六義庵百歳堂(りくぎあん ももとせどう)-人生が2度あれば
2009-07-20T02:37:37+09:00
rikughi
椛川劉一のウエブエッセイ
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「愛人」 その5
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2009-04-29T00:59:00+09:00
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「愛人」 Ⅴ
六義庵百歳堂
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モンテフェールの家系は9世紀まで遡ることができる、
その祖先は、イタリア、ベルガモの一介の領主にすぎなかった、皇帝派の敬虔なカトリックであったモンテフェール家はコルネッロの丘の中腹にあるその居城に奇妙な高い塔を建立し、一族は領民のみならず付近の領主からも「塔の民」という呼称で何世紀にも渡って呼ばれ続けてきた、その塔の姿は、いまも、モンテフェールの紋章に姿を残している、
そして、
その一族の巨万の富も、この奇妙な塔から始まっている、
4代目の当主、フランツは、決まって毎朝、一族の信仰のシンボルであるこの塔から領地を見下ろしてはモンテフェールの永久(とわ)の繁栄を祈るのを日課としていた、
その朝も、いつものように祈りを終え塔から見渡す眺めをしばし愉しんでいたフランツの耳を、突然衝いたのは司教に宛てた手紙を携えて城を出る馬車の車輪の激しく軋む音と馬の勇ましいいななきだった、
馬車はすさまじい速度で、まだ朝もやの漂う領地を駆け抜けていく、その雄雄しくも美しい馬の姿に当主は目を細める、フランツは前速力で駆けたあとの少し汗が浮かぶ馬の充実した肉付きを想い出していた、事実、フランツの自慢は手塩にかけて育てたツヤツヤと黒光りのする毛並みの駿馬たちだった、
代々、モンテフェール家は、駿馬の飼育と調教に秀でていたのだ、
その時、ふいにフランツに天啓が舞い降りる、それは「塔の民」と呼ばれ続けた一族が、コルネッロの山奥から世界へ舞い降りる唯一の方法であり、我が一族、領民に未だ見たことのない富と冒険をもたらす「天啓」だった、、、
フランツの考えは画期的で、しかも間違いはなかった、その天啓というのは、モンテフェール家自慢の馬を駆使して、独自の馬車のリレー方式によって極めて敏速な一種の郵便網を世界に築くというものだった、
フランツの脳裏には、自分でも驚くほど、次から次へとはっきりとした「プラン」が浮かんできた、フランツは、ついに我が一族に神の啓示が降りたのだと確信した、
フランツはナイトシャツの裾をひるがえし、城中に響き渡るほどの歓呼の雄たけびをあげながら塔を駆け下り、夫妻の寝室にまだ横たわる身重の妻のもとへ駆けつけると、夫の勢いに目を丸くして小さな叫びをあげて飛び起きた妻のその顔中に嵐のような接吻を果たした、妻はついに夫は気が狂ったかと訝った、実際、木綿のナイトシャツ一枚で雄たけびをあげる長身痩躯の夫は気が狂った田園の案山子を思わせた、
しかし、しだいに落ちついた枕元の夫の上機嫌にも安心して、妻は優しく、フランツの寝起きの乱れた髪を撫でながら目で何があったのかを夫に促す、、、神の声を聞いたのだ、、モンテフェールがついに塔を出る日が来た、、、フランツは髪を撫でられながら、妻の生命を宿した腹部に丁重に祝福のキスをした、、、良い子を産んでくれ、この子は歴史に名を残すだろう、、、
それからのフランツは寝食も忘れ、「計画」に没頭した、居城の一室には、イタリア全土の地図が広げられ、領地の鍛冶屋、木工職人など、ありとあらゆる職人が召集され、必要に応じてはミラノの職人、学者たち、縁続きの各地の貴族や司教たちをも招聘し、モンテフェールは新たな事業のための工房と作戦室を城に設けた、
フランツの目が利いたところは、12世紀にあって、「情報」を誰よりも早く握った者が勝者になるということに早くから気付いたところにある、フランツは、中継点となる街に駅や厩舎を設け、先ず、イタリア全土を手始めに独自の「郵便網」を築き上げた、フランツの意志は代を経ても強固に引き継がれ、やがて15世紀にはモンテフェール家は、ハプスブルグのお膝元、オーストリア西部、インスブリュックまでその組織的な郵便網を広げていった、
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フランツが執拗にスピードに拘った「教え」は代々の掟として引き継がれていき、モンテフェールの自慢の駿馬とともに馬車を操る者にも速度を緩めることを決して許さなかった、託された手紙や荷物は、全速力で中継地点に到着するやいなや、次の御者の馬車に即座に積み替えられ、また砂埃を上げて次の中継地点へと駆け抜けていった、その苦役は多くの御者や馬に犠牲を強いたが、それでも「速度」が優先された、しかも道中では荷積をねらう盗賊の襲撃に犠牲者を出すこともままあり、モンテフェールの馬車はいつしか苦難を自ら強いるという思いを込めて、領主によって赤く塗られるようになった、
モンテフェールの目論見は功を奏し、その速度と、網羅する地域の広さで、高額な料金にも拘わらず、しだいにヨーロッパ中で評判を呼び始めた、
最初の大きな幸運は、ハプスブルグ家の親書の配達を請け負ったことによる、モンテフェールは周到にも代金を受け取らなかった、ハプスブルグの覚えを得たモンテフェールは、抜け目無く、ハプスブルク家の庇護の下で貴族や諸侯、役人、商人の依頼を独占し、モンテフェール家には巨万の富が流れ込みはじめた、そして、ハプスブルグの轍に倣って、バイエルンの王族との婚姻を結び、当のハプスブルクとも縁続きとなり、ついにはモンテフェールは、伯爵に叙せられるまでにのしあがった、
モンテフェールは、こうしてヨーロッパ大陸の「情報の運河」を、
抜け目なく3世紀にわたって独占し、
富と一族の栄誉を築いていった、
貴族の称号を得て、次にモンテフェールは神聖ローマ皇帝に取り入ることに専念した、皇帝からは、首尾よく事業の独占と、世襲の権利を与えられるが、一説には「郵便事業」で得た機密文書を使ってのやんわりとした脅迫が効いたといわれている、
「郵便事業の旨み」に国家が気付くまでの3世紀余りに渡ってベルギー、フランス、ドイツ全域、からイタリアの南端まで、ヨーロッパの要所を結んだ「情報網」をモンテフェールという一家族が独占し続けていた、
その後、モンテフェールは莫大な金額で「郵便事業」を国家に売り渡すが、その背景にはやはりモンテフェールの掴んでいた「情報」がものをいったといわれている、それ以降「郵便事業」そのものは近代化されていくが、その本質を理解していたのは、むしろモンテフェールだったといえるだろう、
その情報の「運河」を司るモンテフェールの元には世界の秘密というものが労せずして向こうから飛び込んできた、モンテフェールがそれを見逃すわけがない、バッキンガム宮殿を凌ぐといわれた贅を尽くした新しい宮殿には、100人あまりの司書が24時間体制で機密文書を書き写す「図書室」と呼ばれる情報部隊が組織され、とくに暗号化された機密文書を解き明かす解読技術については突出したものを持っていたという、
モンテフェール家には、いまでも歴史の闇に葬られた事実が、その書庫の奥深く仕舞いこまれていると言うもっぱらの噂だった、事実、そうであるには違いない、しかし、現在にいたるまでモンテフェールは、歴史学者の執拗な要請にも拘わらず、それを一切、公表していない、
モンテフェールは、18世紀半ばまで、ヨーロッパの通信網を独占してきた、
モンテフェールは、その富にあかして贅をつくした城を数多くヨーロッパの各所に残している、
モンテフェールは、いまもマルタ騎士団の一員にその名を連ねている、
モンテフェールが発行した「切手」は、いまも蒐集家の垂涎の的として高値で取引されている、
この、中世からヨーロッパ大陸の秘密と情報の行き先を握っていた一族は、その歴史のなかでヨーロッパ各所に散らばり、闇のなかで宗教と王族に結びつく決して表舞台には現れない結社を結んでいるとの噂だった、
そして、モンテフェール家には4代目当主による「教え」が今も代々引き継がれ、その「教え」に従って各地に散らばった一族は動いているということだった、その活動は、表からは文句のつけようのない財団の名前に隠れているが、その「金」の流れと人材育成を分解していくと何らかの世界秩序を意図していることが分かってくる、
「世界秩序」、
戦後20年を経た1960年代半ばに、ひとりのジャーナリストがモンテフェールの戦後の動きに注目し、
ドイツの左翼系新聞に、連載を書き始めた、
それは、極くマイナーな新聞の極く小さなコラムであったが、
3回目の連載の代わりに、これも目立たぬ程度に突然の連載休止の知らせと、
執筆者が不幸な交通事故で逝ったことへの哀悼の辞が載せられた、
それは、極く小さな「面積」であったので、その不自然さに気付く者はいなかった、例え、それに「運良く」目を止めたとしても、たった2回の連載では、筆者が何を明らかにしようとしているかは憶測できなかったろう、
ちなみに、その文学好きと推測される著者はコラム連載にあたってペダンチックな匿名を選んでいる、U・l・y・s・s・e・s、、、ユリシーズ、、、
そろそろ、この「謎」の言葉に触れる頃合だろう、
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マンゼルは、一葉の写真を俺に差し出した、
それは、とっくに過ぎ去った時間を閉じ込めた俺にとっては他人の人生の破片にすぎなかったが、マンゼルはまるでお前の運命を示すタロットだと云わんばかりに大業なしぐさでそれを俺の目の前に突きつけた、
そのモノクロの写真が撮られたのは随分遠い時間のようだった、
そこには、幸せそうなカップルが舟遊びに興じる姿が映っていた、
水面(みなも)の煌(きらめ)きを受けて眩しそうに笑い合う二人、恵まれたこの若者たちにとっては、人生もまだ美しい樹々に囲まれた公園のこの池の波のように穏やかで少し退屈なものと信じられたろう、
その写真はいささか年を経て退色はしているものの、いまだにピンと角を張っていて、どこかで大切に保管されていたものだとは察しがついた、
「モローさん、この顔に見覚えはございませんか?」
その言葉に促されて、俺はもう一度写真に目を凝らす、男も女もいかにも苦労を知らない良家の若者であるらしいことは、くだけた遊び着だが上等そうな服と手入れの行き届いた髪の毛や指先、何よりカメラに向かって笑う、その曇りのない素顔がもの語っていた、
黄金の肌を輝かせるハンサムな若者と健康的な美貌に恵まれ、しかしまだ自分の美しさには気づいていそうにない少女、
少女の方には見覚えがなかったが、若者の笑う表情のどこかに覚えがあった、
記憶はしだいに焦点をあわせ確信へと結びついていく、しかし俺が思い浮かべた人物とその若者には測り知れない屈折した時間の距離があるように思えて、それが俺の沈黙を守らせた、
マンゼルは、躊躇する俺の心を見透かしたように、冷酷な笑みを浮かべるとさっそく「答え」を宣言した、
「そうです、モローさんがお気づきのように、その若者はモローさんが<ご存知の>ムシュー アンリ・グリエです、」
「そして、その可愛いらしい女の子は、こちらにいらっしゃるマダム アンヌ・ド・モンテフェールでいらっしゃいます、」
俺は驚いて顔をあげた、マンゼルの「宣言」に窓際で、アンヌ・ド・モンテフェールが身を守るようにビクっと椅子の上で身体を竦(すく)めるのを感じた、
「驚かれるのも無理はありません、ただ、ムシュー グリエとマダムが幼馴染だったわけじゃありません、その写真の若者は、実はマダム アンヌのご主人となられたムシュー クロード・ド・モンテフェール大佐、その人でもあります、」
俺は、思わずマンゼルの顔を見上げた、そして、窓際のアンヌ・ド・モンテフェールに視線を移した、
マンゼルは相変わらず、慇懃無礼な無表情を崩していなかったが、マダム・アンヌは、まるで羽を毟(むし)られた小鳥のように窓辺で小刻みに震えている、、、
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「モローさん、私は先ほどお伝えしたはずです、貴方は、クロード・ド・モンテフェール大佐、その人にお会いになっているはずだと、、、」
「しかし、どうして、、、」
どうして、、、グリエは、いや、大佐はマキザールのグリエを名乗らなければいけなかったんだ、、、俺は、ふいにリーヌのことを思い出して、身を固くして震えているアンヌ・ド・モンテフェールを見つめ直さざるを得なかった、
あの日、グリエはアルジェリアにこれから一人で発つと、突然、俺のアパルトマンを訪ねてきた、「お前に預けたいものがある、」そういってリュックから、あの18巻の「ユリシーズ」を大事そうにとり出した、
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「愛人」 その4
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2009-01-05T18:40:00+09:00
2009-07-10T03:54:12+09:00
2009-01-05T18:41:53+09:00
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「愛人」 Ⅳ
六義庵百歳堂
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マンゼルの陽気ともいえる声とは裏腹に、実のところ室内には張り詰めた雰囲気がみなぎっていた、
その雰囲気さえなければ、由緒ありそな趣味の良い家具で埋め尽くされたその部屋は、引退した老貴族が気ままにメモワールでも執筆していそうな古の贅沢な居心地の良さを感じさせた、
先ず俺の目を捉えたのは、窓際におかれた絹張りの椅子に座った不安に眼を曇らせた彼女だった、明らかに室内の他の人間たちとは違う雰囲気を放っていて、手を固く膝の上で握り締め、こわばった姿勢で宙をみつめている、もう、中年を通り越そうとしていたが、その気高い頬骨、一文字に結ばれた唇、古の名画を思わせる鼻筋がいまも見る者に往年のずば抜けた美しさを想い辿らせる、
そして時を経て威厳を持ち始めた革張りの長椅子の一方の端には、穏やかな顔立ちの気品のある老婦人が眼鏡越しにこちらを興味深げに見つめていて、もう一方の端には、華奢で青白い顔をした生意気そうな青年が俺を拒むように睨んでいる、
メイドが出て行くと、さっそくマンゼルは一同を紹介し始めた、
間近でみるマンゼルは、仕立ての良い控えめなチャコールグレイの背広を着た上背のあるやせ型で、絹のオフホワイトのシャツに抑えた黒っぽいネクタイを締めていた、
マルクが云った「紳士ヅラ」がマンゼル本人であることには察しがついた、この部屋のなかで唯一、職業的な「活気」を携えていて、世慣れた人当たりの良さに溢れる立ち居振る舞いの陰で、時おり相手の反応を探ろうとしてかすかに揺れる、ほとんど黒に近い茶色の瞳は処世に長けた抜け目のなさを示していた、
わたしは、ときどき自分の名前さえ思いだせない、
もう、慣れてしまったけれど頭のなかから一切の「音」が消えてしまう瞬間がある、
お医者さまは、首をかしげて、強いショックからの「神経症」の一種だろうとおっしゃったらしい、
ポールやお母様が言うように、わたしは「病人」なのだろう、
たしかにそれにふさわしい奇妙な日々をわたしは送っている、
わたしには、好きな形とどうしてもダメな形がある、丸い形は嫌い、三角は好き、
わたしは、食べ物も人も「形」で好き嫌いを決めるようになった、
それは、箱が箱の形をしているように、ただの「形」にしかすぎない、
みんな気づいていないが、これは「病気」なんかじゃない、わたしが選んだ「生き方」なのだ、
そのいかつい男が部屋にはいってきたときも、わたしにはそれが運命をかえるきっかけになるとはとても思えなかった、
眼鏡越しに俺を値踏みしていたマダム・アンヌ・ド・モンテフェールは、俺のぎこちない挨拶に、この邸宅の主らしくただかすかに顎をつきだして答えた、生意気そうなポール・ド・モンテフェールにいたっては、無言のまま俺を睨み返すだけだった、マダム・セシーラ・ド・モンテフェールだけが、俺の挨拶にうなづいて何かを言いかけたが、視線は遠くにあるままで、言葉も形にならないまま宙に消えた、誰一人として挨拶の最低限のマナーとして知られる「握手」をするつもりはないようだった、
「さて、、」とマンゼルが我々の気まずい「出会い」を破って話を切り出そうとしたのを俺は横からさえぎった、
「マンゼルさん、話を始める前にアンタに聞きたいことがある、アンタは何ンでまた、ジャンニ・メンケスとかいう弁護士の名を騙ってまで、俺の部屋を家捜したんですか」
「ああ、、、そのことですか」マンゼルは、最初は俺の気勢に少し驚きもしたが、メンケスの件など些末のことだといわんばかりに落ち着きを取り戻して話し出した、「モローさん、あなたにとっては突然のことのように思われるでしょうが、我々、『我々』とあえて言いますが、その我々にとっては実に長期間にわたる慎重な調査を行っていましてね、それにことは秘密裏にすすめる必要もありましてね、こちらの身元を知られたくはなかったのと、メンケスの名は、ひとつの『ヒント』のようなものです、
モローさんが、メンケスの名前に何らかの反応を示すかどうか確かめたかったのですよ、
幸いにも、モローさんはメンケスをご存知じゃなかった、
もちろん、モローさんと、ご友人の、マルクさんでしたっけ、お二人でメンケスの事務所を訪れられたことは報告が入っております、、、ところで、アンリ・グルエという名前に聞き覚えがありませんか?」
それは、リーヌの元亭主の名だった、俺は、この日の主役が俺ではなく、マンゼルに歩があることを認めざるを得なかった、
「お返事がないところを察するに、ご存知だと了解してよろしいのでしょうな、まあ、どちらにしても我々は確たる調査結果も持っております、」マンゼルは、まるで検察官が裁判官に眼をやるようにド・モンテフェール一族を振り返った、俺は頷かざるを得なかった、
「よろしい、率直にお認め頂きありがとうございます、
あなたは、前大戦時に、グルエと占領下で約2年間、活動を共にしてこられた、アルメニア系アメリカ人であるあなたは、OSSの諜報軍人としてレジスタンスへの資金援助、ときには武器供与もなさっていた、本来なら勲章のひとつももらうべきところですな、
一方、グルエはマキザールのレジスタンスの若きリーダーだった、、、」
カレッジで哲学を学んでいた俺は志願して戦略情報局(Office of Strategic Services 後のCIAの母体となる)の工作員になった、当時の大学生の大多数は純粋でイノセントな正義感にとりつかれていて、「愛国心」という言葉にまだ実感がもてた時代だった、
勉学では平凡な成績しか残せなかった俺だが、大学のボクシング部ではアマチュアながらも周囲から期待されるボクサーだった、キャンパスの芝生や木々は青く、アメリカ中西部の午後の陽光に陰りはなかった、そんな俺が戦争の現実に疑いを持てるはずもなく、OSSの教官にとっては、俺は格好の「輝けるアメリカの若者」の一人に映ったろう、それにケベックに生まれた両親のおかげで俺は母国語のようにフランス語を操ることもできた、つまり「適性」を見込まれたというわけだ、大戦中、合衆国は俺のような「愛国心に溢れた」多くの若い工作員を次々にヨーロッパ戦線に送りこんでいった、
グルエは、マキザールと呼ばれる、ヴィシー傀儡政府の徴用を逃れるために潜伏した若者たちの地下組織のリーダー格だった、歳の似通っていた俺たちは意気投合した、
マキザール、通称「マキ」は、血気盛んな若者たちで構成されていたこともあり、ドイツ兵はマキの捕虜になるよりは、連合軍の捕虜になることを望んだろう、ときには略奪や「捕虜」の処刑が行われてもいた、グルエはそのなかでもいっとう血の気の多い若者だった、
「このアンリ・グルエという方は、なかなかのハンサムで興味深い人物だったようですな、、」
「マンゼルさん、アンタは俺以上に俺のことに詳しそうだ、そこまで、俺に興味を持ってくれたのはアリガタイが、それが、今日、俺が出向いてきたことと何の関係があるんです、」
俺は、勝算のないまま「攻撃」に出ることにした、マルクがいれば「攻撃は最大の防御、、」と得意の格言をもちだしてくれたことだろう、
「モローさん、『触れられたくない過去』、というわけですな、そのお気持ちもお察しします、
ただ、電話でも申し上げましたように、あの本にお支払いする金額は『思い出の価値』といったはずです、まあ、しばらく、お付き合いください、、といっても延々とあなたの過去を語り尽くすつもりもありません、仰せのとおり、先を急ぎましょう、、あの本ですが、あの18巻からなるジェイムス・ジョイスの『ユリシーズ』、あれはそのグルエさんから譲り受けられたものでしたな、、、」
その言葉で、マンゼルがいう「調査」がどういう理由があってかは分からないが「本気」であることが俺にも分かった、それにつけても、マンゼル、そしてこの大邸宅に住むド・モンテフェール家とは一体、何者なのか、
「アンタ、グルエと会ったのか?」俺は質問に答える代わりに、思わず素直な言葉をぶつけた、
「そのお答え方は、事実をお認めになるということですな、
残念ながらグルエさんは、アルジェリアでお亡くなりになりました、幸いにも我々はお亡くなりになる少し前にお会いできることができました、、」そういって、マンゼルは含みのある笑みを浮かべた、
「モローさんが、ご承知かどうか、
