店の女たちは、金持ちで有名な男たちの妻に納まったものも多いし、運転手つきの豪華な愛人生活を送っている女たちもいたけれど、あたしには何かが欠けていて、いつも生きていることに実感がもてなかった、多分、友達と遊んだり、同年代の男の子たちの品定めをしたり、そういうパリの娘が普通に経験していく生活よりも、ママンを探す地下鉄旅行に出掛けたりすることに時間を使いすぎて、実際の時間よりは空想の時間を過ごしすぎたせいかもしれない、

空想に費やしてしまった時間を、神様は返してくださるのかしら、それとも、それが12年ぶりのママンからの知らせだったのかしら、、、

あたしは、東洋人の手をとってリーヌの店へ急ぐ、マダムからはお客を店に連れてくる間は、何を聞かれても、ただ微笑んでいるようにときつくいわれていた、無駄口をたたいちゃ駄目、店の入り口のモローがいるところまでは用心に越したことが無い、

モローは、昔はモンマルトルでいっぱしのギャングだったとも、ボクサー上がりだとも噂されていた、リーヌの店の頼りになる用心棒、入り口の小さな赤い部屋で待機していて、必要とあらば何の躊躇もなく人を殴り倒せるアルメニア人の男、でも、両耳がつぶれたいかつい顔のその男は、不思議に店の女の子たちにモテていた、

ヴェラも一度、モローと寝たといってた、化粧室で鏡にむかってメイクを直しながら,それをこと細かくあたしにいって聞かせる、「あたしはしつこいくらい弄ばれたわ、それで終わったあと優しく背中を撫でてくれるの」、モローがモテるのは、多分、そのいかつい顔と身体つきに似合わず、ときおり控えめな優しさを見せることで、それが寡黙なアルメニア人の男を、思慮深い哲学者然としたものに見せていた、

一度、モローと地下鉄で出くわしたことがある、パリは冬の始まりで、モローは厚い落ち葉色の古ぼけたコートを着ていた、意外だったのは、本を読み耽っていたことで、その厚みからも真面目な文学書か何かそれに類するものだと思われた、

あたしは声をかけなかった、店とは違う普段のモローを観察してみたかったし、それに、あたしは、知ってる人の普段見せない姿を観察するのが大好きだった、地下鉄は、地下鉄の音をたてながらトンネルを駆けていく、あたしは、離れたところから何とかその本のタイトルを読み取ろうとしていた、その本の装丁の古めかしさから、古本か或いは図書館から借り出した書物のように思われた、埃っぽい古本屋で山と積まれた書物を物色する姿も、図書館の整然とした書棚を巡る姿も、リーヌの店の用心棒からは想像し難い、


そうこうしてるうちに、地下鉄は駅に滑り込んで、モローはその本をコートのポケットに無造作に入れると立ち上がった、

あたしも、慌ててドアに向かう、あたしは人ごみの後ろに、モローの視線をさけながら、すえた匂いのする連絡通路をオルデレーヌ通りへの出口へと向かった、

地上に出ると、モンマルトルの空にはもう低く月が出ていた、それは、まだ光が残っている空のなかでぼんやりとしていて、あたしの探偵ごっこのように曖昧に空に架かっていた、古ぼけたコートに手を突っ込んで、モローは冬の鋪道を意外な早足で歩いていく、
あたしは、モローを見失わないように、でも気づかれはしないように、その後を追っていく、モローはプラスベルナルドの角にあるカフェに入っていった、あたしは、躊躇した、ここで探偵ごっこは終わりよ、とあたしは自分に言い聞かせたが何か好奇心が働いて、気が付いたときは、カフェのドアを開けていた、


ぴかぴかに磨き上げられた銀色のカウンター、その奥にエキゾチックなラベルをみせて整然と並ぶ酒瓶の数々、ビールや、ワインのショットを出すひねり蛇口のついた器具がカウンター越しにいくつも並ぶ、そこは18区には珍しく清潔さが行き届いたカフェだった、磨きこまれた金属類とグラスの輝きが、カフェの設えにまるで美術品のようなルックスを与えていた、