あの本はもともとは、こちらにいらっしゃるマダム・セシーラのご主人、そしてマダム・アンヌのご子息であり、ポール・ド・モンテフェールのご尊父であったクロード・ド・モンテフェール大佐からグルエさんに渡ったものなのです、」
「不幸にもド・モンテフェール大佐は、先の大戦の或る作戦中にお亡くなりになっております、
当然、ド・モンテフェール家といたしましては、その『死』にいたる詳細を軍から取り寄せたのですが、ところがどうもハッキリしない点がいくつかありまして、マダム・アンヌのご希望もあって我々は独自で『調査』をすることにしたのです、」
ド・モンテフェール大佐、、、「その死に秘められた謎」、、、独自の「調査」、、、俺はマンゼルがその話を何故いま持ち出すのかその真意をはかりかねていた、
「少し混乱されておりますかな、、ああ、お話に夢中で、椅子もおすすめしておらなかったですな、どうぞ、お座りください、」
俺は、気の進まぬままマダム・アンヌとポールの向かいの豪華な革張りの椅子に腰をおろした、ポールはぶしつけな視線を隠すこともなく俺を睨みつけた、俺は、もう一度「オデュッセイア」の冒頭の一句を心でつぶやきかえさざるをえなかった、
「ところでモローさん、あの『ユリシーズ』という書物はなかなか面白いですな、いや実に興味深い、
こういう言葉をご存知ですかな、『真実を伝えようとするならば真実の錯覚をつくることである』、
モーパッサンの言葉です、おや、わたくしの口からこんな言葉が出るのは意外ですかな、いや、そう面食らったような顔をなさらないで下さい、わたくしの本職は、精神心理学にありましてね、実は、こちらにおられるマダム・セシーラの長年の担当医でもあります、当然のことですが、おかわいそうにマダム・セシーラは、ド・モンテフェール大佐の死に相当のショックを受けておられてましてね、、、
我々の『調査』というのも、ジョイスが徹底した写実で架空のダブリンの一日というイルージョンを生み出して人の真実を炙り出したように、一方では、ド・モンテフェール大佐の死にいたる『事実』を辿ることで、マダム・セシーラの心のリハビリテーションを行うことをも目的としていました、、、
実際、我々は、綿密な調査を行ってまいりました、そして、そのパズルの最後のワンピースが貴方だというわけです、、それが、わたくしの云った『思い出の価値』への対価ということです、、」
戦時下の夫の行動は、まるで、わたしに秘密で綴られていた「日記」の一ページ、一ページのように、わたしに届けられた、、
12月13日、夫は凍えるようなブルターニュに野営して農家から調達したチキンスープを夕食にしている、それは昔ながらのユダヤのごく家庭的なスープで、夫はそれにライムをたっぷり搾って暖をとっている、直属の兵士の証言では、、子供の頃は祖母から風邪をひいた時は、このユダヤのチキンスープが効くといつも飲まされたものだと夫は懐かし気に呟いたという、ライムをたっぷり搾って飲むのよ、と、、、
12月18日、、、夫は、そのスープを分けてもらったという一家を訪ねている、それは、ちいさな思い出をきっかけとした気まぐれに過ぎなかったに違いない、でも、そうした気まぐれのひとつが時には予期せぬ運命を生み出していく、、、
わけの分からない闇に導き込もうとしているようなマンゼルの言葉に不安を感じて、俺は自覚のないままに慌てて抵抗を試みていた、
「マンゼルさん、、悪いが、俺は、ただ本が欲しいというので、やって来ただけで、、俺には、そんな大それた秘密があるわけでもないし、、、俺には何が何だか、、、アンタの話は雲をつかむようで、正直、心当たりというのがないんですよ、、それに神かけて誓いますが、俺はド・モンテフェール大佐とやらに会ったこともない、、、」
「まあまあ、落ち着いてください、モローさんがそうおっしゃるのはよく分かります、
しかし、事実、あなたは、我々にとってはミッシングリンク、『失われた環』 なんです、我々が集めた事実を最後に繋いでくれる鎖なんですよ、
、、、それにアナタはお気づきになっていないだけで、、、あなたは、ド・モンテフェール大佐、本人にも会っておられます、、、」
中世のままの茅葺屋根に鳩の飼育場のあるその農家は、夫婦と娘だけが住んでいるには意外に大きな田舎屋だった、石造りの壁にアーチ型の外階段の入り口がふたつあり、窓も扉も緑色に塗られている、
その田舎屋の主人は、この地方出身者の頑固で働き者のブルトンだったが、妻はどこか都会育ちの匂いのする、多分ユダヤ系だった、娘は父親ゆづりの気の強そうな茶色の瞳をもち、母親ゆづりのブルネットの柔らかそうな髪を引き継いでいた、
夫は一回目の訪問のときには、この地方特有のクレープ料理とシードル酒をふるまわれ、2回目の訪問の際に、この家の主、ピエール・フラマンジェから、さっそく「秘密」を打ち明けられている、
「旦那だから打ち明けますが、旦那もお察しのとおり俺の女房はユダヤなんです、それに、実は俺たちはマキの一派をかくまっているんですヨ、旦那は、立派な軍人さんだ、なにより俺は、女房と娘のリーヌのことが気になって仕方がない、なんとか力になってもらえねえですか、、」
そういうとフラマンジェは、キッチンの方へ目をやり、その暗がりにむかって合図のように頷いた、
今朝、しめたばかりの鳩が数羽、血抜きのためにぶら下げられた台所の暗闇から、リーヌと呼ばれた娘の手をひきながら、血気盛んなマキというにはどこか弱々しげな青年が現れ、夫の前に立つと、アンリ・グルエと名乗った、、、
俺は、、、どちらにしても俺は、マンゼルが俺でさえ忘れていた俺自身の過去をいまさら穿(ほじく)り返して裁きはじめようとしているのに先ずは恐れを感じていたが、、、
しかし、正直にいってその一方でマンゼルの言葉は、魂を売るかわりに魅力的な運命を与えてやろうというファウストの取引のように、どうしようもなく俺を魅きつけるものでもあったのだ、、、
確かに、それは俺自身の過去に違いないが、
俺にはそれがどれほどの罪をもっていて、マンゼルがいう「事実を繋ぐ鎖」というほどの価値がはたしてあるのかどうか、いまや俺自身にも、俺の過去の罪と役割などというものは皆目、検討もつきはしなかった、
本当のことをいうと、恐れよりも俺自身の過ぎ去った時間が何らかの役割をもって姿を甦らすことに俺は心を奪われはじめていた、
そう思うと、グレイの背広に身を包んだ長身痩躯のマンゼルの姿が、悠々としてこちらを誘うファウストのイメージとダブり始める、
マンゼルの水先案内に従って俺はなんとか「目覚めよう」とあがいている、過ぎ去ったものは、それが悪夢だったのか、或いは単なる夢の断片として忘れて良いものなのかそれはもはや俺の判断になかった、
「モローさんがお持ちの『ユリシーズ』は、各章ごとに18冊の分冊になっておりましたな、そして一章ごとにバラバラにされたそれぞれがギリシアンブルーの表紙の特別装丁になっている、
それは、ド・モンテフェール大佐が自ら街の印刷屋に装丁を頼まれたものです、どういう興でされたのかは計りかねますがね、もとになった書物そのものは、シェイクスピア書店のオリジナルのものではなく残念ながらそれほど価値のあるものではありません、
大佐は、作戦中もそれをリュックの中に携えておられたようです、一種の愛書家といえるのでしょうな、
大佐はお亡くなる前に一度だけマダム・セシーラ宛に手紙を書いておられましてね、その手紙は、あとになって発見されたのですが、奇妙な『追記』がありましてね、
そもそも追記とよべるものなのかどうか、手紙の最後の余白にまるで何かのメモのように、こう走り書きされているのですよ、、、『ユリシーズ 0130』とね、、」
確かに、モローの手元にある「ユリシーズ」は、一章ごとに素晴らしいブルーの表紙にくるまれて、表紙には金の箔押しで「ユリシーズ」の文字とジョイス自身が後に削除した各章のタイトルが刻まれている、
裏表紙には、何かの紋章が流麗に、これも金で箔押しされているが、それは、後で気づいたことだがド・モンテフェール家の紋章だった、
年月を経てさすがに本の角や、表紙にはスリ傷を残しているが、その18冊に分かれた見事な装丁の小冊子は、20世紀文学の奇書というよりはいわれのある古文書を思わせた、
ためしに、第一章「テーレマコス」の、その一ページ目、一行を開いて、この謎を多く含んだ物語をジョイスがどう切り出したかを見てみよう、
「恰幅の良い、まるまると太ったバック・マリガンが、シャボンの泡の立つ髭剃り用のボウルをもって、階段を昇ってきて姿を現した、ボウルの上には、手鏡と剃刀がまるで十字架のようにクロスして乗せられていた、紐のほどけた黄色のガウンが気持ちの良い朝風に吹かれて、ふわりと後ろに巻き上がる、彼はボウルを腕高く掲げて、唱えはじめる、
ーわれ天主の祭壇に赴かん、」(百歳堂意訳)
物語は際限のない「言葉」で綴られていく、ジョイスは飽くことなく校正を繰り返し、あらゆるアプローチを駆使して「言葉」に挑んでいく、それが、この作品を永遠のものにした、
ジョイスの「ユリシーズ」がいまだに、どの小説よりも「新しい」のは、そこで試されているのがわけ知り顔の「新しい手法」などではなく、作家がどこまで「言葉」に挑めるかという本質的な行為が隠し立てなく晒されているからに違いない、
そこに綴られる物語よりも、これほど、それを書いてゆく作家の「書く」という行為にスリルを感じて、そのことを意識させる作品も他にない、
ところで、「ユリシーズ」をめぐって、全能のファウストを思わせるマンゼルに自らの過ぎさった「時の意味」を支配されはじめたモローが身悶えしている間に、このド・モンテフェール一族のことについて少し触れておこう、登場人物たちは誰も、この特異な一族について語り始めようとはしないから、それに、ここに参席していないもう一人の主人公、クロード・ド・モンテフェール大佐については是非知ってもらいたいこともある、、、
モンテフェール家の家系は9世紀まで遡ることができる、
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「愛人」 その3
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2008-11-16T21:10:00+09:00
2009-05-27T01:49:11+09:00
2008-11-16T21:11:11+09:00
rikughi
「愛人」 Ⅲ
六義庵百歳堂
デカダンに赤く塗られた仄の暗い小部屋で、俺が傷だらけのハミルトンカーキを覗きこんでいたら、横から気の良いヴェラが「今日はやけに時間を気にするじゃない、モロー」と囁いてきたので俺は慌てて顔をあげた、
「誰か良い人と待ち合わせでもしてるんじゃないでしょうね、」、言葉というのは時にしてやっかいだ、虚をつかれた俺は咄嗟に適当な言葉を探し切れず、なんとか唇に指を当てて「シッ、黙ってろ」と虚勢をはるのが精一杯だった、
ヴェラは、なおも身体を摺り寄せてきて「あら、良い時計をしてるのね、アメリカ製ね、」と俺の腕を覗き込む、
思わず俺もいっしょになって覗き込んだ、made in U.S.A.、小さな傷痕のある毛むくじゃらの俺の腕にまるで秘密の刻印を押したように、小さな文字が浮かんでいる、
その文字が仄めかす通り、モンマルトルのチンピラを気取っている俺はアメリカ国籍の生粋のヤンキーだ、
戦後、フランス娘にイカれてパリに居残った俺が「マダム」リーヌと出会ったのは、リーヌがまだ極く当たり前のハウスワイフでいられた、もう15年も前のことになる、出会ったきっかけは、単純にそのリーヌの亭主だった男が、昔は少しは勇気のあるレジスタンスの「英雄」で、「戦友」だったからだ、俺は軍隊時代にその男と秘密裏に連絡をとりあっていたことがある、
戦後、俺たちは再会し、一人身だった俺を彼らは、よく日曜日の午後の食事に誘ってくれた、
当時から、リーヌは強い個性を持っていた、ユダヤ人との混血であるリーヌは4年間あまりをドイツの片田舎の収容所で死と背中あわせの長い時間を送っていた、その人生の仕打ちが、この華奢なブルネットの美人を強固な個性をもった「マダム」に仕立て上げたともいえる、リーヌの強固さを示す一例は、戦後、パリに戻ってからも同じ収容所にいた仲間をドイツ人に協力したかどで忘れることなく告発したことからも分かる、少しでも心当たりのある者はリーヌを恐れた、
リーヌがこの商売をはじめたのは、その亭主が戦後のパリとは折り合いが悪かったせいもある、はっきり云えば戦後の混乱をなりふり構わず生きていくには商売下手で、とくにリーヌの告発騒ぎはたとえ正しいとしても昔からの仲間を遠ざけた、
しばらくして、戦争と英雄的行為が忘れられない亭主は、激しい口論の末、リーヌを捨ててアルジェリアに旅立っていった、そうして残されたリーヌはモンマルトルで「世界最古」の職業に身を投じることになった、
そして、亭主と別れた後は、自然につきあいも疎遠になっていき、俺はしばらくリーヌとも会うことはなかった、
そのリーヌと再会したのは、モンマルトルのボクシング場だった、影さえ見せないほど、煌々と人工の強い光に照らされたリングで俺は溌剌とした黄金色の肌を持つ若者相手に6ラウンドを戦っていた、空をくう俺の渾身のパンチ、その度に観衆のヤジ声が大波のように押し寄せる、、、実際、俺は強力なパンチを持ったボクサーだった、それは自慢できた、しかし、若干のろまなところがあるのが弱いところで、とくに小柄で敏捷な相手には、そのパンチ力を生かす前に相手のジャブに翻弄させられがちだった、
その日も、幾度かの危うい場面の末、ようやく判定で勝てたという有様だった、試合を終えてボロボロになった俺を、リーヌは更衣室に訪ねてきた、リーヌは上等のキャメルのコートを着ていて羽振りがよさそうだった、そのコートは、俺のゴツゴツした裸の体とは対照的に、触れば溶けてしまいそうなほど柔らかに見えた、、、久しぶりね、まだ意識があるようだったら一杯おごらしてちょうだい、
俺たちは、キュスイテーヌ通リにある地元のカフェでささやかな祝杯をあげることにした、聞くところによるとリーヌはこの時、既に小さな「組織」をつくりあげていて「成功」を収めていたという、その噂は風の便りで俺の耳にも届いていた、彼女には「商才」があったのだ、
何杯かグラスを重ねたあげく、リーヌは予定通りという風に切り出してきた、成功した多くの経営者の例にもれずムダな誘いはしないのだ、いつまで殴り合いゴッコをつづけるつもり、モロー、あんたがもう少し利口な生き方をしたいならば、良い話があるんだけど、、、
たしかに、ボクサーとしての俺には限界が見えている、リーヌがいうように「成功」の見通しは薄いだろう、
しかしそれでも俺は、観衆に囲まれて光り輝くリングで戦うことにとり憑かれていた、それは、リーヌの前の亭主を妻を捨ててまでアルジェリアに出掛けさせた「何か」に似ている、戦争を経験した或る種の男が抱えるひとつの後遺症のようなものだ、
何と説明すれば良いんだろう、それは男が生きていくうえで欲しがる「手ごたえ」のようなもので、いまの俺の日々の信仰の芯になるもの、といえるかもしれない、そう、ボクシングは俺にとって、より肉体で感じることのできる「信仰」だった、俺は殴るだけでなく殴られることに安心さえ感じていた、試合の後、傷ついた肉体を煤けたアパルトマンのベッドに横たえ、俺は休息と身体の傷が癒えるのを辛抱強く待っている、試合に勝利したときは甘い達成感とともに、負けたときは焦燥とともに、、これが、戦後、なんとか正気を保つために選んだ、自分なりの「信仰生活」なのだ、
しかし、リーヌには抗いがたい不思議な魅力があった、リーヌの野望、リーヌの溌剌さ、リーヌには優れた経営者だけがもつ、「事業」に対する単純で力強いビジョンといえるものさえあった、名だたる企業を任されても、リーヌならそれなりにやりこなしただろう、
結局、俺はリーヌのカリスマに取り込まれ、コンビを組むことを承諾した、
なにより、リーヌはたしかに戦後を新しい「考え」で生きていこうとしていた、いまだ戦争の記憶をひきずっていた俺には、それが強烈な印象だったのだ、
いまだ俺の周りには、そんな人間はいなかった、こうして俺は、時代に取り残された、ボクシングを軸とした「信仰生活」を捨て、金と快楽という新しい20世紀に向き合うことを選んだのだ、
リーヌと会って話した者は、いつしか、リーヌこそが自分の人生を変えてくれる頼もしい女神のように感じたことだろう、それがリーヌのカリスマだ、
それに加えて、リーヌは独創的な「経営者」だった、リーヌは当初から「特別な」顧客のための特別な「秘密の館」をめざしていて、そこでは金の受け渡しひとつさえ「エレガントである」ように工夫され、女たちが直接、お客に「報酬」について口にすることはなかった、スタイルがあったのだ、
俺たちがコンビを組んで、最初の幸運はデンマーク生まれの類まれなブロンド美人、ジャンヌと出会ったことだった、
利口にもリーヌは、彼女に限っては顧客のなかでも極く特別な上流の客しかとらせなかった、
時代はすでに戦争の記憶を忘れてしまおうとしていて、ヨーロッパには人生の快楽を求める「洒落た」上流階級と、戦後の新興成金が幅を利かせ始めていた、顧客を限定したことが、かえってそうした人種のエリート意識をくすぐり、リーヌの店へ自由に出入りできることが、いつしかひとつの隠れた「ステイタス」となっていった、
それをきっかけとして、リーヌは「プロの女」たちを排して、美貌に恵まれた下積みの女優やモデル、ダンサーを集めることに専念した、
特筆すべきは彼女たちに「館」にふさわしい「教養」を身に着けさせたことで、リーヌの店の女たちは数か国語を話し、上等なクチュリエのドレスを身に着けていた、こうして「リーヌの占いの館」は、雪ダルマ式に成功を収め、ごく限られた上流階級の「秘密クラブ」として、名を馳せていった、
ただ、行過ぎた成功には、時として罠がある、それは、「リーヌの占いの館」も残念ながら例外ではなかった、自分たちでは全く気が付いていなかったが、いつのまにか「館」はある機関、第三者にとっても価値のあるものに映っていたのだ、
その巧妙な罠は、こんな風に仕掛けられていった、、、
或る日、正午過ぎに目覚めた俺は、着慣れたツイードのジャケットを引っかけて、いつものようにサン ドニ通りのカフェに遅い朝食を摂りに出た、8月も末になって季節は秋に向かっている、乾いた空気に混じって通りに漂う食べ物の匂いが俺を幸せな気分にした、
この雑然とした通りには昔から他の場所では目の飛び出るような値段を請求されるだろう食材と料理が、有難いことに下町の手ごろな値段で腹に収められる店が軒を並べているのだ、
行きつけのカフェ、「3匹の魚」にはすでに常連たちが集まり食べ物屋らしいにぎわいがあった、
俺はいつものようにソーセージやベーコン、スクランブルエッグなどが豪勢に盛り付けられた「アメリカンブレックファスト」を特別注文し、絞りたてのオレンジジュースを手始めに一口飲みはじめたとき、同じアパルトマンの上に住んでいるマルクが不機嫌な顔で声をかけてきた、おまえさん、マダム・ヴィルモンに会ったか、、、
マダム・ヴィルモンは俺たちのアパルトマンのおかみ兼管理人で、俺は金に不自由しなくなった今も、この下町の古めかしい棲家を離れることが出来ないでいた、
それは、小柄でやせぽっちで、毛玉が目立つ古ぼけた茶色のジャケットをいつも着ていて、気の良い子鼠のような表情をみせる愛すべきマルクをはじめ、ボクサー時代からのつきあいの仲間たちがいてその気がおけない生活を捨てるのも忍びなかった、第一いまさら俺に金にあかした生活が似合うはずもない、
俺は、慎重に普段通りを装い、周囲には肉体的にボクサーに限界を感じて、今はやりのガキ相手のデイスコテイークの用心棒に雇われたことにしていた、
「ゆンべ、俺が食事にでかけようとおりていったとき、お前の部屋のドアが開いてたんで、中を覗き込んだら、マダム・ヴイルモンと紳士面した男がいたんだよ、モロー、お前、なにか探られなきゃいけないことでもやらかしたのか?」
俺はとっさに、リーヌの店のことが脳裏に浮かんだが、表向きはナイトクラブを装うそれが俺とつながりを持つことをこの界隈の人間が知るよしもない、
俺はとりあえず何もいわずに、首を横に振った、マルクはなおも不審がって、「モロー、何か心配があるなら、俺を信じて話せよ、俺だってこの界隈には長いんだ、少しばかりのコネだってないわけじゃない、お前、ズイブン立派な本の全集をもってたな、その紳士づらしたやつは、さんざ部屋を探ったあとに、あの本を見て、モローさんは文学にも素養がおありですなとかヌかしやがった、モロー、悪いけどあの本は確かにお前には不釣合いだ、あれが盗品ってわけじゃないだろうな、」
「マルク、お前一部始終を見てたのか、」、「一部始終どころか、その紳士ヅラに挨拶したさ、何か知ってることがあれば連絡しますからって云って、名刺ももらっといたさ」
マルクが、くたびれ果てたジャケットの胸ポケットから取り出した名刺を、俺は引っ手繰った、その小さな紙片には、「弁護士 ジャンニ・メンケス」と住所と電話番号があった、
「ところであの本、ギリシャ神話かなんかか、ユリ、、、」、「ユリシーズ、、似たようなものさ、」
ユリシーズ、、、ホメロスの「オデュッセイア」になぞられて、ジェイムズ・ジョイスによって書かれた18章からなるダブリンの1904年6月16日、その日、一日を描くこの物語は、俺の「信仰生活」の旧約聖書代わりだった、俺はリングでヘトヘトになるまで傷つき、ベッドで、この20世紀の奇書を読みふけりながら肉体を癒した、
リーヌと再会してから、そういえば俺は、この本を開くこともなくなった、
まさか、、、
俺は、まさかと、思いながらも、心に不安の種子が一瞬にしてはびこっていくのを隠すことが出来なかった、
まさか、、、その不安のわけは、俺が戦後、自らを「信仰生活」に閉じ込めたその理由の核心となるものだった、そして、それはこの書物とつながっている、
せっかくのリヨン産のソーセージの味もわからないまま、俺は上の空でつぎつぎに食物を腹に収めていった、マルクは心配そうな子犬のようにそれを見守っている、