モローは、窓際の奥の席にいた、あの本はテーブルの上に置かれている、誰かと待ち合わせでもしているのかしら、あたしは、見つからないようにカウンターで小声でカフェを頼んだ、モローのテーブルに白ワインが運ばれる、ギャルソンと入れ違いに、ネクタイを締めた高級ではないけれど身なりの整った男が近寄ってきて、ギャバジンのコートも脱がず、何も云わないでモローの向かいに座った、
ひと言、ふた言、短い言葉を交わすとモローはグラスに残ったワインを飲み干して立ち上がり、足早に出口に向かって冬のモンマルトルに消えた、それは、瞬く間のことだった、あたしは、、、どうして良いのか分からなかった、ただその男を見つめていた、

それは、モローが地下鉄で読み耽っていたあの本が、まるで何か怪しい取引の品物のようにテーブルに残されていたからだ、

男は頼んだカフェを飲み干すと勘定をテーブルにころがして、立ち上がった、
そして、モローの本を無造作に取り上げる、あたしは、思わずその本を確かめるために身を乗り出した、本能的にそのタイトルを確かめなきゃと、ただそう思ったのだ、それは、かろうじて、こう読めた、、、Uly、、、ss、、es、、『ユリシーズ』。」


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黒いタイルが敷き詰められたバスルームで、私は鏡に映る自分の姿を見つめていた、

起き抜けのような呆けた顔は水のしずくで濡れたままだ、顔を洗ったときに前髪も濡らしたようで、しずくがまだぽとぽとと顔に落ちていく、

私は、しばらくぶりで自分の顔を発見したように思う、意識が確定していくにつれ、東洋人の若者がいったいどうして、こんなモンマルトルの店にいるのかが不思議で仕方がなかった、
私は、思わずあたりを見回してみる、
フロアと同様に漆黒で床も天井も覆われたこの化粧室は、つやつやとした黒いタイルと、磨き上げられた金属類が、まるでSF映画の異星に向かう宇宙ロケットの内部を思わせて、手術室にも似た不思議な静謐感があった、黒い手術室、

いまなら、頭のなかに神様からのメッセージが響いてきても驚きはしない、

セーヌから流れてきた水は、思いのほか冷たかったが、私は生まれて初めて、これほど水を恋しく思ったことはなかった、それはガンジスや水の流れが文明を生み出したことを納得させる、「ガンジス」という響きが気に入って、私は口にだして云ってみる、、、ガンジス、、水に恋する東洋人、、

私は、シンクの横に積み上げられた、清潔そうな白いタオルの一枚を取り上げる、そのとき、鏡の隅に黒いサインペンで小さく書かれた文字に気が付いた、どうせどこかの酔客のいたずら書きだろうと思ったが、それは、何かの緋文字のようで、その意味不明の言葉が私の興味を惹いた、それは、こう読める、、、、、Uly、、、ss、、es、、0130、、「ユリシーズ 0130」、

私は、そのときは、それが何を意味するのかを知らなかった、



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私は、バスルームの黒いドアを押し開けて、フロアに戻ることにした、つかの間の静謐から欲望の祭礼へ、遠いガンジスへの想いから喧騒の宴に、どちらにしても夜の闇へ、


しかし、ドアを半身すり抜けたとき、突然、黒い素早い影に腕をとられた、その影は、思いもしない速度と力で私の腕を引きづりながら、やはり素早く短く、こう呟く「こっちよ」、

身構えるひまもあらばこそ、あまりに、素早く腕をとられたので、私は黒い影に身をまかせるしかなかった、またしても私は連れ去られる、影はもう一度短く呟く、「早くして、こっちよ」、

影の呟く言葉のままに引きづられながら、しかし、こうしたことはどこかで予測していたのではないかという不思議なあきらめが身体のどこかに潜んでいたことを私は知っていた、





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copyright 2008 Ryuichi Hanakawa



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by rikughi | 2008-09-15 02:53 | 「愛人」 Ⅱ


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