「よお、とりあえずその弁護士のところに行ってみないか、案ずるよりは生むが易しっていうじゃないか、モロー」
俺には選択の余地はなかった、マルクの意見に従って、俺たちは、その足で名刺が告げる住所に向かった、マルクに言わせると善は急げ、奇襲に勝る戦術はなし、、、
1区の瀟洒な小道にある古びた小さな建物に、弁護士メンケスは事務所を構えていた、入り口の真鍮の表札によると3階にその事務所はあるはずだった、建物に入ると、年老いた善良そうな玄関番が古びた机の向こうで新聞を読んでいたが、俺たちは、その不審な表情を無視して、ギシギシ鳴る急な階段を勝手に昇っていった、
3階には2つの扉があり、しかしどちらにも看板に類するものはなかった、仕方なく俺たちはひとつづつ、最初は丁重に、続いて今度は無遠慮にノックしたが、どちらの扉からも返事はなかった、
俺たちが途方にくれていると、ゼイゼイいいながら玄関番の老人が階段を上がってきた、「あんたたち、誰かさがしておいでなのかね、」咎めるような表情で老人は続けた、「だが、生憎、3階には誰も住んでおらんよ、」
口火をきったのはマルクだった、俺が手にもっていた弁護士の名刺を引っ手繰ると、それを老人の顔の前に突き出しながら、「ジイサン、俺たちはこのメンケスっていう旦那に会いたいんだがね、ホレ、この通り、ここの住所だろ」、
老人は、マルクの勢いに気圧されていたが、メンケスという名をきいて平静を取り戻したようだった、「ああ、ムッシューメンケス、メンケスさんはもうココにはいない、、」
「ナニ、引越ししたっていうのかい、」マルクはいまにもとびかかりそうな勢いだった、
「イヤ、一ヶ月前に亡くなったんだよ」、、、
それからの一週間の俺の気持ちをどう表現すれば良いだろう、
マルクは、第三者の名を語った「不審な人物」を不用意に下宿人の部屋に入れたかどで、本質的には気の良いマダム・ヴィルモンを責め立て、おかげで俺は、マダム・ヴィルモンから不審がられることもなかった、
だが俺には、これが単なる茶番で終わるはずのないこと、何らかのメンドウに巻き込もうとする正体の知れない何者かが動いていることが分かっていた、その7日間、ジャンニ・メンケスの一件は、俺を生殺しにするような不安を残していった、
その不安が具体的な姿を現したのは、それからきっちり一週間後、パリの美しい秋の到来を予感させる朝だった、
その朝、俺は、無数の黒いカタツムリがシーツのうえに這い上がってくる夢にうなされて、声にならない叫びとともに思わず目を開いた、
その時、冷たい汗に濡れた俺の耳に、ベッドの脇のこれも不吉な黒をした電話のベルが鳴り響いた、いや、それはずっと鳴り続けていたのかもしれない、
「ムシュー モロー」、それはこの界隈では聞くことのない深みのある、洗練された声だった、
「あなたとは、まだお目にかかったことはないが、私の名前はジャン・マンゼルと云います、あなたにとって重要な問題でお電話をかけたのです、」
俺にとっての「重要な問題」、その言葉は俺の心の不安に突き刺さったが、俺はわざと素っ気ない声で言い返した、
「ちょっと待ってください、あなたは、ジャンニ・メンケスという名に聞き覚えがありませんか、、、」
マンゼルと名乗る男は、俺の唐突な質問にもひるまず、話を続けた、
「あります、その件に関してはお会いしたときにお話します、」
「マンゼルさん、アンタは覚えがあるとおっしゃった、いったいどういうことなのか、今、説明してもらえないですか、それが出来ないなら、お会いするつもりもありません、」
「困りましたな、私は単に仲介者にすぎないのです、これ以上、ご説明するよりは実際に一度お目にかかった方がよろしい、
それに、あなたが思っているほど胡散臭い話ではないのです、まともな取引の話です、あなたに、犯罪まがいのことをお願いしようという訳ではないのです、」
「取引?いったい俺とアンタが何を取引しようって言うんです、俺には取引するモノすら見当たらない、」
俺の剣幕に、マンゼルがためらっているのが、その少しの沈黙の間から察せられた、
「モローさん、あなたがご不審なのは分かります、、ここで、あまり細かいことはお話ししたくなかったのですが、致し方ありません、実は、あなたがお持ちのジェイムス・ジョイスの書物を50万フランでお譲り頂きたいのです、」
俺は、その金額と申し出に驚いた、と同時に警戒もした、
「それは、有難いが、あれは、稀観本でも初版でもない、そんな大それた価値があるとも思いませんがね、」
「存じてます、古本屋に持っていっても、まあ、せいぜい20フランか30フランでしょう、ただ、価値というのは人が決めるものです、まあ、あの本の『思い出』の価値といえるでしょうか、」
俺は、その「思い出」という含みに不安を感じた、俺には覚えがあるのだ、マンゼルはサハラのタランチェラのように、毒針を静かにもたげた、
「モローさん、その『思い出』にはお心当たりがおありのはずです、あの書物は、あなたのものではなかったはずだ、、、さあ、少しお話しがすぎました、明日午後2時に車を迎えにやらせます、よろしいですね?」
翌日午後2時きっかりに、マンゼルがいった迎えの車はアパルトマンの前に止まった、
それは、ツヤツヤした黒い棺桶を思わせるリムジンだった、運転席から降りてきたのは、これも黒の制服を着こんだ、やせっぽちの蝙蝠を思わせる50代前後の男だった、こけた頬に比べて、耳が蝙蝠の翼のように大きくひろがっている、
「ムシューモロー、どうぞお乗り下さい」、芝居じみて手を広げる運転手のその向こうにある、その日のパリの空は低く、グレーに曇っていた、空気は冷たく、少し湿っている、夕方には小雨が鋪道を濡らすかもしれない、
やせっぽちの男の運転は職業的にスムーズで、そして職業的に無言のままだった、車は、サンドニ凱旋門の角を曲がると当然の如く西へ向かった、
俺は、何度かやせっぽちに言葉をかけるが、運転手から返ってくるのは、言葉にもならない相槌か、うなづきだけだった、
俺は諦めて、シートにふかくもたれ掛かると、盲目の吟遊詩人によって語られたオデュッセイアの冒頭の一句を口ずさんでみる、
「あの男のことを、わたしに語りたまえ、ムーサよ、 数多くの苦難を味わったあの男を、、、」
俺はどうしても、オデュッセイアの苦難の旅物語と今の俺をだぶらせずにはいられなかった、俺は旅から無事、戻ってこれるのだろうか、
車は、まるで黒い液体のようになめらかに午後のパリの街並みをすべり抜け、流れていく、俺はその革張りのシートに埋もれて戦争以来の過ぎさった「時」を反芻せざるをえなかった、マンゼルの「思い出」という言葉が重いパンチのように肝臓の辺りにひびいていたのだ、この閉ざされた快適な車内から窓の外を眺めていると、現実世界からしばし逃れた夢の繭のなかにでもいる気になる、、、オペラ座を通り過ぎるとき魔女のように黒いドレスを幾重にも着た老婆が道の向こうで俺をしきりに見つめていたような気がする、、運が尽きたね、アンタ、、俺は窓の外に流れすぎる見知らぬ顔を眺め続けていた、幸福そうな顔、不幸せな顔、空虚な顔、顔、顔、顔、、、ラファイエット、オープランタンの前を通って、黒いリムジンはモンソー地区にはいっていった、ブールヴァール クールセールで車は道をそれるとついにグロッタのような石造りの邸宅の前で止まった、
「さあ、着きました」、運転手の声に導かれ、俺はドアを開け、丸い小石が敷き詰められたファサードに出ると、その岩から削りだされた大いなる伝説の怪物のような建物を見上げた、何もかもが古代の岩の遺跡のようにいかめしく、威圧的だった、それだけで、今日の運勢が俺の味方ではないことを悟らずにはいられなかった、
メイドに案内され建物に入ると、そこは磨き上げられたオークパネルに囲まれ3階まで吹き抜けになった巨大な円形の広間だった、天井高くに、これも巨大なシャンデリアが吊り下げられている、目の前には凝った細工の手すりがついた大理石の悠々とした階段が広がっていて、それは中2階で二手に別れ、さらに天上へと繋がっている、
俺が詩人だったら、この建物と天上へ向かって延びていくひんやりと冷たい、貴婦人のようにエレガントな大理石の階段について一遍の詩を捧げたろう、無意識に階段の方へ進もうとする俺を制して、メイドは別の扉に誘う、その扉を開けると今度は鼠の通り道のように、天井の低い薄暗く、細長い廊下が現れた、その両脇には、工作室、狩猟の道具や銃が仕舞われている部屋、ランドリー、料理室、何かの倉庫、そしてやっと突き当たりに、檻のような旧式のエレベーターがあった、
その二人も乗れば精一杯の小さなエレベーターはチェーンの音をガラガラ立てながら、上昇を始めた、メイドは前を見つめたまま人形のようにまだ無言だった、あの痩せぎすの運転手も然り、この家の使用人には厳しい言論統制が行き届いているかのようだった、それがこの屋敷を、優雅な高級住宅地にある邸宅というよりは、まるで徹底して統制された軍隊の指令本部のように思わせた、
エレベータのなかで、俺は檻に閉じ込められた動物が先ずそうするように孤独のままに天井を見上げた、木のパネルを張ったそこには、引っ、かき傷のような落書きがしてあった、、、マリアンヌ、、、稚拙な書体で何か尖った先で書かれた文字はそう読めた、
ギシギシ揺れながらも、エレベーターは「約束の地」に到着し、メイドは無言のまま扉を開けると振り向きもせず先を急いだ、そこは、建物の端から端へ横切る長い回廊だった、一方には大きな窓がいくつも続き、もう一方にはオークパネルが延々と続いている、時折、古びた椅子や、ソファ、細長いテーブルが壁際に置かれていた、まばらに置かれたそれらは、この建物のなかでは、すでに居場所を失った古家具のようだった、窓からふり注ぐ午後の陽光に照らされた色褪せたその家具のせいで、俺は廃墟に迷い込んだ気分になった、
ついに、メイドはひとつの部屋を探し当て、静かにノックをした、扉が開かれたとき、最初に声をあげたのが、多分マンゼル本人だろう、部屋には数人の男女がひかえていた、
「ムシュー モロー、お待ちしていました」、それが俺の「裁判」の始まりを告げる「木槌の音」だった、
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男の躾け方 「愛人」-2
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2008-09-15T02:53:00+09:00
2009-05-17T02:35:23+09:00
2008-09-15T02:47:44+09:00
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「愛人」 Ⅱ
六義庵百歳堂
突然、支那風の音楽が流れてきて、色鮮やかな中国の朱の絹のガウンを着た女が、これも朱の盆に乗せられた香炉をかかげてフロアの中央に摺り足で躍り出た、その朱の絹には、東洋の赤い魚が絡まるように三匹、描かれていた。女は、王朝の宝物のようにゆっくりと香炉を床に置く、翡翠の色をしたそれからはモウモウと香の煙が立ち昇っていた。ご丁寧に「パイロット」の女たちも、フロアの各所に香炉を置きはじめ、その匂いはいつしか私たちの席をも包んでいった。
その香の甘い匂いは、麝香鹿の腹部から抉り取られた純粋なムスクを思わせたが、匂いを現す言葉よりも、むしろ或る時代や空間を想い出させるものだった。それは、厚い霧がかぶさって茫洋としか思い出せないものだったが、どこかで懐かしい気分にもさせる、その懐かしさは子供の頃に嗅いだ母親の肌の匂いのようなもので、その匂いに囲まれた安心にウトウトまどろんでいると、急にガクンと意識を奪われそうになる、私は、何度かその匂いに引き摺り込まれそうになって、気を取り直さなければならなかった、
眼を凝らすと、フロアに置かれた香炉の後ろには、薄い布が張られた屏風がいつのまにか置かれ、あの香炉を掲げ持っていた女が、ひとしきりお客に愛嬌を振りまくと、その屏風の陰に隠れて、絹のガウンを脱ぎさった、
そのガウンは羽衣のように舞って、音もたてずに床に落ちる、その衣に描かれた赤い魚の一匹のギョロりとした眼が私を睨んでいるように思えた、
屏風に隠れた女が衣を脱ぎ去るのと同時に、もう一人、同じ朱の絹の女が現れるとフロアの中央に躍り出て満面の笑みとともにその衣をぬぎさった、形の良い乳房と、その白い肌が闇に浮かぶ、驚かせたのは腰に巨大な張り形をつけていたことで、もう一度、思わせぶりな笑みを浮かべると、さっそく屏風の陰に隠れた、薄布を通して交差するふたりの女のシルエット、それは、絹の衣に描かれていた戯れあう東洋の魚を思わせた、どこからか中国の弦が低く響いてくる、
それを合図かのように、私は、こらえきれずに瞼を閉じたように思う、それは匂いのせいなのか、シャンパンのせいなのか、それともノルマンデイーへの旅の疲れが災いしたのか、
しかし、それは心地良いふわりとした「旅」のようだった、闇のむこうから、女の声が聞こえてくる、、、
「あたしは、マダム リーヌにいわれて、いつものようにアベス通りにお客を迎えに出た、今日のお客は東洋人の若い男だということ、夜の通りは少し風が吹いてこの季節にしては肌寒かった、
ショールをはおりたかったけど、マダムは着るものにはウルサかった、男たちの印象に残る服を着なさい、あなたの魅力は、その胸よ、それを見せつけてやりなさい。同僚のヴェラがいうには、マダムは元バレリーナーだったらしい、それも、将来を嘱望されたバレリーナーだった、それが練習の最中にくるぶしを痛めて、それから、この世界に入ったらしい。何だか、ママンを想いださせる。
人はいつまで挫折を繰り返せばいいのかしら、それとも神様はひとり何回と生まれたときからその回数を決めていらっしゃるのかしら、通りの向こうで煙草の火が赤く灯るのが見える、それは、まるで暗い夜の海で船を導く何かの合図のように見えた、街灯の下で所在なげに煙草を吸っている若い男、東洋人かどうかはここからははっきりしないけれど、問題があるような客には見えないわ、彼もあたしのことに気づく、あたしは、夜の鋪道を精一杯魅力的に歩いていく、
そう、私はママンのことを考えていた、正確にいえばママンのことを思い出そうとしていた、フェルム通りの叔父さんの家にしばらくぶりに立ち寄ったとき、ママンから12年振りに連絡があったと知らされた、本当はママンではなくて、ママンの‘友達‘という人からだったけれど、
ママンは病気で、あまり良くないという、当惑げな叔父さんの顔、でも、あたしは、叔父さんが思うほどママンにうらみを抱いていない、むしろ、ほんとは、いまママンに会わなければいけないことに戸惑い、当惑している、12年間はあたしにとってはとても長い時間の積み重ねだった、その積み重ねのなかで、ママンがいないさびしさや、空虚さはあたしが慣れ親しんだ、あたしのもう一部分なのだ、それが、こんな形で唐突に結論を迫られることに、あたしはとまどいを感じてしまう、
あたしは、いつも何か大事な忘れ物をした子供のように自信が持てなかった、その 『忘れもの』を誰かに咎められるんじゃないかと、いつもあたしはソワソワしてた、実際、ママンがいなくなったのもあたしのせいじゃないかと、しばらくの間、思い悩んでもいた、何度云われてもブロッコリーを食べなかったから、時々、ママンの眼を盗んでママンの高価な化粧品(実際、ママンの化粧品は、名の知れた高価なものばかりだった。)をつかっていたから、、、
あたしは悪い子だったんだ、だから、ママンは、そんなあたしに愛想をつかして出て行ったんだ、あたしは、そういう風に時間を積み重ねてきた、
ときどきは、あたしだってなんとか良い子になろうと努力した、そしたら,ごほうびのショコラを持って、ママンが戻ってきてくれるかも知れない、
でも一向にママンから連絡はなかった、それで、叔父さんの目を盗んでは、一日中、地下鉄に乗ってママンを探しにいった、といってもママンの居場所に心当たりがあった訳じゃない、ママンだって出掛けるはずだ、いつか地下鉄の中で出会うかもしれない、そう思いついたのだ、ブランシェ広場駅からシャトー・ド・ヴァンセンヌまで、或いはポルト・デ・ラ・シャペルまで、あたしは一日中、地下鉄を旅していた、
それは、ママンとあたしの「鬼ごっこ」。そう、ずっと、ママンと鬼ごっこをしていると思えばいいんだ、
あたしは、一度、地下鉄にのってママンと住んでいたプレ・シェボー通りのアパルトマンにいったことがある、そこをもう一度訪れるのには少し勇気がいった、そこには幸せだった頃の思い出がつまり過ぎている、実際、あたしは幸せだったのかどうか確信はできないけれど、少なくともママンと一緒で、ありきたりの毎日は過ぎていったはずだ、ミラボー橋のすぐ近くにある、そのアパルトマンは豪華なつくりの建物で、そこに住んでいた極く短い期間だけ、ママンは羽振りが良かった、
当時、ママンには外国人の愛人がいて、あたしは、その男が来るときには、ときどき外に遊びに出掛けさせられた、叔父さんの話では、そのアパルトマンも外国人の男がママンのために借りたものだったそうだけど、それを知ったのも、外国人の男がママンの愛人だったという事を理解できたのも、ズット後になってからのことだ、子供のあたしには、外に追い出されることがとにかく苦痛だった、、、」
私は、リュックに肩を揺さぶられて目を覚ました、
「大丈夫か?ノルマンデイーでは随分、遊びすぎたようだな、」
私は、どれぐらい眠っていたのだろうか、喉がいがらっぽいぐらい渇いていて、たまらず自分でシャンパンを注いで飲み干す、それがヒビ割れた黄土色の枯れ地に小川が流れるように喉を伝っていくのが分かった、
私は現実の世界にまい戻ったのだが、頭の中はまだ「もうひとつの世界」に囚われているようだった、
気が付くと、いつの間にか私の横には情報機関の父親をもつ彼女が座っていて、いつものように眉間に皺を寄せながら、心配そうに私を覗き込んでいる、
彼女の真面目な心配顔に、いまの私が答えられることといったら、気弱な微笑みを返すぐらいのものだった。意地をはらずに、私は手短に答える、「バスルームにいって、顔でも洗ってくるよ、」そう、事実、冷たい水が恋しかった、私はまるで東洋から四角い水槽に入れられて長旅を辿った魚のように、新鮮な水の感触が恋しかった、
3人に見守られながら、ゆっくりと立ち上がリ、大丈夫だと少しみんなに微笑んで、フロアに出る、目を凝らしてみると客たちは何事もなく談笑していて私だけが遅れてやってきた旅人のようだった、相変わらず、黒く塗られた店の中は夜の闇を思わせた、
誰かに、バスルームの場所を聞こうと思って、私は目の前を通り過ぎた女のひとりに声をかけた、黒いドレスを着た女が振り返ると、それは私を案内してきたさっきの「パイロット」の彼女だった、私は少し驚いたが、彼女は無邪気に笑いかけると、「あの黒いドアの向こうよ」とコケッテイシュなしぐさで店の奥の方を指差す、私は、君はさっきまで私の頭の中に住んでいたんだ、君のママンのことも知っている、と思わず言い出しそうになった、
それは、夢なのか、現実でもありそうで、私はとまどいながら彼女の眼をみつめた、、、
「、、、そんな時、あたしは外に遊びにいくふりをしてエレバーターに閉じこもっていた、なぜなら、あたしには他に遊びに行くあてもなかったし、その旧式のエレベーターには、小さいけれど赤い革張りのベンチも付いていて、左右の硝子窓と天井についた硝子のランプシェードには綺麗な模様が刻まれていた、それは、大人が二人も乗れば窮屈なぐらい狭かったけれど、身体が細かったあたしには充分な『隠し部屋』だった、
あたしは、そこが特別、気に入っていた訳でもない、でも、その2メーター四方ほどの限られた空間はなんだかあたしでも安心して統治できる小さな王国のようで、気が付くと何時間もその小さな箱に閉じ篭っていた、エレベーターは金網で保護されていて、あたしの力では精一杯に引き開けなければいけない重い蛇腹の引き戸が付いていた、そのせいで、それは犯罪者を閉じ込める檻にも見える、
あたしは、週に何回か、あたし自身をそこに収容する、あたしは、いったい何の罪を犯していたのだろう、
夜の鋪道を、街灯をひとつひとつ数えながら歩いていく、
ふと、あたしとママンには、どこか共通する部分があるのかと思う、形が良いとヴェラから誉められた小さな鼻、自分では長すぎると思っている手足、、、
数えだすと意外に思いつかない、思い出そうと努めるほどあたしは実際にはママンのことを知らないことに怯える、
ママンは『綺麗な人だった』、でもそれは記憶の中の印象で、記憶は記憶のまま、具体的な像をなかなか結ばなかった、幼いあたしは、いやがる叔父さんにママンのことをしつこく尋ねたものだ、もしかしたらあたしの記憶も叔父さんの言葉を勝手につないだものにすぎないのかも知れない、
叔父さんは、一度だけ素っ気ない表紙の古ぼけた写真アルバムを見せてくれたことがある、そこには、パリに出てきたばかりのママンが叔父さん夫婦と肩を並べて写っていた、「ほら、これがお前のママンの若いときだよ」、
モンソー公園で写されたその写真は、いかにも古ぼけていて強い5月の陽射しに目を細めるママンは小花模様のコットンのワンピースを着ていてどこにでもいる若い健康的な娘にすぎなかった、意外に印象の薄いその姿からそれからのママンの人生は読み取れなかった、
あたし自身がママンのことで、はっきりと覚えていること、、、例えばママンは煙草をすっていた、「もう一度、踊るためにはやめなくちゃ、」、「これは悪い癖なのよ、」それがママンの口癖だったが、ママンが煙草を止めたことはついぞ無かった、
あたしは無性に煙草がすいたくなった、、、
東洋人の若い男は、イギリス紳士風の青いダブル前のスーツに白い絹のハンカチを胸にさしていておよそモンマルトルの夜には不釣合いだった。あたしが声をかけたことに戸惑っているようだったけれど、あたしは構わず、煙草を一本ねだった、
煙草を一本もらって、あたしは、念のためこの若い東洋人の男に尋ねた、あなたもリーヌの店に行くの?
あたしは、彼にそう尋ねてはみたけれど、でも、実際は、煙草の煙を吐き出しながら、ママンの思い出もあたしにとってはこの煙のように実体のないものなのかも知れないという考えに気をとられていた、それは自分でそう思いついた言葉だけど、それが意味するところは分からなかった、単にあたしは今ママンと会うことが月曜日の約束のように、めんどうになっているだけなのかしらとも思う、そして何故、めんどうに思うのかは考えたくなかった、できればいつまでも、何もしない日曜の午後のように、ママンの不在に溺れていたい、
あたしが夜の鋪道に吐き出した煙草の煙はミニチュアの雲のように浮かんだと思うとすぐに消えてしまった、
、、、そうだ、リーヌの店、、、それがいまのあたしのわずかな現実だった、、
こんなあたしでも、リーヌの店で、声をかけてくる男たちは何人もいた、マダムに云われてそうした男たちが開くパーテイや、短いヴァカンス旅行につきあうこともあったけれど、あたしは、そうした男の誰かを愛したということはなかった、それに、あたしはセックスが苦手だった、
リーヌの店の女たちは、金持ちで有名な男たちの妻に納まったものも多いし、運転手つきの豪華な愛人生活を送っている女たちもいたけれど、あたしには何かが欠けていて、いつも生きていることに実感がもてなかった、多分、友達と遊んだり、同年代の男の子たちの品定めをしたり、そういうパリの娘が普通に経験していく生活よりも、ママンを探す地下鉄旅行に出掛けたりすることに時間を使いすぎて、実際の時間よりは空想の時間を過ごしすぎたせいかもしれない、
空想に費やしてしまった時間を、神様は返してくださるのかしら、それとも、それが12年ぶりのママンからの知らせだったのかしら、、、
あたしは、東洋人の手をとってリーヌの店へ急ぐ、マダムからはお客を店に連れてくる間は、何を聞かれても、ただ微笑んでいるようにときつくいわれていた、無駄口をたたいちゃ駄目、店の入り口のモローがいるところまでは用心に越したことが無い、
モローは、昔はモンマルトルでいっぱしのギャングだったとも、ボクサー上がりだとも噂されていた、リーヌの店の頼りになる用心棒、入り口の小さな赤い部屋で待機していて、必要とあらば何の躊躇もなく人を殴り倒せるアルメニア人の男、でも、両耳がつぶれたいかつい顔のその男は、不思議に店の女の子たちにモテていた、
ヴェラも一度、モローと寝たといってた、化粧室で鏡にむかってメイクを直しながら,それをこと細かくあたしにいって聞かせる、「あたしはしつこいくらい弄ばれたわ、それで終わったあと優しく背中を撫でてくれるの」、モローがモテるのは、多分、そのいかつい顔と身体つきに似合わず、ときおり控えめな優しさを見せることで、それが寡黙なアルメニア人の男を、思慮深い哲学者然としたものに見せていた、
一度、モローと地下鉄で出くわしたことがある、パリは冬の始まりで、モローは厚い落ち葉色の古ぼけたコートを着ていた、意外だったのは、本を読み耽っていたことで、その厚みからも真面目な文学書か何かそれに類するものだと思われた、
あたしは声をかけなかった、店とは違う普段のモローを観察してみたかったし、それに、あたしは、知ってる人の普段見せない姿を観察するのが大好きだった、地下鉄は、地下鉄の音をたてながらトンネルを駆けていく、あたしは、離れたところから何とかその本のタイトルを読み取ろうとしていた、その本の装丁の古めかしさから、古本か或いは図書館から借り出した書物のように思われた、埃っぽい古本屋で山と積まれた書物を物色する姿も、図書館の整然とした書棚を巡る姿も、リーヌの店の用心棒からは想像し難い、
そうこうしてるうちに、地下鉄は駅に滑り込んで、モローはその本をコートのポケットに無造作に入れると立ち上がった、
あたしも、慌ててドアに向かう、あたしは人ごみの後ろに、モローの視線をさけながら、すえた匂いのする連絡通路をオルデレーヌ通りへの出口へと向かった、
地上に出ると、モンマルトルの空にはもう低く月が出ていた、それは、まだ光が残っている空のなかでぼんやりとしていて、あたしの探偵ごっこのように曖昧に空に架かっていた、古ぼけたコートに手を突っ込んで、モローは冬の鋪道を意外な早足で歩いていく、
あたしは、モローを見失わないように、でも気づかれはしないように、その後を追っていく、モローはプラスベルナルドの角にあるカフェに入っていった、あたしは、躊躇した、ここで探偵ごっこは終わりよ、とあたしは自分に言い聞かせたが何か好奇心が働いて、気が付いたときは、カフェのドアを開けていた、
ぴかぴかに磨き上げられた銀色のカウンター、その奥にエキゾチックなラベルをみせて整然と並ぶ酒瓶の数々、ビールや、ワインのショットを出すひねり蛇口のついた器具がカウンター越しにいくつも並ぶ、そこは18区には珍しく清潔さが行き届いたカフェだった、磨きこまれた金属類とグラスの輝きが、カフェの設えにまるで美術品のようなルックスを与えていた、
モローは、窓際の奥の席にいた、あの本はテーブルの上に置かれている、誰かと待ち合わせでもしているのかしら、あたしは、見つからないようにカウンターで小声でカフェを頼んだ、モローのテーブルに白ワインが運ばれる、ギャルソンと入れ違いに、ネクタイを締めた高級ではないけれど身なりの整った男が近寄ってきて、ギャバジンのコートも脱がず、何も云わないでモローの向かいに座った、
ひと言、ふた言、短い言葉を交わすとモローはグラスに残ったワインを飲み干して立ち上がり、足早に出口に向かって冬のモンマルトルに消えた、それは、瞬く間のことだった、あたしは、、、どうして良いのか分からなかった、ただその男を見つめていた、
それは、モローが地下鉄で読み耽っていたあの本が、まるで何か怪しい取引の品物のようにテーブルに残されていたからだ、
男は頼んだカフェを飲み干すと勘定をテーブルにころがして、立ち上がった、
そして、モローの本を無造作に取り上げる、あたしは、思わずその本を確かめるために身を乗り出した、本能的にそのタイトルを確かめなきゃと、ただそう思ったのだ、それは、かろうじて、こう読めた、、、Uly、、、ss、、es、、『ユリシーズ』。」
黒いタイルが敷き詰められたバスルームで、私は鏡に映る自分の姿を見つめていた、
起き抜けのような呆けた顔は水のしずくで濡れたままだ、顔を洗ったときに前髪も濡らしたようで、しずくがまだぽとぽとと顔に落ちていく、
私は、しばらくぶりで自分の顔を発見したように思う、意識が確定していくにつれ、東洋人の若者がいったいどうして、こんなモンマルトルの店にいるのかが不思議で仕方がなかった、
私は、思わずあたりを見回してみる、
フロアと同様に漆黒で床も天井も覆われたこの化粧室は、つやつやとした黒いタイルと、磨き上げられた金属類が、まるでSF映画の異星に向かう宇宙ロケットの内部を思わせて、手術室にも似た不思議な静謐感があった、黒い手術室、
いまなら、頭のなかに神様からのメッセージが響いてきても驚きはしない、
セーヌから流れてきた水は、思いのほか冷たかったが、私は生まれて初めて、これほど水を恋しく思ったことはなかった、それはガンジスや水の流れが文明を生み出したことを納得させる、「ガンジス」という響きが気に入って、私は口にだして云ってみる、、、ガンジス、、水に恋する東洋人、、
私は、シンクの横に積み上げられた、清潔そうな白いタオルの一枚を取り上げる、そのとき、鏡の隅に黒いサインペンで小さく書かれた文字に気が付いた、どうせどこかの酔客のいたずら書きだろうと思ったが、それは、何かの緋文字のようで、その意味不明の言葉が私の興味を惹いた、それは、こう読める、、、、、Uly、、、ss、、es、、0130、、「ユリシーズ 0130」、
私は、そのときは、それが何を意味するのかを知らなかった、
私は、バスルームの黒いドアを押し開けて、フロアに戻ることにした、つかの間の静謐から欲望の祭礼へ、遠いガンジスへの想いから喧騒の宴に、どちらにしても夜の闇へ、
しかし、ドアを半身すり抜けたとき、突然、黒い素早い影に腕をとられた、その影は、思いもしない速度と力で私の腕を引きづりながら、やはり素早く短く、こう呟く「こっちよ」、
身構えるひまもあらばこそ、あまりに、素早く腕をとられたので、私は黒い影に身をまかせるしかなかった、またしても私は連れ去られる、影はもう一度短く呟く、「早くして、こっちよ」、
影の呟く言葉のままに引きづられながら、しかし、こうしたことはどこかで予測していたのではないかという不思議なあきらめが身体のどこかに潜んでいたことを私は知っていた、
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「男の躾け方」 6 愛人
http://rikughi.exblog.jp/8301564/
2008-07-19T02:48:00+09:00
2009-05-01T05:20:45+09:00
2008-07-19T02:49:08+09:00
rikughi
「愛人」 Ⅰ
「、、愛人という表現は、単に『愛する相手』であるばかりでなく、ある種の暗示を含んでいる。」
(ウイキペデイア 百科事典)
さて、、、
どういう暗示を含んでいるのかは大人の貴方なら大方察しがつくものとして、或る人によると、「愛人」とは、「最もコストがかかる情熱」、と定義されるものらしい。
カトリック的な婚姻制度が、人間社会に出現して以来、「愛人」もまた、禁断の果実として、共に存続しつづけてきた。
穿っていえば、それは神が人間を試すために用意したスリリングな罠とも思える。
しかし、どうして、こうも男たち(場合によっては女性も)は、「愛人」という言葉に弱いのだろう。
たしかに、「愛人」は、単に「美人」と言うより、気弱な男たちに甘い幻想を抱かせるものかもしれない、、、
「愛人」、、、彼女たちは決まって、いつもいい匂いをさせている、きゃしゃな白い首筋をしていて、待ち合わせ場所では、向こうから飛び込むように腕を組んでくる、その拍子に、その やわらかな乳房が軽く、しかし確かに触れてきたりする、、、それを、小悪魔の計算ずくのしぐさと今夜に期待を馳せるのか、単に偶然と受け流すべきか、そう考え始めた時点で貴方は、すでに危険な罠に絡められ始めている。
愛人という「職業」があるのを知ったのは、私がまだ20代の頃のパリでだった。当時は、1920年代、30年代生まれの人間が、まだまだ社会の中枢に現役として残っていた時代で、いまだ50年代、60年代のパリが忘れがたい思い出のように街に縋(すが)りついていた。
ピガールやモンマルトルには、そういう昔ながらの胡散臭さがそこかしこにまだ潜んでいて、パリの宵闇は深く、長く、独特の夜の匂いがした、その「夜の匂い」は一種の媚薬のように肺に深々と吸い込まれ、誰もが「夜」に愉しみを期待していた。
有閑人種は毎夜、「カステル」や「ニュージミーズ」というナイトクラブに集い、彼らはそれぞれの宴を夜毎勤めていた。それは、何か、「祭礼」にも似ていた。そう、アフリカかどこかの辺境部族の祭礼を思い起こさせた。誰もが流行の服に着飾って、女たちは宝石の煌きを身に着けていたが、どこか土俗的なものを思わせた。それは、パリという都会の夜に蠢く原始の祭りだった。野生の木の実から作られた怪しげなドブロクの代わりに、華やかに泡立つシャンパンが振舞われたが、シャーマンがいて、ときに生贄が供えられるのは同じだった。
誰もが、まだ「夜の匂い」の媚薬的世界に信頼を寄せていて、そこでは馬鹿げたことが平気で行われ、許されるものと信じられていた。
それに、ここはパリなのだから。
その夜、私はアベス通りの街頭で煙草を喫っていた。指定された占いの店の看板を探していたのだが、なかなか見つからないのだ。通りを迷うことに飽きた私は、煙草を片手に看板があるであろう建物のもっと向こう、モンマルトルの夜空を見上げる、少し風が吹き始めて、それはノルマンデイーの海を思い起こさせた、一昨日(おととい)まで、私はそこにいて毎日、海で小さな船を走らせていたのだ、少しの風でも波のうねりは大きくなる。海の潮を含んだ風と違って、モンマルトルに吹く夜風には匂いがなかった。店の名は、たしか「リーヌの占いの館」といっていたように思う。その店を教えたのは友人のリュックで、彼とは今夜、その店で落ち合うことになっている。
「リーヌの占いの館」は、「占い」とは名ばかりで、実際にはある種の秘密クラブだと噂されていた、それも、いま最もスノッブなジェットセットが夜毎、大陸を越えて巡礼者のように集まるパリの夜のメッカと喧伝されていた。モロッコ風にしつらえたサロンには、東洋趣味の朱の房がついた行灯が幾つも吊るされ、アフリカの虎や熱帯の動物の剥製がそこかしこに飾られているという、噂には尾ひれがついて、ある夜は、ゲーンズブールが酔っ払って正体を失くしたバーキンに馬乗りになって享楽の宴が朝まで続いたと伝えられた、しかし、実際にその場所を知る者も、訪れた者も少なく、噂は実体を見せないまま羨望と期待を残していった。
合法、非合法を問わず、享楽の限りを提供する「リーヌの占いの館」は、一説には移動遊園地よろしく或る時は華やかなシャンゼリゼの真ん中に、或る時はひっそりとしたモンマルトルの片隅に、その居を始終移して司法当局の目を逃れているとも云われていた。
夜の向こうから女が歩いてくる、夜空から通りに視線を移した私は、そこに彼女を見つけて、その姿に魅きこまれざるを得なかった、黒いパリの夜空には星がなかったが、地上に彼女がいた、夜空を見上げていた私には、まるで星の化身のように彼女が舞い降りてきたように思えた、
華奢にみえて意外に背丈もある、豊かなブロンドを巻き毛にして、白いウサギや小鹿や、小動物を思わせる小作りの顔をしている、多分サンローランのリブゴーシュであろう黒い短いドレスが、まるでいつもそれしか身に着けないように似合っていた、そして、ここからでも華奢なからだに不釣合いな豊かな胸が歩調にあわせて揺れているのが分かった。
いま思えば、そんな時間のモンマルトルを彼女が一人で歩いていることが不自然だった。
深い天空に未知の星を探し出した天文学者のように、私はどうしても彼女から目が離せない、
鋪道の向こうに点在する街灯の灯りを背にして、彼女が歩みをすすめる一秒はまるで何時間にも思えた、彼女の細く伸びた脚、夜に浮かぶ白い肌、、、ふいに、彼女はノルマンデイーの海で走らせていた小さなヨットを私に思い起こさせる、海の風を帆にいっぱいためて波を砕いて走るヨット、彼女が放つ性的魅力にはためらいがなかった、夜の鋪道に帆をひろげて彼女はやってくる、おあつらえ向きに風がひと吹き街を洗ってゆく、
そのとき不思議なことに彼女は私の存在をもう了解済みのように軽く微笑んできた、、、ぶしつけな私の視線は、彼女に受け容れられたのだろうか、或いは単に習慣のようなものに過ぎないのか、夜のモンマルトルの鋪道に開いた微笑みは、私にそれ以上の期待を抱(いだ)かせた、
私と彼女は顔を合わせる、
「煙草を一本ちょうだい」、私は慌ててジタンの袋から引き抜いて彼女に差し出す、ライターで火をつけてやるとき、その炎は何かの儀式の始まりを思わせた。
細く煙をそのルージュがひかれた小作りな唇から吐き出すと、彼女はつぶやいた「あなたもリーヌの店に行くの?」
その意外な言葉は、彼女のからだの匂いと言葉に混ざる吐息とともに、私の耳を擽(くすぐ)り、私は、答えるタイミングを失った、それより彼女のミルクのような肌をもっと見つめていたい。
私の気持ちとは裏腹に、彼女は、言葉も待たずに煙草を捨てると、「いきましょう」と短く呟き、手馴れたしぐさで私の腕をとり、歩き出した。
あれほど迷った「リーヌの占いの館」は、彼女の登場であっさりとその扉を開けた、
まるで手品のように私は快楽の園に連れ去られる、夏蝉の鳴き声に似た「ジー」という扉が開くブザーの合図を聞いて入り口をすり抜ける時、私に何の躊躇い(ためらい)も無かったかというと嘘になる。
私は、連れ去られる間、彼女の匂いについて考えていた。女のからだには匂いがある。
それは、いままで知らない種類の匂いで、姿から想像したゲランのシャリマーや、ジャンパトウという香水がからだと合わさって香り立つものとも違う、もっと、女のからだを思わせるもので、むしろ最初は、その匂いの意外な強さに戸惑いも感じさせる、いや、意外な強さというのも正確ではない、それはたしかに遠くから匂いはじめるのだが、しかし10秒か20秒もするとその匂いは、こちらの意識を支配しはじめるのだ。それはブルガリアの薔薇や、中国のオスマンタスや、ベルガモットという調合師の秘密から生まれたものではなく、微(かす)かに汗ばんだ彼女の肌や、秘められた体液の匂いを想像させる。
彼女の姿と、その匂いの相反は、遺跡に刻まれた古代文字のように謎めいて魅せる。それは、解読の瞬間を待っている。
横長のベネチア鏡と大理石のカウンターがあるだけの細い獣道のようなエントリーを抜けて、大人二人が乗れば窮屈そうな旧式のエレベーターに彼女と乗り込んだとき、それは何か動物を閉じ込める檻を思わせた。実際、それは獣の爪痕のような長年の傷跡がそこかしこにある使い込まれたオークと真鍮でできた檻、そのものだった。
私は彼女に押し込められるようにして、その檻に乗り込む、ドアを閉めようとする私を制して、彼女自身がドアを閉めると、行き先階のボタンを後ろ手に押して、驚いたことに倒れこむように無言で私に身を預けてきた、それが、あまりに唐突だったので、彼女が気を失うでもしたのかと訝ったほどだ、彼女は私にしがみつく、そのふくよかな胸のふくらみが黒いクレープ地のドレス越しに私を誘い、私はその感触をもっと確かめるために、思わず身をさらにすり寄せる、彼女の豊かな胸は、私と彼女のからだの間でおしつぶされ、それは熱帯のしっかりと果肉の詰まった未知の果実を思わせた、あの匂いがより強く私を包み込む、いま気づいたのだが、その匂いは、やはり熱を持った国の、背丈の高い植物がうるさいほど生い茂ったジャングルとか、素晴らしい体つきをした競走馬のような野生の匂いなのだ、それは、私に彼女のセックスを想像させた、太ももが重なりあって、ドレス越しに触れ合う肌がすぐに汗ばんでくるのがわかる、、しかし、それはどうしたことか恋人同士の抱擁と呼べるものではなかった、赤ん坊か、幼子が母親にしがみつくような形で、私はそれに違和感を感ぜずにはいられなかった、それでも私は彼女の引き締まった腰に手をまわし、その唇を探した、しかしぴたりと私にしがみついた彼女は私の唇を避けるように私の胸に顔を埋めたまま動かず、私は為すすべもなく、彼女のからだの触感とあの匂いが私の欲望に戸惑いを残すのを許すしかなかった。そして、いったん欲望を忘れると、そのしがみつく力の強さに驚いた、それは、まるで彼女に或る想いがあって、それを彼女のからだを通して私にのり移らせようとするかのようだった、
念じるように彼女は私にしがみついてくる、それは何かの「儀式」なのか、
何分たったろう、私たちを閉じ込めていた仮想の檻は鈍い音をたてて行き先に止まった。数秒の間をおいて彼女は身を離し、今度は私の手をとって引きずるように何の目印もないドアに向かった。彼女が檻のなかで念じた想いは、私にはとうてい理解できなかったが、かわって彼女の匂いは私の身体に確かに移り住んだ。思わず、私はスーツの袖を鼻先に持っていく。残り香があるのかどうか、それさえも私には判別できなかったが、確かに記憶に匂いは染み着いている。
扉は案外にさっぱりしたもので、それはノックも無しにあっけなく開いた。開いた先は、暗い赤で塗られた小部屋で、男が一人待っていた。男も無言のまま、私たちを迎え入れると、その先に通じるこれも赤く塗られた扉を開いた。
これが、噂の「リーヌの占いの館」なのか。
床、壁、天井ともに漆の黒に塗られ遠近感を排したそこは、いわば人工の夜だった、もしかしたら外の闇よりも完成された夜の闇ともいえる、その薄暗い店内に浮かぶ東洋趣味というよりはベネチアの色が複雑に重なり合った行灯が、蠢く人影をぼんやりと密かに映し出し、そして、現実の街に覆い被さってそれを神秘的な異郷の都市にかえてみせる夜の霧のように、人の心に滑り込んでくる匂いがここにもあった、、、
、、、それよりも私を突然驚かせたのは、店内に気を取られる私のその隙を狙ったかのように彼女が、ふいに、私の手を振りほどいて足早に暗がりの向こうに立ち去ってしまったことだ。私は当惑して立ち尽くし、その後を追おうともするが、その私を誰かが既に見咎めていたことには気がつかなかった、
、、、「追いかけても無駄だ、彼女はパイロットだよ、」、、すぐ後ろから投げつけられた、その言葉にも驚いて、私は後ろを振り返る、、「リュック、」、、それは、友人のリュックだった。
背は飛びぬけて高くはないが、鈍い金髪に青い瞳をしていて、光沢のある実に良い仕立てのミッドナイトブルーのスーツを着ていた、柔らかく優雅ななで肩のラインを描いて、控えめな細めのラペルをもつそれは、腕の良いテーラーの細心の注意が払われた特別誂えの品だということを示していた。女たちが、彼を硝子のショーケースに入れて飾っておきたいとでもいう目で、惚れ惚れと眺める気持ちが良く分かる。
しかし、リュックの本質は生まれついての貪欲な狩人なのだ。女たちも、いづれ自分が単に珍しい獲物に過ぎなかったことを知ることになる。そのブルーの瞳の奥に極く一瞬、現れる酷薄さ以外、リュックは、その本質を優雅なマナーの内に上手に隠し、
まるで貴重な観賞用の魚
のように、音も立てずにこの街を泳いでいた。なにより、そのオーク色に健康的に陽灼けした肌と真っ白に輝く歯はパリで愉しみを狩るには頼りになる武器となったことだろう。しかも、リュックはアルゼンチン生まれの鍛えられたポロ選手なのだ。
リュックは、ニヤニヤしながら、わざと微動だにせず立っている、私はと云うと、リュックの姿を認めて、正直、安堵した、やっと慣れ親しんだ現実に戻れた気がしてホッとしたのだ、彼女との出会いからここまでの十数分間にすぎないだろう短い道のりも、私には少々非現実だった、私たちは、互いの背中を軽くたたきあいながら、挨拶の抱擁をする。
「パイロットだよ、彼女は水先案内人だ、この店ではそう呼ばれている、お前をここに連れてくるのが役目の女だよ、」まだ訝る私に、リュックは続ける、
「この店では、最初の客にはデタラメな住所を教えるという決まりなのさ、当然、道に迷う客を見つけて、値踏みして、連れてくるのが彼女たちの役割なのさ、ちょっとでも客に不審な匂いがあれば彼女たちは素通りしていくだけだ、悪く思うなよ、まあ、どこにでも‘やり方‘っていうのがあるさ、」
なおも訝る顔を見せる私に、「お前の風体は、俺が伝えておいたよ、こんなモンマルトルの夜に英国製のスーツで洒落のめしている東洋人はそうはいないだろう、まあ一杯やろうぜ、紹介したい友達も一緒なんだ、」、そう、リュックは云うと、さっさと席へ向かおうとする、
私はそんなことが聞きたかったわけじゃない、あのエレベーターでのことも、その「やり方」とやらに含まれたことなのか、
闇をかきわけて、席につくとそこには、中世の動物が細かく織り込まれたエキゾチックな絨毯が敷かれ、ベネチアのシルクにくるまれた円柱を思わせる大きなクッションと中東風の金属のトレイにのった果物や、チーズ、ルシアンキャビアやシャンパングラスが我侭な王様への供物のように、犇(ひし)めき合っていた。それは、人工の夜に浮かぶ、アラビアンナイトのハーレムの一角を思わせた。
既に、私を二人の女性が待っていた、ひとり目はブダペスト生まれのウイーンの資産家の娘で美しい横顔をしていた。もう一人は、ドイツに住むアメリカ人で、美人と云えたが、話しをするとき、必ず眉間に皺を寄せて目を細めながら喋る癖があり、それが何かの神経症の名残りか、他人と話をすること自体に勇気がいるほどの内気なのか、私にはどうもそれが気になった、
前にも彼女とは何回かパーテイで会っていた、しかし、親しい間柄というわけでもなく、会えばいくらか言葉を交わす程度にすぎなかった。私を少し驚かせたのは、何度目かに出くわした時、「あなたは、ベルエポックが好きだから、、」と彼女から話をきりだしてきて、いくつかの街の美術館と本を薦めてくれたことで、確かに私はその時代に興味が魅かれるのだが、それは、何ヶ月も以前に出くわした時に何かの拍子で洩らしたとりとめのない話題のひとつに過ぎず、彼女はその時零(こぼ)れた私の言葉を記憶の箱にしまって、何ヶ月も保管していたということになる。
それはアメリカ女性が持つ、少しおせっかいな人の良さを思わせもしたが、私には彼女がそんな社交上手な人間とも思われなかった。
彼女は、確かに当時の社交界で多くの有力者たちの知己を得ていたが、それは父親の影響力のおかげだということは誰もが承知していた。
彼女の父親は駐独アメリカ大使館の情報担当のボスで、なおかつ東ヨーロッパのアメリカ情報局の長でもあるということだった。
その眉根をひそめる癖は私にはその父親のことと何か関係しているように邪推されて仕方なかった、それに、何気なく話した私のベルエポック好きのことを覚えていたのも何だかその父親の職業を想いださせた。事実、幾人かの友人は、冗談まじりに、彼女と喋るときは気をつけろと、まるでスパイ扱いするような陰口をたたいていた。
闇の中から「パイロット」と呼ばれる女の一人が席に近づいてきて、グラスに泡立つ黄金のシャンパンを注いでまわる。「まあ、乾杯といこうじゃないか。」、注ぎ終わるのも待たずに、リュックの陽気な笑顔が呼びかける。
今日のリュックは、いつにもましてご機嫌で、それは所属するポロチームが、何度目かの優勝を間近に控えていたせいもある。ウイーンから来た娘は、そんなリュックに好意をもっているように見受けられた。その無垢さが、こんな場所には不釣合いだった。
、、、「乾杯といこうじゃないか」、私たちの夜のために。
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私家版サルトリアルダンデイ 4. 荷風と鏡花 「江戸趣味」 日本のダンデイズムと西洋のダンデイズム
http://rikughi.exblog.jp/7396429/
2008-03-03T06:08:00+09:00
2008-07-19T13:16:59+09:00
2008-03-03T06:08:03+09:00
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4.荷風と鏡花 「江戸趣味」
番町の鏡花の家の格子戸のあく音聴こゆ秋の夜更けに
(吉井勇)
番町の鏡花の家は、小づくりな粋な江戸好みのしつらえで、表通りからすぐの玄関には緑色で「泉」とかかれた釣り行灯が天井からぶら下がっている、いまに残る、書斎で書き物に励んでいる鏡花の写真では、障子窓に面した机の横に使い込まれた長火鉢、そこには鉄瓶がシュンシュンと湯気をあげており、床の間には縦型の置時計と、軸のかわりに何やら円形の色紙のようなものが、大小5,6点飾られている。
鏡花はかなりの潔癖症で、あげくに「豆腐」の「腐(くさる)」という字を嫌い、かならず「豆府」と書いたという。その巧緻ともいえる作品は、この類稀な潔癖症の賜物なのか。それにしても、どこかで鏡花がせっせと作品を編み出していると思える時代の東京のなんと幸せなことよ。
「むかし男」の塚涼しくて妖しくて
( 佐藤小枝 )
「日本の男のダンデイズム」と考えたとき、思い浮かぶのは、鏡花と荷風という「文学者」で、けれどそれは、鏡花が玄人好みの粋な着物を着ていたとか、荷風が背が高くて、若い時分の欧米遊学もあって着こなしが良かったとか、そういうのではない。多分、この二人が、その後の「日本の男のダンデイズム」というコンセプトの基礎を「小説」という形で作り出してしまったように思うからだ。
それを説明するには、荷風、鏡花が活躍した明治後期から大正にかけての文壇を今一度振り返る必要がある。それと、日本人にとっての「書物」という意味合いを考えなければいけないかもしれない。
ご存知のように、明治後期から大正にかけて日本の「小説」は大きな変革期を迎える。
それを簡単にいえば、「自然主義文学=リアリズム」の登場と、それを梃子とした「反自然主義」という反発である。
「自然主義」は19世紀末、エミール・ゾラによって定義され、フランスで興った文学運動で、「事実」と「真実」を描くために、小説的なファンタジー(美化)を一切、否定するというもので、つまり文学史上初めて「リアリズム」というのが定義される。
いまでこそ当たり前とも思われるこの手法も、それ以前のロマン主義あふれる小説世界からすれば、かなり衝撃的で、ゾラの「居酒屋」は社会現象ともなる。このゾラの定義以来、小説は近代化されたともいえるし、読者としては時に暗く出口のない個人的な問題につきあわされるハメになった、といえば言いすぎか。
この自然主義という波は、島村藤村の「破壊」や、田山花袋の「蒲団」という名作も生み出すが、反面、矮小化された「私小説」に、その後、疑問の声もあがることになる。ただ、当時、自然主義=リアリズムという概念は、かなり衝撃的で、それは「新しい小説」と「古臭い小説」を分けるリトマス紙ともなった。
鏡花は、この自然主義の台頭と、師である尾崎紅葉の病死によって後ろ盾も失い、一時、文壇からシャットアウトされてしまう。
それを、再評価したのが外遊帰りの荷風だった。
荷風という人物をどう捉えるか、これは正直いってよく分からない。いまとなっては、書物と足跡だけで推し量るしかない。
色々な人の書いた「荷風論」もあたってみたが、いまひとつ、どれもその人物像については茫洋としているように思う。曰く、「孤高」、「吝嗇」、「狷介」。つまり、荷風は「偉大な文学者」として分かりやすく振舞ってくれないのだ。だから、規範の「文学者論」のアプローチでは、荷風という人物に追いつけない。
ただ言えるのは、荷風が長男で、かつ生涯、家庭をもたなかった(1912年に斉藤ヨネと結婚、1913年、離婚。1914年、芸者八重次と結婚、1915年、離婚。たった3年間の家庭生活だった。)或いは、家庭を持つこと、家族をもつことを嫌ったことが、荷風という人物を知る大きなキーワードではないかと思う。
荷風は、「明治の人」というよりは、かなり現代人に近い精神の持ち主だったようにも思う。
「高学歴の恵まれた家庭環境」に生まれ、何よりも「自分の生活」、「便利」「得」を優先して人生を送りたいという姿勢、一流好み、一種の「被害妄想」、主義よりは「自身の感性」に従って変節も厭わない、価値を認めたものには金を出すが、余分なものには金をつかいたくないという「合理主義」。銀座や玉の井で遊んだが、住まいはつましく、3億の預金を残して孤独死をする。
精神的自由を楽しんだというのは分かるけれど、「生活」としては何かバーチャルなものを感じる。
「徳」をめざさないというのが荷風の生き方であり、荷風という「存在」で、荷風の「文学」と「私」を同一線上で捉えようというのは「覗き見趣味」以外意味がない。
ただ言えるのは、その生き方も含めて極めてオリジナルで、つい、「濹東綺譚」などの大家然とした江戸趣味に惑わされてしまうが、荷風は目まぐるしく変節していて、その創作アプローチはかなりコンセプチュアルだと思う。特に、42年間続く「断腸亭日乗」などは、世界でも類例のない書物で、荷風自身もそれを強く意図していたように思う。鏡花は、何よりその文章と、物語の語り口で天才だと思うが、荷風はもっと確信犯的にコンセプチュアルで、日本の小説の革新とオリジナリテイーを考えていた極めて現代的な作家だと思う。
当の荷風もゾライズムに傾倒し、自然主義的な「地獄の花」を書いている。同年、1902年、父親の勧めもあり、渡米する。ニューヨークの日本大使館に勤め、その後、これも父親の口利きで横浜正金銀行のニューヨーク支店に勤める、どうしてもパリに行きたかった荷風は、父親に頼み込んで、横浜正金銀行のリヨン支店に転じ、その後、銀行を辞めて、パリに遊ぶ。パリに行きたかったのは、「ゾライズム」を、その目で確かめたかったからだろうか。
1908年に帰国。「あめりか物語」を著して文壇デビューするが、続く「ふらんす物語」は発禁処分となっている。
この時期、荷風は、「日本の自然主義文学の田舎じみた泥臭さに失望して、江戸文化へ傾倒」しはじめる。(「日本の自然主義文学の田舎じみた泥臭さに失望して」というところが、いかにも荷風らしい。この気質が荷風の原動力のような気がする。)
帰朝後の荷風が、かえって「日本の自然主義」に疑問を抱いて(或いは、体感的に嫌って)、日本人独自のものを探し、また魅かれていったというのは、個人的にはよく推測できる。
鋭敏な荷風は「ゾライズム」という新しい波をいち早く捉え、また自身の眼でその「本場」も体験したはずだが、それだけに猿真似や流行ではない、日本人のオリジナルな文学の必要性を痛切していた、或いは自身の創作活動を本物にしていくためにはそれが必要だった。そして、そのために荷風は「江戸」を選び取った。
結局、モノゴト皆総て、「本物」になるにはオリジナリテイーが何としても主軸であって、軸が借り物のエピゴーネンは真似の仕方がいかに器用であっても、所詮は代用品。その存在は、いつか消えていってしまう。
荷風は、公私にわたって他人に対して厳しかった。そのことは、言い換えれば「本物」と「偽物」ということに敏感だったと云うことだ。荷風は、体質的に「偽物」が許せなかったのだと思う。とくに、「本物面をした偽物」は、おぞましいとさえ思っていたように見える。
1910年、鴎外らの推薦により荷風は慶応の教授となり(荷風の教え子には、久保田万太郎や佐藤春夫らがいる。)、「三田文学」を創刊し、初代編集長となる。
同年(1910年)、荷風は、初代編集長として鏡花の「三味線堀」を、さっそく「三田文学」に掲載している。三田派の久保田万太郎や、佐藤春夫らすべてが、鏡花贔屓になったのは、荷風の影響ともいえるだろう。
荷風は何故、日本の小説のオリジナルテイーの軸として「江戸文化」を再評価し、傾倒していったのだろうか。
明治維新によって日本の近代は始まり、それは現代へとつながっている。つまり、この分かれ目で日本人のエトスも、また切り替わった、或いは「切り替わされた」ということになる。
それは、簡単にいえば「立身出世主義」という「理念」への転換である。
これは、ご存知のように、階級社会である近代以前の身分・家柄にかかわらず、学問を収めれば、社会で身を立てられるという「個の理念」である。では、近代以前の「理念」は何だったかというと、適当な言葉が見つからないが、あえていうと「奉公」という、いわば「道の理念」だと思う。
「道」という理念を、現代の日本人は理屈として知ってはいても、血としては既に失っている。
失ってはいるが、カサカサとした「傷痕(きずあと)」はどこかしらに残っているようにも思う。それは、肉体にドクドクと流れるものではないけれど、探せば、かろうじて骨の裏や神経の端に貴方も傷痕を見つけるかもしれない。
だからこそ、我々はどうしても、「江戸の侍」の美意識や、「江戸っ子」の粋に魅かれてしまう。そこには我々の損得勘定を背景とした理念では適わない、或る種の「美しさ」があるからだ。そして、その「美しさ」の源は「道」という理念にある。
「道」という理念は、西洋には存在しない。それは、ひとつの「規範」であり、宿命の上に命があった。極論すれば、あくまでも、宿命とか運命とかの中での「型」の美しさであり、「個」の精神の独立は認めていない。
「個」は、むしろ無いこと=「無我」が境地とされ、「自然」が「型」の最高位とされた。
だから、「個」の不羈独立を意味するダンデイズムは、近世以前の日本には存在しないということになる。しかし、西洋ダンデイズムに匹敵し、それを凌駕するオリジナルが日本にあるとすれば、それが「道」なのだと思う。
「精神」ではなく、「型」。
「個」ではなく、個を越えた「自然」。
「江戸っ子の粋」も、「侍の美意識」も「型」の美しさなのである。茶も書も、行き着く先は「自然」なのだ。
そこでは、「個」の精神のとまどいも、謀りごとも下品なものとされた。
いま一度、覚えておきたいのは近世以前の日本はそれだけ独自で、世界の中でも強いオリジナリテイーがあったということで、言い換えれば、明治以降、日本のオリジナリテイーは捨てられていったということになる。
現代の我々が近世以前の日本を実感することは難しい。それは、明治以降を「科学」とするならば、近世以前は我々が思っている以上に「神話」的な世界で、人が生きるという目的も死の意味合いも違うように思うからだ。
つまり、宿命のうえに生命があったということは、「個」の利益や思惑とは別のところに、命の役目があったということで、どうにも抗いようない定めのなかで、ひたすら「型」の美しさを求める姿は、何か「生物としての人間の」純粋を目指すような気もする。
ヨーロッパのダンデイズムは「個」の精神に宿り、日本の「ダンデイズム」は「型」にある。
同じく「姿」にこだわるとしても、そこには大きな隔たりがある。精神は型によって純粋化され、洗練された型は、理屈や合理とは異なる、いわばシャーマンの美しさをもっている。それゆえに我々は畏敬し惹きつけられる。
洋行帰りの荷風が、かえって江戸文化に傾倒していったのは、近代人としての自分が、或いは「明治」が失いつつある神話的なものに呪縛された近世以前の日本に、独自の「美」と「文学」があると感じたからではないか。
荷風には「江戸芸術論」という素晴らしい著作があるけれど、後味に「理屈」が残る。1879年、明治12年生まれの荷風がフランスから戻ったのが明治も41年(1908年)。三十代を目前にして、勘の良い荷風は確かにオリジナルな日本文学を編み出すためには、江戸を再認識すべきだと確信していたが、下町育ちの鏡花と違って自身の生まれや肌合いがそこにあるというものではなかった。
荷風の「江戸の再認識」の過程は、我々現代人が「和」に新鮮さを感じるのに似ている。
それが、荷風の場合、悪いわけではなくて、荷風は、その過程で、かえってより純粋化された江戸文化の「再構築」をしているように思える。
鋭敏な理論派の荷風の一方で、鏡花は明治を江戸のように生きていた。
本名、泉鏡太郎は、明治6年(1873年)、名人肌の飾り職人の長男として金沢に生まれている。母は、江戸下谷の大鼓師中田氏の娘で、能楽師松本金太郎は兄にあたる。何故、江戸女と金沢の職人の縁ができたのかといえば、維新の変革で当時の能楽界は旧文化と扱われ、窮乏をしいられていた。それを加賀藩主前田家が不憫に思い中田家を金沢に引き取ったことによる。母、鈴の祖父、中田万三郎は加賀藩主お抱えの能役者であった。
幼い鏡太郎は、江戸生まれの母が誇りだった。ところが、その母は、鏡花がやっと10歳(明治15年)になろうとするとき、29歳の若さで逝ってしまう。鏡花の作品に通低する一種の母性を持った女性像と、それを慕う少年の無垢さを持った主人公という構図は、幼くして亡くした美しい母への思慕の情から生まれているように思う。
いったい鏡花の小説世界には現実のリアリズムというのが抜け落ちている。小説的な構図はあるが、それは一種の象徴的な「お伽」で、眼を覆いたくなるような厳しい現実や社会の問題は出てくるはずも無い。ただ鏡花は、錬りに錬られた名人芸の語り口で、情緒あふるる物語を綴ってゆく。しかも、荷風が変節を繰り返し自己を再生し続けたように、鏡花もまた革新の作家であった。荷風と違うのは、鏡花の革新は自身の小説世界を常に洗練させ続けることで、それは優秀な能役者や歌舞伎役者が場数を経ながら飽くことなく「型」を洗練させていく姿に似ている。それは、玉のように磨かれ、象徴的なるがゆえに永遠のものとなる。その結果、鏡花ほど、純粋な小説世界を感じさせる作家はいない。
その生き方もまた、荷風と違い文筆家としての生涯をまっとうしている。まず、19歳のときに書生として入った、師、尾崎紅葉への終生変わらぬ忠誠、紅葉と鏡花の関係は、いかにも古き良き時代の師弟を思わせてうらやましい。それは、21歳のときに父を失い将来に不安を抱えるあまり何度も自殺をはかる鏡花に紅葉が感動的な書簡を送り励まし思いとどまらせるところや、神楽坂の芸妓桃太郎(本名を実母と同じ鈴という)との仲を断腸の思いで裂くあたりなど、それ自体が鏡花好みの物語のようだ。
鏡花が生涯に紡いだ作品は二百余篇。そのどれもが、抒情詩ともいえる物語的小説でいささかの作風のブレもない。
あたかも竜が天界を目指して昇っていくように鏡花は作家活動を通じて、虚構の美を仕組んでいく作風と天才だけに許された、時に大胆、自在な独自の修辞で詩的抒情の高みへ、より高みへと精進していく。
鏡花を愛する人すべてがいうように、鏡花の魔力は、その言葉にある。それを「文体」というには、作を重ねるごとに変革し続けており、文は筋の説明を飛び越えて、もはや純粋に鏡花の紡ぐ言葉に、読む者はカタルシスを覚えていく。それが、鏡花の魔力といえよう。
昭和14年、最後の作となる「縷紅新草」では、一時は嫌った故郷金沢をはじめて舞台にして、こんな童(わらべ)歌から始まっていく。
あれあれ見たか、
あれ見たか。
二つ蜻蛉(とんぼ)が草の葉に、
かやつり草に宿をかり、
人目しのぶと思えども、
羽はうすものかくされぬ、
すきや明石(あかし)に緋(ひ)ぢりめん、
肌のしろさも浅ましや、
白い絹地の赤蜻蛉。
雪にもみじとあざむけど、
世間稲妻、目が光る。
あれあれ見たか、
あれ見たか。
物語は北国の冬、小春日和の一日、山寺への墓参りから始まる。「墓参り」というモチーフもそうだが、ここでの鏡花は、その「お箱」ともいえる小説手法を巧みに組み合わせながら物語を運んでいく。いわば自家薬籠中の「型」の上に、円熟した語りが展開されてゆく。
その物語の組み立ては、もはや自然で破綻がない、その語りは、まさしく鏡花そのもので、ただ身をまかすしかない。この作品をもって鏡花の「頂き」とはいえないだろうが、名人の「自然」の境地とは言えないか。
鏡花の語りは、いつも独特で、まるで優雅な芝居を見ているように、人のしぐさひとつひとつが目の前に現れる。それでいて、けして冗長に陥らない硬質な「詩」の緊張感が保たれている。そして、「美しさ」が残る。
不思議なことに、鏡花の世界を堪能したあとに残るのは、筋の印象とかではなくて、「美しい」ものを見たという一種の平穏感である。
ここで気がつくのが、自然の「境地」というのが、強靭な試練の賜物だとしても、その磨かれた「美しさ」は人を癒すということだ。何故、「型」の最高位を「自然」としたのかがようやく分かる。それは、森や滝や風のように対する者を「癒す」からだ。そこに至るには、理屈など入り込む隙もないほど完成した結晶でなくてはならない、阿り(おもねり)など忘れた充実がなければかなわない。
荷風が鏡花を、或いは鏡花だけを評価したのが分かる。本物を見極める目においては厳しい荷風にとっても鏡花は「玉」を成していた。
翻って荷風の作品をみると、そこには鏡花とは違う、何か「闇」といえそうなものが見え隠れしているように思えて仕方がない。荷風という作家は、いまの世界の優れた現代作家と同じくアバンギャルドな精神をもっていたように思う。そして、荷風の「闇」のひとつは多分「エロス」なのだと思う。
いくつかの荷風の作品には、その「先の世界」があるように思う。
それは、叙情的な作風に常にかいまみえる「エロス」で、そこに荷風は自身の文学の新しい可能性を感じていた、或いは捕らわれ始めていたのではないか。
それは、同じ花柳界、花街を描いた作家と違い、「情緒」などではなく、もっと深い人間の業の凝塊としての「性、エロス」だったように思う。また、それは、人間荷風自身が抱えていた業ともいえる。
ただ、その時代には文壇を含めて理解には限りがあり、発禁処分という恐れもあった。
事実、荷風は「腕くらべ」を、出版とは別に私家版として、より性的な改稿版を50部限定で知人に配っている。この前後、変名で「四畳半襖の下張」も発表している。
当時の社会的規制がなければ、荷風はもっと未知な小説世界をつくりだせたように思えて仕方がない。
荷風作といわれる春本「四畳半襖の下張り」のいくつかの性描写はこちらの心の奥底を抉り取る、解釈できない力をもっている。
それは、荷風自身の「闇」から生まれている。荷風は性を軸に文学的ショックを生み出せる作家で、時代が許せば、こちらが想像もできない破戒的な作品をつくりだしたかもしれない。
荷風は最後まで「闇」を抱えていた作家といえよう。その不幸は、人間的にも芸術的にも時代の先を越す勘をもっていた事にあり、いまだ正しく評価されていない気がする。
荷風と鏡花が、明治という変革期に「文学」という形で残してみせたものは「人の美しさ」というもので、不思議なほどそれ以降これを実現してみせた作家、小説は現れていない。
荷風と鏡花の作品がともにほかと違うのは、物語を辿ることの面白みというより、読み進むうちに「美しい」と呼べるような人が居たその世界の情緒にいつしか引き込まれ、感化され、頁を閉じる頃には、自分もその世界に住んでいたような不思議な余韻を覚えさせることにある。
それは、言葉で組み立てられたものだが、ここでの言葉は何かパズルのひとひらのようでそれが折り重なって言葉以上のものをつまりは、表出しているように思う。
結局、日本の昔に求められていたものは、人間の美しさだと思う。それは、しぐさの、ひとつひとつ、もの言いの、ひとつひとつ、西洋のように自己の内精神にこだわるのではなく、外に見える細かなひとつひとつに美しさと粋を積み重ねて生まれるもので、その結果、言葉では言い表されない、その人が持つ「情緒」を生み出す。
「情緒のあるひと」、、、
それが、人の美しさであり、日本のダンデイズムが行き着く先なのかもしれない。
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「六義」
中央区銀座一丁目21番9号
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copyright 2008 Ryuichi Hanakawa
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「百歳堂 散策日誌」 サイケデリック 5 ニューヨークのダンデイ
http://rikughi.exblog.jp/5498114/
2007-05-28T05:05:00+09:00
2008-07-19T13:17:26+09:00
2007-05-28T05:05:46+09:00
rikughi
ニューヨークのダンデイ
五月の少年木霊のやうな貌をして
(たむらちせい)
ココのところ、ニューヨーク通いが続いている。
ニューアーク空港から、プライベートカーに揺られて、ホーランドトンネルを抜けると、マンハッタンへの入り口はトライベッカで、カジュアルさとスノビズムが混ざりあった、あの独特な街が現れる。
午後の陽光が、まだ残っている街角には、下町の雑然としたグローサリーと、スノッブなデイスプレイを競うブテイックが統一感もなく並んでいる。
茶色い紙袋に食料品を詰め込んで、家路に向かう住人、街角に椅子を並べて、夕食の客を待つレストラン、( きっと、アメリカ和牛のステーキには、細かく刻んだシイタケや、ほろ苦いハーブが付け合わされるのだろう。)、、、車の窓越しに覗く、初夏のソーホーの夕刻は、都会のぽっかり開いた時間を映している。
皆、今日の仕事は終えたのだろうか? 車の内で、ひと息つきながら、私は、ゆっくりと、身体を街に滑り込ませていく。
、、、突然の風に、通りを横切ろうとした白いサマードレスの女の髪が、メドウサのように暴れだす。
この時期、マンハッタンは、空気が乾いていて、時折、強い風が街を洗っていくのだ。
まだ、自分をもてあましていた若い頃、将来に漠とした不安を抱えていた私は、この街に来る度に元気づけられたものだ。
ここでは、嫉妬や羨望をしている暇はない。懸命に働いたものには、それなりの報酬が与えられる。誰もが、何とかチャンスを得ようともがき、才能や能力に磨きをかける。
何より、自分が、(ある程度)正当に評価されるというのは若い人間には魅力だった。
私は、マンハッタンからチャンスをもらったし、一度、訪れると、また戻ってこようという気持ちにさせる街だと思う。しかし、歳をとり、ヒネくれてくるにしたがって、そのストレートさが、正直、うとましくもなって、私は、しばらく、この街から遠ざかっていた。
それが、仕事の関係もあって、続けて通ってみると、やはり、この街の魅力をあらためて感じる。
マンハッタンには、確かに魅力がある。そして、その魅力というのは、人と街の在り方だと思う。
この街は、その時折の「人の在り方」に敏感なのだ。
だから、マンハッタンは、どの街よりも早く人の欲望や、不安を街に映し出す。この街に住む者は、どうしても「現在」ということに向き合わなければいけないのだ。(ニューヨークの友人たちは、まるでウッデイ・アレンの映画のように、いつも何かしら小さな問題を抱えている。)
そして、誰もが言うように、この街の魅力の源は、「混沌」にある。
失望とチャンス、ソーホーとアッパーイースト、ブルジョアとボヘミアン、、、混在し、相反し、すこぶる自由で、すこぶる保守的なこの街は、それゆえに、いかにもマンハッタンでしか生まれないであろう人間を各時代に輩出してきている。それを、我々はニューヨーカーと呼ぶ。
70歳を過ぎた老ダンデイ氏もその一人で、パークアベニューの豪奢なアパートメントに暮らしている。アメリカンルネサンス様式の、その建物は、ワシントン広場のアーチでも知られるスタンフォード・ホワイトの設計によるもので、もとはジェントルメンズクラブ(通称スフィンクスクラブ)として使われていた。外壁の赤煉瓦は時を経て紅唐色になり、世紀を越えた時間は、円柱で囲われたバルコニーや、壁に嵌め込まれた神話的なレリーフに、新参者には真似のできない古色と風格を与えた。その建物は周囲でも特異な空気を放っている。そういえば、このあたりには、同じくホワイトが設計したモーガンライブラリーや、マンハッタンの象徴のひとつともいえるグランドセントラルステーションと、アメリカンルネサンス様式の建物が近接している。
、、、その老ダンデイ氏が暮らす部屋は、ちょうどクラブの読書室にあたるという。
(スタンフォード・ホワイトの名を、何故覚えているかというと、彼がマジソンスクエアビルの屋上庭園で暗殺されたからだ。それは、ミュージカルの初日を祝うパーテイの真っ最中の出来事だった。ホワイトを撃ったのは、嫉妬深く、性格破綻者として知られたミリオネアーで、彼が愛人と浮気していたと思い込んでいたからだという。建築家としてのホワイトは、かなりの数の建築をマンハッタンに残している。ジェントルメンズクラブを数多く手がけているのも面白い。)
若い時分は、サビルロー仕立てのスーツ(トミー・ナッターの相棒だったエドワード・ゼクストンの仕立てだった)に、ロブのビスポークシューズを合わせて、ニューヨーク社交界では一、二を争うダンデイとして鳴らした。トルーマン・カポーテイが催した、あの伝説的な夜会「ブラック アンド ホワイト ボール」を知る、いまや数少なくなった生き証人でもある。
60年代からニューヨーク社交界の本流を生き抜いてきた彼の人生も興味深いが、先ず、私が惹きつけられたのはその住まいだった。
アパートメントといっても、天井の高い2層にわかれたメゾネットで、真紅の壁のエントランスには2階につながる螺旋階段がある。
圧巻は広いリビングルームで、その壁は絵画で埋め尽くされ、所々に置かれた飾りテーブルの上には、彫刻やオブジェが犇き、大理石の大きな暖炉の上には対になった18世紀の兵士の彫刻がこちらを睨んでいる、、、この夥しい量の収集品。
そして、それらが絶妙の配置で「美」を生み出している。
感嘆(正直、本当にソノ価値はある)している私に、ウイスキーが入ったグラスを手渡しながら、ダンデイ氏は悪戯っぽくコウ聞いた、「あなたも、何かコレクションしているかね。」、、、
西洋には「アンソリット」と呼ばれる、異なる様式、種類、つまり一見、まったく統一感のないもの(主には、その人の収集品)を自身の美意識で配置して、その主(あるじ)独自の感性を表現する(競う)という装飾技法がある、、、この部屋には、18世紀から19世紀の絵画、シュールレアリストの奇妙な彫刻、グラマラスなゼブラ柄の丸い大きなソファ、常に半開きになっているベネチアンブライドの窓にはストライプのカーテンが合わされている。
どれ一つをとっても単純な符号はなく、しかし、細部にわたってその組み合わせの絶妙に感嘆する。ただひとつ、「統一」を生み出すものがあるとすれば、それは、ある種の「暗さ」だろう。
窓は少し開かれているが、そこからもれる光は部屋を照らすというよりは一条の光の線で、それさえもオブジェのひとつに数えたくなる。天井から吊るされた古めかしい街灯のようなランプと、各所に配されたテーブルランプ、壁の絵を個々に照らす蛍光灯が部屋に陰影をつくっている。美は陰影にあり、、、これは、日本の家に通じる。
ただ、その圧倒的な「量」、、、
「私には子供がいないんでね。結婚もしてみたんだが、極く短期間に終わった。だから、私が死んだら、これらは全て美術館に寄贈するんだ。私の名前をつけた部屋をつくってもらうのを条件にネ。いま、キューレーターと打ち合わせしているンだ。」
彼は、60年代から活躍するコスチュームジュエリーデザイナーで、その作品は、オードリー・ヘップバーンや、ジャッキー・ケネデイ、そして歴代のファーストレデイ達や、ライザ・ミネリなどスター達の身を飾った。あのウインザー公夫人、ウオリスの遺品のオークションカタログにもその作品が載っている。それで、ウインザー公について尋ねたくなった。
「チャーチル曰く、大人になりたくない男、トップ(王)になりたくない男。それがウインザー公だと思うね。何度か、パリの邸宅に招かれたし、、、実に素晴らしい邸宅だった、、、ウオリス夫人はユーモアのセンスもあるし、率先してみんなを仕切るという人だったけれど、ウインザー公は言葉少なめで、デイナーの後、必ずカードゲームをするんだけれど、ウインザー公が参加することは稀だったな。
夫人がなんでもやっていたという印象だったね。ウインザー公は社交界好きで、王様になりたくなかったのは、王になると宮殿の中に引き込まざるを得ないからだとチャーチルはいっていた。おおぴらに社交界に顔を出すことは立場上できなくなるからネ。」。
私は、時々、妙な感覚に襲われることがある。プルーストが、失われた時に想いを馳せることで、人の世の深遠に触れようとしたように、この時も老ダンデイ氏と昔話を重ねていくにしたがって、「現在」という時間が次第に曖昧になっていくような、、、おかしな理性の浮遊感を覚えた。多分、記憶が詰まったこの部屋も影響しているのだ。ソウダ、この部屋はどこかに似ている。ソレが、もう少しで思い出せそうなのだが、、、
「或るイタリアの公爵夫人が、エメラルドの十字架のネックレスを持っていたんだ。それは、継ぎ目の無い、つまり、巨大な一個のエメラルドから十字架を削り出したものだった。全く、見事なものだった。ところが、ソイツが或る日、盗まれた、、、」
卵ほどもあろうかという、妖しく光る緑色の鉱物が、まだ整理されないままの脳裏に割り込んでくる。たしか、石言葉は「新たな旅立ち」だったはずだ。ふいに、、、幼い頃、母に抱かれて、その首にある真珠のネックレスを引きちぎったことを思い出す。微かな音を立てて床に零れ落ちる真珠の玉、、、何故、ソンなことをこの歳まで覚えているのかというと、皆の一斉に驚く声に怯えて泣く私に、誰かが「世の中に怯(ひる)みなさなんナ」と恫喝したからだ、、、女の声ダッタ、、確かに、ソウ聞こえた。
それが、どのような意味でいわれたのか、ソウ聞こえただけで別の言葉だったのか、母が言ったのか、或いはソコに居合わせた別の大人がいったのか、、、ただ、意味不明だったソノ言葉が幼い頭にこびり付いて、成長するに従って、いつのまにか天の警句にスリカワッタ。私はその言葉を、勝手に免罪符のようにして、「世の中に怯む」のを良しとはセズ生きてきた。
ただ、コレほど鮮やかに覚えている記憶なのに、中年にさしかかった頃、母と昔話をしていて、私がフト、この真珠のネックレスの件を持ち出すと、母はキョトンとして「ソンナことはなかった、覚えがない」と言い出した。「あなたの思い違いヨ。」、、イヤ、母さん、私は、確かにソレを記憶しているのデス。
「 泣いてゆく向ふに母や春の風 」 (中村汀女)
ようするに、「夢」なのかもしれない。すぎっ去った「時」は、ちょうど夢と同じほどの重さなのかもしれない。
「、、、私は、印度には何回も出かけたンだよ。南から北、印度のすべての地域を旅して回った、、、」
いつの間にか、話はローマのビラから、遠く印度へと移っていた。なるほど、ウイスキーのチェイサーの水が入ったグラスは昔の印度にあった金属細工のものだった。、、、それにしても盗まれたエメラルドの十字架は、それから、どんな運命に弄ばれたのか、、、。もう一度、聞きなおそうかと思っている矢先に電話のベルが鳴った。
「チョット、失礼するよ、、、」
老ダンデイ氏は、電話口へと向かう。今夕のデイナーを共にするイタリアから来た友人のようだった。
私は、迷い込んだ小さな虫のように、部屋を散策することにした。
ヴィトール・ユゴーからユイスマンスの例をみるまでもなく、好みの時間軸や空間軸で自分の部屋を再構築することは、ダンデイたちの密かな楽しみであった。
ユイスマンスの「さかしま」では、外界の音さえコルク張りの壁でさえぎり、部屋の中という内なる世界の創造主になることで、主人公は「安定」を得ようとする。
そういう意味では、ダンデイたちにとって部屋は、精神の健常を保つための箱舟なのかもしれない。
私は、部屋の右半球から、左半球の方へ移動することにした。
マンハッタンの魅力のひとつは、建物だと思う。古い建物の美しさといえば、ヨーロッパだけを思い勝ちだが、ココには、19世紀後半から、20世紀初頭のアールデコ様式まで、なかなか見応えのある建物が並んでいる。
定宿にしている、「ユニオン リーグ クラブ」も、そのひとつで、 建家家、ベンジャミン・ウイスター・モリスによって設計されたジョージアン様式のメインエントランスには、素敵な大理石のスパイラル階段がある。
クラブ自体は、1863年に設立されている。ルーズベルトも、メンバーだったそうだ。このクラブは、ロンドンのクラブの提携クラブで、ニューヨークでは、他に「プレイヤーズ」、「ロートスクラブ」などがある。
ロートスクラブは、マーク・トーウエンもメンバーだった文学関係のクラブで、こちらは、秀麗なフレンチルネサンス様式の建物になっている。
ニューヨークには、他にも「エールクラブ」など、いくつかのクラブがあり、そのそれぞれが、魅力的な建物にある。
ユニオンリーグクラブに限っていえば、そのオーバーナイトルームは、ロンドンのクラブより、小奇麗で、ベッドも快適だ。ニューヨークのホテルは、総じてベッドや、ベッドリネンが良いように思う。
朝食は、メインダイニングでサーブされる。だから、朝食時にも、タイと背広が要求される。(原則的に、どこのクラブも、メインダイニングでは、タイと背広が要求されることになっている。)ロンドンでは、いまや、けっこうカジュアルな格好も許されているのを思えば、ニューヨークの方が、かたくなに、規律通りなのが面白い。
クラブには、お決まりのカードルームや、ビリヤードルームのほかに、3面のスカッシュコートと、「ユニオン リーグ ゴルフ クラブ」という「ゴルフ コース」もある。(ただし、スクリーンに向かって、球を打つバーチャルなものデスが。)
そして、料理がおいしい。友人と、期待もせず、昼食を摂ったとき、意外なおいしさに驚いた。クラブのメインダイニングだから、当然、フランス料理なのだが、前菜のイチジクのサラダや、メインで頼んだエビとロブスターのソテーなど、付け合せの野菜のコンビネーションや、なかなか古典的で美しい盛り付けなど、ロンドンより、よほど、おいしくて、手抜かりがない。
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私家版・サルトリアル ダンデイ 「19世紀と20世紀」 その参
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2007-05-03T14:48:00+09:00
2008-07-19T13:18:01+09:00
2007-05-03T14:48:33+09:00
rikughi
3.19世紀と20世紀 その参
「眠りにつくときに、翌朝、目覚めることを楽しみにしている人間は、幸福である。」
(哲学者ヒルティの言葉)
「優雅なる無関心」
公は、ホーズ&カーテイスでシャツをつくる際に、シャツ生地で、幾つもボウタイを作らせている。コレを、春夏のスーツに、よく合わせているのだが、タイではなくて、コットンのボウタイなのが、品の良さと、不思議に軽やかなカジュアル感を醸し出して、秀逸な着こなしだと思う。
写真で見る限り、公のボウタイの結び方は、デインプルをつくらない、ナチュラルな結び方で、これは、気取りのない優雅さを感じさせる。
ウインザー公が、「ウインザーノット」でタイを結んだことは、生涯なかったというのは、有名な事実だが、タイも、デインプルをつくらない、シンプルなプレーンノットかダブルノットだった。
面白いことに、少年期や青年期の初め頃には、キチンとタイを締め上げて、公は写真に収まっている。それが、ウインザー公としてのスタイルが出来上がるとともに、結び方も変わっていく。
そこには、公の内容の変化があったはずなのだが、そう言えば、公がどういう人物なのか、最後には、どういう人物として、死を迎えたのか、そういう、公の内面を示した記述は、資料を探ってみたが、意外に少ない。
「スタイル」というものが、人の内面と密接に関係するとすれば、そもそも、ウインザー公なる人物は、いかような人物だったのか?
ダヌンツイオの「スタイル」なら、察することができる。それは、多分、「懐古的なエレガンスへの憧憬」と「ロマン的な英雄崇拝」から生まれたものだと思う。
事実、ダヌンツイオは、そういう人生を送ろうとしたし、ある意味、そういう人生を生きたと思う。敬愛すべきは、その「スタイル」の軸は、少なくとも、自身の内で完結し、生涯、ぶれることはなかったということだ。
翻って、ウインザー公の内実を、推測した時、奇妙な空白感を覚えるのは、何故だろう?
「王位放棄」後の、公の「政治活動」としては、幾度かにわたるドイツ訪問と、「有事の際(ヒットラーによるイギリス占拠ということか?)」には、英国の交渉窓口は、唯一ウインザー公とするという、ヒットラーとの、イノセントな「密約」ぐらいなもので(公の行動を不穏に思ったチャーチルによって、第二次大戦中は、バハマに総督として「幽閉」される。)、公が明確な意思を持った政治的人間であったとは思い難い。
また、或る夜のデイナーで、同席した紳士によると、公の話題は、カントリーハウスのガーデニングに終始したという。
また、乗馬や、狩猟など、公は、意外(?)にスポーツ好きで、特に、乗馬の障害競技を好み、落馬による、2度にわたる骨折を心配した家族をしりめに、障害競技をやり続けたという。
また、ウインザー公の回想録を読むと、やはり、それなりに興味深いが、一人の男の人生としては、どこか、生々しさに欠けるような気がする。翻って、「ウオリス・シンプソン」の生涯を考えれば、それは、一人の女性の生涯としては、かなり生々しく、ドラマチックだ、、、
こうして考えていくと、思い浮かぶのが「優雅なる無関心」という言葉だ。
ソサエテイーにおいて、最もエレガントとされるのが「優雅なる無関心」という態度で、これは、幼少時より、徹底的に教育される。しかし、今の時代に、この態度を、正確に説明するのも、実感として納得するのも、難しいと思う。
ここでいう、「無関心」という範囲は、物事に動じないというだけではなく、有事にあっては、自らの危険や死も意に介さないという所までをも含む。といって、「勇猛果敢」とか、「厭世観」とか「ニヒリズム」というのとも違う。自然に体が向かうというのが正解で、武士道とは、根本的に違う。
それは、「哲学的」なものではなく、身体に近いものなのだ。
これに、「優雅なる」という形容詞がつく所で、これは、モウ、付け焼刃では適わないことがわかる。これは、意識して身に着けるというものではない。
ウインザー公の人生に、スタイルがあるとすれば、それは、この「優雅なる無関心」に他ならないだろう。そういう意味では、前代未聞の「王位の放棄」は公のスタイルにおける頂点であり、それ以降は、一種の引退生活であったのだろう。
セシルビートンの言によると、戦後、公の表情には、しだいに、自身の「人生の空虚さ」への苛立ちがみえはじめたという。
「ウインザー公は、首を仰け反らせながら、無防備に笑うんだ。まるで、狂犬病にかかったテリアのように。」、、、
陽光ふりそそぐ、南仏の公の広大な別荘「La Croe」の毎日も、公の気分を安らがせはしなかったようだ。公は、落着きがなく、「失われた日々」に縋りつくように、日中はテラスで、バグパイプを奏でることが日課だった。そして、その物悲しいウエールズのメロデイーは、デイナーの合図まで続いた。
しかし、誰もが認めるところだが、それでも、公の生来のチャーミングさと、ある種のグラマラスさは消えなかった。それは、公に染み付いたもので、意識するとか、しないとかではなく、ウインザー公という存在そのものだった。
それこそが、公の「優雅さ」であって、それは、悲しいことに、人生の充足感とか、そのようなものとは別のところにあった。
私は、公のスタイルを、最も理解していた一人は、フレッド・アステアだと思う。聞くところによると、アステアは、ロンドン公演の際、楽屋を訪れたウインザー公の装いの、エレガントな「軽さ」に敬服したという。それで、さっそく、ホーンズ アンド カーテイスに駆け込み、公と同じ衣服を注文しようとしたが、ホーンズ アンド カーテイスは、これを丁重に断った。
結局、アステアは、アンダーソン アンド シェファードで、背広を作り、アンダーソン アンド シェファードは、アステアのおかげもあって、それ以降、サビルローでも、最もアメリカ人顧客の多い、米国の流行を追う特異な存在となる。
アステアが、仕立て上がった背広を、一度、壁にたたきつけてから着たという風説は、本当かどうか知らないが、アステアは、それ以降、「エアリーエレガンス(空気のように、軽やかなエレガンス)」と称される、ハリウッドでもダンデイとして知られるようになった。
この「軽やかさ」=「優雅なる無関心さ」というのが、エレガンスの本質だと見抜いたところが、さすが洒落道楽のアステアといえる。
実際、公の装いは、靴下に至る細部まで選び抜かれているが、といって「シリアス」さが無い。それは、公自身の人生のように、客観的には、波乱に満ちていながら、重苦しい現実の「シリアス」さからは、無縁なように見える。
極論すれば、公がどのような服を着ていようとも、或いは、自身の置かれた立場を、いまさら嘆いていようとも、多分、公は軽やかに、エレガントに映るようにさえ思う。
それは、拭いきれない「染み」のようなものだ。
「身についたエレガンス」というのは、良い仕立ての服を着続け、そういう生活を送り続けなければ身につかないが、かといって、金がかかった服や生活が「エレガンス」というわけでもない。
結局、そういったものがどうでもよくなって、それでも、そういう生活を、無作為に送り続けているうちに、それは、「染み」のように、ポツポツと現れてくるような気がする。
これを、別の角度から説明しているのが、「鬼火」で、この映画のモーリス・ロネをみたとき、コレは、ウインザー公の一変形だと思った。
この「エレガンス」のあり方は、極めてヨーロッパ的で、ある種の「クラス」にしか存在しないものだ。
この監督(ルイ・マル)は、どうして、コンナ映画を撮りたい思ったのか。筋としては、ナイーブすぎて、見る方が、かなり、のめり込まないと成立しないと思うのだが。しかし、確かに、昔は、こうした、無防備な「染み」のようなエレガンスを持った男がいた。
こうして、考えていくと、本質の「エレガンス」というのが、論理よりも身体に近いもので、意図するものではなく、より無意識にあるものだと分かってくる。そして、大袈裟にいえば、場合によっては、健全な人生を狂わせかねない「厄介な」ものでもあるような気がする。
多分、「ダンデイズム」というものも、ボー・ブランメルの最期をみるまでもなく、そんなモノなのだと思う。
しかし、アステアが、時折、ストライプのスーツにボタンダウンのシャツを合わせているのは、ホーンズアンド カーテイスへの彼なりの返答だったのだろうか。
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私家版 「サルトリアル ダンデイ」 2. 19世紀と20世紀
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2007-02-04T23:46:00+09:00
2008-07-19T13:18:27+09:00
2007-02-04T23:46:22+09:00
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2.19世紀と20世紀 その弐
「19世紀ダンデイと20世紀ダンデイ」
ここで、この両ダンデイの時間軸を検証してみよう。ダヌンツイオが1863年生まれの1938年没、75年の生涯だった。ウインザー公は、1894年生まれの1972年没、78年の生涯。
ヨーロッパのエレガンスを代表する、ベルエポックが、1895年から1914年。その後の、第一次大戦が1914年から1918年の4年間。
ベルエポック(英国では、エドワーデイアン)という華やかで、混乱した時代の幕開けに、ダヌンツイオは30代で、最も精力的な創作期間にあった、対してウインザー公は、ベルエポックとともに生をうけ、その初等教育を、前時代から受け継がれた規範と、かたや、現実には新しい時代(ベルエポック)の幕開けのなかで受けている。
年齢差が約30歳。ちょうど、ひと世代、違うことになる。第一次大戦を中心軸とすると、やはり、ダヌンツイオは戦中派で、ウインザー公はアプレゲール(戦後派)と呼べるのだろう。
そして、この第一次大戦こそが、19世紀と20世紀をわける分岐点といえる。
社会のエトス、世界の構造(第一次大戦によって、ヨーロッパの君主制<中世以来のホーエンツォレルン家、ハプスブルグ家、オスマン家、そしてロマノフ家>は崩壊し、旧世界秩序を決定的に破壊する。そして、今日の現代国家の体制がつくられた。)という視点からみれば、19世紀という概念と枠組みは、1789年のフランス大革命に始まり、第1次大戦まで続く。そして、実質の20世紀は、第1次大戦で始まり、ソ連の崩壊で終了したといえる。
第一次大戦が勃発するや、ダヌンツイオは滞在先のフランスから、母国、イタリアに取って返し(1910年代、ダヌンツイオは借金を逃れるため、フランスに逃亡していた。その地で、作家として再スタートし、クロード ドッビュシーと音楽劇「聖セバスチャンの殉教」などをかきあげている。パリで上演された、その音楽劇のプレミアには、プルーストも列席しているが、彼の日記によれば、「このプレミアで、最も興味深かったのは、主演のイダ・リヒテンシュタインの脚線美である」とのことだった。)、情熱的に、戦局に携わっていく。
彼には、この戦争こそが、ヨーロッパにおけるイタリアの地位を再度、浮上させる絶好の機会だ、という強い想いがあった。フューメの占領などを経て、ダヌンツイオは「戦争の英雄」となる。そして、ムッソリーニと急接近し、(1971年刊行の「ムッソリーニとの往復書簡」をみると。ムッソリーニは多分に、ダヌンツイオが描く「イタリア復興の戦略」に影響されていた。)ファシズムに傾倒していく。しかし、ついぞムッソリーニは、ダヌンツイオに政権の重要なポストを与えることはなかった。
そして、ダヌンツイオは、ガルダ湖半の「ビットリアーレ」に隠棲することになる。
大戦後の新しい時代の幕開けとともに、ダヌンツイオが、「ビットリアーレ」に引き込まざるをえない運命にあったというのは、何か象徴めいている。
理想の住居として築き上げられたガルダ湖半の家に隠棲するダヌンツイオは、どこか、ユイスマンの「さかしま」を思い起こさせる。ダヌンツイオは、この館で、夥しい量の彫刻や絵画、陶磁器、書物という蒐集品に囲まれて、最後の10数年を、執筆活動に費やす。
1937年、マルコーニの死後、イタリアのロイヤルアカデミーの会長に指名されるが、翌、1938年の3月1日、愛用のデスクで執筆中に発作に襲われ、その生を終える。
ダヌンツイオの服は、そういう人生を送った男の服だ。その人生は、彼自身が強く意図した「ロマン的」な冒険(戦争だけではなく、 女優エレノラ・デューセとの色恋沙汰なども、、、)によって導かれていく。大袈裟にいえば、それは、エドモン・ダンテス(モンテ・クリスト伯)のような19世紀的ピカレスク・ロマンを思いださせる。
彼が好んだ軍服も含めて、その服の数々は、まるで、この「人生」のために周到に練られた「舞台衣装」のように見えてくる。
はたして、ダヌンツイオは、死が突然、襲ってきたとき、どのような服を纏っていたのか、、、。
ダヌンツイオが、その最後の一年を迎えようとしているとき、ウインザー公も、また「大きな決断」を迫られていた、、、
1936年、父君であるジョージ5世が亡くなり、プリンス オブ ウエールズ(ウインザー公)は、王位を継ぎ、エドワード8世となる。この年、スペインでは内戦が勃発し、ラインライトはヒットラーに占領された。日本では、2.26事件が起きた年でもあった。
第一次大戦によって引き起こされた「歪み」は、1929年、10月の世界大恐慌を経て、各国の新たな植民地獲得と軍事拡張へと大きく増幅し、世界情勢は、一触即発の不安定な状態にあった。
ところが、ご存知のように、即位 間もない1936年の12月、エドワード8世は、BBC放送を通じて、「王位の放棄」を国民に告げる。その理由は、これも、ご存知のように、ひとりのアメリカ女性との「色恋沙汰」である。
当時の、戦争の危機を孕んだ世界情勢(この年、勃発したスペイン内戦を、第二次大戦の始まりとする歴史家もいる。事実、同内戦は第二次世界大戦で使用されることになる兵器の実験場の様相を呈し、壮絶を極めた。)、そして、国民の拠り所ともいえる王制という概念を根底から覆すことを鑑みれば、コレは、モウ、ムチャクチャといわざるを得ない。
事実、一大スキャンダルとして、ウインザー公は、嘲笑と恥辱に曝されようとしていた。
その時、助け船をだしたのが、シンプソン夫人の母国、アメリカのジャーナリズムだった。上流階級の「色恋沙汰」は、「20世紀最大のロマンス」と塗り替えられ、愛を貫くために、国を捨て、王冠を捨てたウインザー公はヒーロであり、夫人はヒロインとなった、、、
2003年に、解禁された公に関する「機密文書」によると、シンプソン夫人は、公との交際中に、別の男性、車のセールスマンをしていた ガイ・トルンドル、とも密会を重ねていたという。これは、政府がシンプソン夫人に24時間体制で尾行をつけた結果、判明したということだが、公には、生涯、知らされるコトはなかった。
昔の(今も?)上流階級の間で、結婚が繰り返され、不倫や愛人問題やらがあるのは、「退屈」だからだ。これは、経験すれば分かるが、職業をもたない彼らは、「暇」なのである。暇だから、「パーテイ」が繰り返され、「色恋沙汰」も生まれる。読んで字の通り、「社交界」なのだ。私の某知人は、あきれ返るほど、「婚約」を繰り返していた、、、
このニュースが知らされた時、ガルダ湖半の館で、ダヌンツイオは、どう考えただろう。
「持つ者」と、「持たざる者」、、、ダヌンツイオは、称号と、自身に「ふさわしい」社会的地位には恵まれなかったが、独自の想いを自由に表現できる芸術には恵まれた。ウインザー公は、英国の王というノブレスの頂点に生まれたが、規範の中で個人の自由を押し通すことには、軋轢と限界があった。
人は、なかなか、目の前にある幸せだけでは、満足できないでいる。もしも、ダヌンツイオが清貧に甘んじ、己の芸術に忠実であったなら、、、ウインザー公が、ノブレス・オブリッジを再認識し、公なりの王室をつくり、戦後を生き抜いていたら、、、
この前代未聞の「王位の放棄」以降も、公の行動は報道を通じて全世界に配信されていく。いや、なおさら、公が、旅行の際も、デイナーを摂るときも、その一挙手一投足を見逃さまいと、一個師団のプレスがつきまとった。しかも、公自身が語るように、公は気軽に写真撮影を許した。、、、こうして、「ウインザー公」はマーケテイングされていく、、、。
特に、シンプソン夫人との結婚以来、アメリカのジャーナリズムは、英国の王がアメリカ女性を娶ったことに、ある種の誇りを感じていた節がある。
公の意図は知らないが、ジャーナリズムによって、公は、アメリカという当時、最大の市場に、見事にマーケテイングされていく。これほど、リアルタイムで、ひとりのダンデイのスタイルが、繰り返し、パブリシテイされたのも前代未聞ではないだろうか。
公のスタイルは、一言でいえば「スタイリッシュなカジュアルネス」といえるだろう。
それまでの「場」に即した「フォーマリテイ」という19世紀的な装いの原則は、公によって、次々に壊されていった。ウインザー公によって実践された20世紀的な「カジュアル(簡略)化」(ウエストコートを捨て、ブレイシーズの代わりにベルトを締め、ジッパー付きのトラウザーズを履く)は、パブリシテイによって一般に認知され、「元」英国王という肩書きでオーソライズされていく。
それは、大戦によってヨーロッパの君主制が壊され、戦後、ブルジョアが台頭し、アメリカという新国家が世界一の大国となる時代背景に呼応していた。
「ウインザー公のスタイル」
19世紀ダンデイズムから、20世紀ミーイズムへ
ウインザー公のスタイルで、私が好きなのは、プレイドスーツだ。
公のクローゼットには、目が眩むほどの数々が並べられていて、それは壮観である。
特筆すべきは、これらの、ツイードのプレイドスーツが、ショルダーパッドやライニンングがとりはずされた「アンライニング」になっていることだろう。
英国のカントリーツイードは美しい。タウンスーツの慎重なジミさに対して、カントリースーツは、コチラが驚くほど大胆だ。その、プレイドの大胆な組み合わせ、複雑で意外性に満ちた、色の組み合わせなど、シャネルが、そのスタイルイコンとなる「シャネルスーツ」の想を、ここから得たというのも頷ける。
それぞれの家柄を示す「デイストリクト チェック」などは、なまじの「デザイナーの計算」では為し得ない「アバンギャルド」な美しさがあると思う。
「デザイン」とか、「計算」ではなく、伝統とか歴史、あるいは風習から生まれた「美しさ」には、本物がもつ「強さ」と「深み」がある。日本の和服に近いものが、英国にあるとすれば、それは、このツイードだと言えるのかもしれない。
そして、カントリー ツイードに限っては、いくら、くたびれた古いものを着ていても、或いは、父親や祖父が残したものを、仕立て直していようとも許される。これも、紬などの仕立て直しに似ている。
ウインザー公も、ツイードではないが、父君、ジョージ5世が残した、ショールカラーのタータンのラウンジスーツを仕立て直して愛用していたという。
ちなみに、この「タータンチェック」も、ウインザー公が「流行らせた」モノのひとつだろう。
或る夜のデイナーで、公がタータンチェックのデイナースーツを着ていた事を聞きつけたマスコミが、それを報道するやいなや、ジャケットから、バッグ、ソックスまで、国中(主にはアメリカ)がタータンだらけになったという。
思うに、功罪取り混ぜて、ウインザー公ほど、その後のレデイメイド(既成服)に影響を与えたダンデイは、いないのではないだろうか。
プレイドやタータンは、古からの英国が誇る「スタイル」であったはずだ。それが、皮肉にも、公の手によって、「スタイル」から「ファッション」になっていく。
穿ちすぎかも知れないが、60年代、70年代の、ポリエステルの派手なプレイドジャケットにゴルフズボンという典型的な(そして、私見だが、悪趣味な)「アメリカン」 カジュアルスタイルは、公のスタイルの「マチガッタ」解釈の末裔だとさえ思う。
ウインザー公が、ダンデイの歴史上で特異なのは、19世紀的な価値観の象徴である英国王室に生まれながら、それに相対する20世紀的な「ドレスダウン」と、価値観としての「ミーイズム」を実践してみせたことにある。
それも、早すぎるでもなく、時代に遅れをとったわけでもなく、19世紀から20世紀に移る、その絶妙なタイミングに、「王室の反逆児」という、これも、絶妙なお膳立てのもとに登場したことによる。
そう考えてみれば、色恋沙汰の果ての「王位の放棄」も、生き方としては「首尾一貫」したものにさえ思えてくる。
こうして、いま考えていくと、ウインザー公の「革命的なドレスダウン」は、「持てる者」の一種の偽悪趣味だったといえるような気もして来る。
権力の座にあるものだけが、ルールやファッションを無視できる。王に生まれた、ウインザー公だからこそ、19世紀的な「りっぱな装いで身を飾る」ことを、無視できて、また、それを正当化できたともいえる。
そういう意味では、公のスタイルをダンデイズムのお手本のようにして、マネをするのは愚かだということになる。公のスタイルそのものが、厳密にいえば「反ダンデイズム」であり、実質は、「ミーイズム」の表現にあったのだから。
つまり、公のスタイルは「英国王室」を出自としているが、そのスタイルを「英国クラシズム」のテキストで捉えるのは大きな間違いで、ウインザー公という我侭で、思いっきりスタイリッシュな人間の「個人的な趣味」の表現に過ぎないということだ。
そして、面白いのは、そのスタイルが、「ソサエテイーの良識」というものを、徹底して、無視(無関心か?)していて、逆に「ソサエテイー」の方が公におもねるという構図を生んだことだ。
さらに、興味深いのは、結局、公の「スタイル」というのは、よく理解されなかったように思うことと、その代わり、表層的には、その後の既製服に大きな影響を与え、「ファッション」に大きく貢献することになったということだ。
まるで、メビウスの輪のように、「権威」と「反権威」、「ダンデイズム」と「反ダンデイズム」を魅力的な螺旋で繋ぐ、公のスタイルは、極めて20世紀的な在り方で、それゆえに、いまだに「鬼火」のように、語り継がれるのだろう。
その公のスタイルの真骨頂は、やはり、その「カジュアルスタイル」にあると思う。
なぜならば、それが、最もウインザー公自身のアイデアと嗜好が色濃くでているからだ。
プレイドのスポーツコートに真紅のトラウザーズを合わせて、絹のスカーフを首に巻き、パームビーチに遊ぶ姿は、いまどきの「チョイワル」を鼻で笑うかのようだ。
公は、生涯を通じて体型を維持したといわれている。
残されたスーツから導かれる公のフィギュアは、
胸周り 96センチから97センチ
トラウザーズのウエスト 74センチ
トラウザーズのレングス 104センチから106センチ(インサイドレッグは74センチ)
夫人ともども、華奢な、小柄といえる体型だった。写真で見る限り小柄に映らないのは、注文仕立てのスーツのおかげだろう。
当然だが、公の「カジュアルスタイル」も、注文仕立てであった。スーツは注文するが、「カジュアル」は既成で済ます人が多いが、「カジュアル」こそ、バランスや仕立てが大切で、また、自分なりのスタイルが実現できるのではないかと思う。
公の「カジュアル スタイル」の独自性は、その素材選びにもあった。お気に入りは、英国のものとは明らかに違う、米国独特のトロピカルウエイト(軽く、しなやかな)の色鮮やかな、コーデユロイや、これも英国では見ることのない、爽やかなシアサッカーだった。
英国の王族のドレスコードを考えれば、いま、我々が思う以上に、当時は、ショッキングで、先鋭的な選択だったろう。しかも、オークションに、かけられたスポーツトラウザーズのリストをみると、ダクロンなどの化繊のものさえある。
アメリカ人が、公から多くを得たように、公もまた、英国と比べて、規範の薄い、アメリカの「カジュアルテイ」から多くの収穫を得た。
それらの「安価」な「素材」は、熟練の職人の手を経て、「ウインザースタイル」と成って、輝きを増す。
トラウザーズに合わせる靴も、有名なホワイトデイアスキンとのコンビのローファーはともかく(このローファーのアッパーは、単なるモカシン縫いではなく、独特なつくりになっている。)、ケッズの厚いラバーソールのバックスキンダービーなども、お気に入りだったようで、様々な色のものがシューラックに納まっている。
面白いのは、当時のリゾートシューズの代表格である、フルブローグタイプのコレスポンデントやクロコダイルのもの(そう、鰐皮の靴は、元来、リゾートなどのカジュアルタイプだった。)ではなく、コンビのローファーや、ダービーを好んだところだろう。(公は、色違いや、同じものを、何足も誂えている。)
特に、私のお気に入りは、黒いカーフと、ホワイトデイアスキンのダービーで、何気なそうに見えて、実は手間のかかる、凝ったアッパーのつくりになっている。これを、公は、カジュアルスタイルだけではなく、シテイスーツにも合わせていて、独特の雰囲気を作っている。
多分、シテイスーツを「ドレスダウン」して、着こなしてみせた先駆けは、公なのではないだろうか。そして、その着こなしで、独特なのがソックスの選び方だと思う。
有名なのは、ブルーストライプのシアサッカーのトラウザーズに、コンビのローファー、そして、ホリゾンストライプのソックスという組み合わせだが、これ以外にも、茶のグレンチェック柄のダブルのスーツに、茶と黒のシェファードチェックのソックスとか、格子の半袖シャツに、シアサッカーのピンクと、イエロー、ブルーの格子のトラウザーズ、そして足元は、茶のスエード靴にアーガイルのソックスという具合に、足元にまで、その意思が通っている。
もうひとつ、公のカジュアルスタイルで、注目したいアイテムが、オーバーシャツというのか、一種のシャツジャケットだろう。
これは、ライニングのないシャツ仕立てのジャケットで、いわゆるCPOシャツのようなものや、ウエストまでのブルゾンタイプのものなど、数パターンを、スーツと同じ柄のツイードなどで誂えている。
公は、これに、ネクタイをしめて、プラスフォー(ニッカーボッカー)や、ハイランドキルトにあわせて写真に収まっている。カジュアルジャケットといえば、ハッキングジャケットか、ノーフォークジャケットの時代に、いわゆる「アンコン」のジャケットを着たのは、ソサイエテイーでは公が初めてといわれている。
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私家版 「サルトリアル ダンデイ」 1.ショルテイ以前、ショルテイ以後。 (19世紀と20世紀)
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2006-12-09T12:06:00+09:00
2009-05-08T01:54:52+09:00
2006-12-09T12:06:36+09:00
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1.19世紀と20世紀 その壱
「私は、折りにつけ、我が友に説いて回ったものだ。衣服の力をかりて、自分自身の周りに防壁をつくることの大切さを、、」
(マイケル・レイリス 「L‘Age d‘homme」より)
「ショルテイの革命 - ロンドンカット=イングレッシュドレープの登場」
フレデリック・ショルテイという名を、もし、貴方がご存知ならば、多分、あのウインザー公のスーツ(厳密にいえば、或る時期から公は、ズボンだけは、ロンドンのフォスター & サン 或いは、お気に入りのニューヨークのテーラー、H.ハリスに頼んでいた。)を任されていた、サビルローのテーラーとしてだろう。
この「ズボンだけは、別のテーラーに頼んでいた」という理由は、巷間、保守的なショルテイが、公の望む「少し太め」のズボンを造るのを嫌ったと言われているが、それだけではなかった。
公の望むズボンは、「少し太め」という点で、オックスフォードバックスに似たようなものと思われがちだが、股上がそれまでのものと違って浅く、サイドポケットでストレートなウエストバンドをベルトで締めるという、極めてモダンなものだった。いわば現在の若者のズボンの原型といえる。(事実、公のズボンは、アメリカの若者たちに熱狂的に受け入れられた。)それまでのブレイシーズで吊るす、股上の深いズボンとは概念自体が違っていたのだ。
また、ヘビースモーカーであった公は、シガレットケースを左のヒップポケットにいれるのを常としていて、テーラーは、左のヒップを広めにとり、シガレットケースを取り出しやすいように、ボタンもフラップもないヒップポケットをつけることを注文された。愛煙家の彼にとっては、このシガレットケースが取り出しやすく、しかもシルエットを崩さない仕掛けは、重要なデイテールだったのだ。
ところが、大戦中の英国政府は、物資不足から、テーラーにも、「資源の節約」を命じた、国中のズボンに折り返しをつけることさえ、禁じたという。
それで、公は、戦時統制のないニューヨークに目をつけて、彼の地のテーラーに注文をし始めたと言われている。
事実、公は1919年から、1959年までの間、ショルテイのクライアントであり続けた。
1959年で、ショルテイとの付き合いが終わっているのは、ショルテイ自身が亡くなり、その後、店は経営的に行き詰まって、遂に1959年に閉店してしまうからだ。
ショルテイの亡き後、カッターとしてショルテイの店を切り盛りしていたのが、エリック・ジェイムズ(先代)で、彼は、その後、自身の店、「ジェイムズ&ジェイムズ」を立ち上げる。ショルテイの顧客の多くは、そちらに移った。
ジェイムズ&ジェイムズは、ウインザー公が、ショルテイでつくったノーベント(当時、流行だった)の背広(推定100~着!)を、サイドベンツに切り直すアルタネーションを請け負い、また60年代に、公は有名なタータンチェックのデイナースーツをはじめとして、自身の背広をオーダーしている。(ただし、トラウザーズは、やはりハリスに頼んでいた。)
ショルテイの死後、公は、いくつかのテーラーにスーツをオーダーしている。
多いのは、やはり、ニューヨークのH.ハリス(今度はトラウザーズだけではなく背広も)、そして、ジェイムズ&ジェイムズ、イタリアのエミリオ・ルッポ(リビエラの飛行場に降り立った、パグ犬をひきつれた公の有名な写真で、公が着ているスラブ織りのシルクのスーツを製作した。)など。
エミリオ・ルッポでつくられたスーツは、さほど残されていないので、どの程度のつきあいだったのかを推測することはできないが、それ以外のテーラーとのつきあいは、「Faithful Client」と表現できるほど、長く、深いつきあいをしている。
しかし、ショルテイの名が、いまも残り、メンズエレガンスの歴史をひもとくとき、必ずとりあげられるのは、「ドレイプ カット」、別名「ロンドンカット」の生みの親であり、スーツの歴史において、ひとつの「革命」をひきおこしたことによる。この「ロンドンカット=イングリッシュドレープ」こそは、その後のメンズエレガンスを大きく変えた「コンセプト」であり、いま、我々が、普通にスーツとして思い描くものは、ほとんど、この「ロンドンカット」の概念=コンセプトの下にある。
ショルテイが生み出した、この「ロンドンカット」以降と、以前では、男の背広は様変わりした。
ショルテイは、ドイツ系のオランダ人移民で、彼の店は当初は、コークストリート3番地、その後、サビルローに移り、ちょうどヘンリープールの真向かいに店があったという。
ショルテイも、当初から「ロンドンカット」を実践していたわけではなく、ショルテイが「ロンドンカット」をクローズアップしはじめたのは第一次大戦中だといわれている。
そのためか、プリンス オブ ウエールズ時代のウインザー公は、どちらかというと肩幅の狭い(ナチュラルな肩幅の)まるく、身体にフィットしたシングル前の三つ揃いを着ている。
このスタイルを、いまだに、純粋に残しているのは、ウイーンの「クニーシェ」だと思う。あまり知られていないが、この店は、「クニーシェ」と「C.F.フランク」という2店のテーラーが併合したもので、「C.F.フランク」は「クニーシェ」よりも、より古い名店で、ジョージ5世をはじめ数々のロイワルワラントを持っていた。
「ロンドンカット」は、「ガーズ コート(王室近衛兵)」と呼ばれる近衛兵のユニフォームからヒントを得て、ショルテイが独自に創り出した、極めてマスキュリンなシルエットだった。それは、広めの肩と、絞ったウエスト、ゆとりのある胸周りを特徴としている。
「近衛兵のユニフォームからヒントを得た」という背景には、ショルテイが、自分の店を出す前には、ジョンズ&ペグ(この店は、1858年創立の老舗のひとつで、エジンバラ公のワラントをもっていた。数年前までは、セント ジョージ ストリート 11番地に店があったが、いまは、サビルロー 38番地の「デイビス & サン」に吸収され、その一部門として名を残している。)という、主に王室近衛兵のエリートを顧客としていたテーラーで修行を積んでいたという「経緯」がある。
「広めの肩」、「絞ったウエスト」、「ゆとりのある胸元」と言葉でいえば誰しも知ることだが、それを一枚の布きれで、実現するためには、背広の内部の仕事、技術が必要になってくる。
ショルテイは、胸元からポケットまでプリーツを両サイドにいれ、ウエストを絞り、またショルダーラインを広くみせるためにパッドを工夫し、アームホールには、今でいう「ゆき綿」をいれ、胸周りのゆとりを生み出し、動きやすくした。袖は、手首に向かってテイパードされ、ウエストラインは実際よりは数インチ上にとられ、ポケットを高くし、ラペルは立体的にロールされ、より鋭角的なものにされた、、、、そう、いまや当たり前となったことが、ショルテイによって生み出された。革命的だったのだ。
一番の大きな転換は、男の服に「アスレッチクな男らしさ(マスキュリン)」というコンセプト(概念)を持ち込んだことだ。
それまでのエレガンスというのは、どちらかというと「優美さ」に重きがあった。身体の欠点は隠したろうが、ゴツゴツしたところのない「優しいライン」がエレガントとされ、極論すれば、幾分、フェミニンな価値観の延長にあった。
そこに、ギリシア彫刻のような広い肩と絞られたウエストという「肉体的に鍛えられた男らしさ」、「強さ」を男のエレガンスとして再認識させ、定着させたことが革命であり、男の服はショルテイ以前と以後で様変わりする。
この、「様変わり」する時代の「以後」と「以前」を代表するダンデイに、ウインザー公とダヌンツイオがいる。
上の写真は、ダヌンツイオが1920年にウ”ェツイアのマルテイネンギというテーラーにオーダーしたカントリースーツで、幾分、「ロンドンカット」の影響を受けているが、その意図するところは「優美さ」と「耽美的なデイテール」にあることは瞭然と映る。
ウエストに寄せられたボタンは、1911年頃、大戦前にパリで流行した「デイテール」で、通常は2つボタンなのだが、3つボタンにしたのはダヌンツイオの「注文」なのかもしれない。
翻って、下の写真は、ショルテイ作(1928ー29年)の、ウインザー公のカントリースーツ(トラウザーズはプラス4になっていて、こちらは、フォスター & サンのラベルがついている。)で、フラップ付きの胸ポケット、ハーフムーンポケットなど凝ったデイテールだが、ダヌンツイオのものと比べると、確かにショルダーを広めにとり、よりモダンなメイルエレガンスを感じる。
ただ、ショルテイのコートを色々、見ていると、ウエストを絞ってはいるが、タイトというのではない。一種の「ゆとり」が胸元あたりにあり、これが、矛盾するようだが、絶妙な「ソフトなエレガンスさ」を生み出して、シルエットづくりの上手さが際立っている。
ショルテイの影響で、サビルローを始めとするテーラーが、次々に、「ロンドンカット」を取り入れていくが、やはり、ショルテイが群を抜いていた、といわれる所以は、この絶妙なバランス感覚を持ったシルエットづくりの才にあった。
「ダヌンツイオとウインザー公」
思えば、ダヌンツイオとウインザー公ほど、対象をなすダンデイもいない。
一方は、「ノブレス」に憧れ、自身の手で家から服装、生活の総てを「それ」にしようと異常な情熱を傾けた男、もう一方は、「王になる者」として生まれ、だが「それ」に無頓着で、自分の趣味嗜好に走るあまり、「王位」も棒にふってしまう男。
しかし、この二人のダンデイは、ちょうどコインの裏表のように、対極をなすように見えて、実は一枚の硬貨であり、どちらも「スノッブ」だと思う。
ダヌンツイオの服装は、実に「エレガント」だと思うが、必要以上に「貴族的なモチーフ」で飾られ、彼が思い描いた「懐古的なノブレス」が見て取れて、どこか痛々しい。
ダヌンツイオ自身は、きっと興味深い、それなりの芸術をもっていた人物だと思うのだが、それがどこかで「政治」に向かっていって、「アート」として昇華されなかったのが残念に思う。
これは彼の服装にもいえるような気がして、「私的な趣味の面白さ」として昇華すれば、実にチャーミングなのだが、服装にも「政治」(服を通して、本来ではない身分を、社会的に位置づけようとする)が見え隠れして、粋ではなくなる。
ダヌンツイオのスーツの多くは、意外にパリのテーラーによってつくられている。
これは、イタリア本国より、より洗練された服を手にいれるためにパリに足繁く通ったのか、或いは、パリに定期的に旅行していたのか、、、どちらにしても、服装に、異常に情熱をかけたということは、周知の事実だから、テーラーの選択にもダヌンツイオの情熱があったことは明白だろう。
下の写真は、パリのトレムレット(これは、シャツ屋で有名だった、ワシントン トレムレットと同じ店なのだろうか)による1912年製作のもの、この他にも、ベルエポック時代の名店、セザール トマシーニでも数着つくっている。輝くようなベルエポックのパリのエレガンスに、ダヌンツイオが惹かれたのは想像に難くない。
(ちなみに、本国イタリアでは、前述のウ”ェネツイアのマルテイネンギの他に、
フィレンツエの「サルトリア チェレニーニ」、ミラノの「プランドーニ」と「ベローニ」というテーラーで服を注文している。シャツは、フィレンツエの「A.ダルマッゾ」に頼んでいる。)
そして、その服、ひとつひとつが、凝っていて、細部にわたって息苦しいほどのデイテールに満ちている。(それが、いまでもダヌンツイオの服が取り上げられ、私たちを魅きつける所以なのだが、、、)
これらの服をみてみると、そのエレガンスの価値観が、19世紀のコンテキストにあることが分かる。服がそうであるように、ダヌンツイオという人間の価値観、美意識もまた19世紀にあったといえると思う。
翻って、上の写真は、ウインザー公のショルテイ作のデイナースーツと、公のクローゼットに並ぶ、カラフルなトラウザーズ(主には、ニューヨークのH.ハリス製)、そして、右は、アルミのケースに整理されたウインザー公の背広のスワッチの数々(パリのブローニュの家、南仏の家など、各家ごとに分けられている。)、、、この、煌くような「フランボヤント」さ、、、
ダヌンツイオの凝ってはいるが、それまでの社会的生活の枠組みにある(そして、その中でより良く評価されようと意図している)服と比べると、極めて「個人的」で、「個人を中心とした」イデオムにあることがわかる。
その意味で、ウインザー公は、20世紀的だといえる。
それは、進歩的で、輝いているが、確固とした土壌に根付いたものというよりは、個人的な想いが強い、いわば、「根無し草」的な「フランボヤント」さで、それが、極めて20世紀的といえる。
「20世紀」は、「個人(ミーイズム)」という意識が、果てしなく、社会の枠組みを壊していった「時間」だ。
それまでの社会性を問われた服から、個人の表現という新概念を、服装に持ち込み、主流に導いたのは、ウインザー公の功績かもしれない。事実、公は30年代にはいると、特にアメリカにおいて、絶大な人気を誇る「ファッションリーダー」となり、「ロンドンカット」は、「憧れのファッション」となった。
アメリカの富裕層は、こぞってサビルローへ出向き、歴史上、唯一、サビルローが「ファッションの中心」となった。
この、アメリカで、「熱狂的に受け入れられた」というのが、時代の為せる「仕業」で、多分、アメリカという「観客」がいなければ、これほどウインザー公のスタイルが、瞬く間に「評価」され、広まる事になったかどうか、、、
「ロンドンカット」とともに、公のシグネイチャースタイルともいえる派手な柄への嗜好、ストライプやチェック、ピンクやコーラルなど、柄や色の「ほとんど冒険ともいえる」組み合わせは、当時のヨーロッパのソサエテイーを身震いさせるものだった。
ただ、これは公だけではなく、当時、オックスフォードの学生などの富裕な子息を中心に、シュールレアリストのような「エキセントリック」な装い(セシル・ビートンの若かりし頃の写真などから、それを窺い知ることができる)をする若者が現れていて、一種の「嘆かわしい」社会風俗になっていたという背景もある。
モウひとつは、よく言えば、「イングリッシュ エキセントリック」、あからさまに言えば「イングリッシュ バッドテイスト(英国人の悪趣味)」という「伝統」もある。
何故か、英国には、ごく「個人的」な「変った趣味」の服装を、「情熱的」に「追求する」ダンデイが、生まれる歴史的傾向がある。
公も自著「ファミリー アルバム」の中で、「黄色い伯爵」と呼ばれたロンデール伯爵のことを、懐かしげに回想している。
ロンデール伯爵は、召使の制服から、愛車まで、自身の身の回りをすべて、カナリア イエローに塗りかためた。そして、本人はピンクや、白地にピンクのキャンデイーストライプのシャツを愛用した。
公が、1930年、当時としては、かなりアウトレイジャスであったピンクのシャツを派手な格子のプラスフォーのスーツにあわせて(しかも、足元は赤と白のストライプの靴下、、)、フランスのトウーケの飛行場に降り立ったときも、かなりな波紋を引き起こした。公自身は、「フランスでは、誰しも着たいものを着れると思っておった」と嘯いたものだ。事実、公の写真が報道された翌日には、どの店でもピンクのシャツは売り切れとなった。こうして、メンズエレガンスのタブーは、ウインザー公のパブリシテイによって、次々に壊されていく。
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「日々の愉しみ」 3.My Favorit Shop
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2006-09-01T01:47:00+09:00
2008-07-19T13:19:46+09:00
2006-09-01T01:47:01+09:00
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3. My Favorite Shop
「ウ~ン、、、、」
(代々の付き合いの京都の組紐屋の親父の言葉<ウナリか?>。)
(このとき、私は、何を思ったか、組紐をローファーにつけることを思い付き<このブログの右上の写真が、そのローファーである>、さっそく、京都に出向いた。親父は、「靴につける。」という私の言葉に、うなったが、それでも、組紐は指定通り仕上り、そして、それは海を渡って、ウイーンに持ち込まれた。、、、)
「ヤー、ヤー、、、」
(我が愛するウイーンの靴屋の言葉<ウイーン人は、相槌として、しきりに、「ヤー」と言う>。)
(組紐とともに、日本の兜のデイテイールを施したデザインスケッチを仕上げ、ついでに古い兜の冊子を一冊携えて、私はウイーンの靴屋を訪れた。真面目で精力的な若旦那は、私の説明に、やや興奮気味に何度も頷き、この靴用に、光沢のある特殊な靴クリームをパリでつくらせ、私の漢字のサインも踵の内側に施され、待つこと、しばし、実に独創的な一足が仕上がった。、、、百歳堂敬白)
我がホームタウン、消費の都、東京にいて、私は滅多に買い物にでかけるということがない。 オフィスが銀座にあるので、世界中のあらゆるものが、歩いて数分のところに群がっているだろうに、何故か足が向かない。
半世紀も生きていると、モノも溜まっていくので(確かに、充分過ぎるほど持ってはいる、、、)物欲が無くなったのかというと、そうとも言い切れない。キラキラ輝く街をみるのも好きだし、浪費する魅力も知っている。
考えてみると、「買い物」に、私が期待しているのは、見栄や、物欲を満たしてくれるだけなく、何か「創造力」を満たしてくれるものだと思う。
例えば、ウインザー公が、公爵夫人のためにカルテイエにオーダーした金のシガレットケースには、世界地図の上に、新婚旅行で訪れたルートがエッチングされ、訪れた街の場所にはルビーが埋め込まれていた、、、
、、、レデイ ドッカーは、4台のダイムラーを持っていたが、それぞれの車の内装を、自分のハンドバッグとマッチングさせていた。例えば、メタリックブルーのリザードのハンドバッグで出掛けるときは、同じメタリックブルーのリザードで内装されたダイムラーを使い、ほかにも、手持ちのハンドバッグに合わせて、赤いクロコダイルの内装のもの、手織りの金のブロケード織りのもの、そして極め付きは、6頭の縞馬の革を張り巡らせたダイムラーだった。
(或るとき、革の好みを尋ねられたレデイ ドッカーは、こう答えたものだ、「ミンクは、車の内装には向かないですわネ、座ってみるとわかりますけれど、暑すぎますわ。」)
これらは、極端な例ではあるが、ウインザー公にしても、レデイ ドッカーにしても、彼らなりのスタイルで、単なる豪華なシガレットケースや車という以上の魅力を、そのモノに与えているとはいえないだろうか。
たとえ、ウインザー公爵夫人が、夫婦喧嘩の最中には、このシガレットケースを憎らしく思えようとも、或いは、レデイ ドッカーが、いちいち車を乗り分けるのに、実はウンザリしていようとも、
ソレらは、まさしく「彼ら自身」といえる。
多分、今の銀座に溢れる多くのモノは、対価として支払う紙幣と同じように、どこにでも流通しているモノだ、、、30万円のバッグは、30万円のルックスをしている、、、雑誌でみかけた「レアモノの」デザイナーの服は、見かけた通りの姿で、既に店で待ち構えている、、、、私に必要なのは、2千円だろうが、100万円だろうが、いまだ「不確か」ではあるが、「私のルックス」なハズだ、、、
思えば、モノを所有するというのは、楽しいけれど、メンドウなものだ。使い捨てにしない限り、チョットした気まぐれが、メインテナンスの手間を次々に生むことになる。これらの手間は、思いのほか、貴方の限られた時間と空間に、我が物顔で侵入してくる。どうせ、メンドウなモノなら、ココは、自分の生きてきた「証拠」となるようなものを手に入れようではないか。(ドチラにしても、必要不可欠なモノというのは、そうナイのだから、、、)
「私のルックス」を手に入れるために、私は多くの店を尋ね歩いた。
例えば、粋な帽子(シャポー)。コレほど、優雅で、しかし、無くともイッコウに困らないアイテムもない。近頃では、仕立ての良い背広に、それに見合う上等の帽子を被った男性をみかけることは、メッタになくなった。残念なことだと思う。いまや、本気で、親身になってくれる「本物の」帽子屋を探そうとすると、難儀する。
しかし、いまだ、ヨーロッパでは、ダービーなど公の場においては、帽子が必須であることを思えば、コレは、紳士の最もわかりやすい記号なのかもしれない。
第一、帽子ひとつで、背広姿は優雅に一変する。被り慣れると、無いと、ナンダカしまらないと感じ始めさえする。
(ただし、被りなれないと、どこか道化て見えてしまうというコワサもある。熟練が必要なアイテムなのだ。)
白状すれば、私は、帽子に限らず、昔ながらのエレガントなライフスタイルに基づいた、しかし、年々、消え去る運命にあるアイテムというのに、ドウモ、魅かれる傾向がある。
きっと、ソレらは、世界的なドレスダウン傾向のなかでは、無用といえば無用で、かえって、メンドウなものなのだろう。
けれど、オカシナことに、「無用」なモノに限って、「優雅」は宿る。「美」は限りのない「無駄」から生まれる。バウハウスがアンチテーゼとして目指した「用の美」も理屈としては、革命的で評価もするが、「エレガント」や、「優雅」というのは、所詮、用を求めるものではなく、人の「生き方」の問題なのだ。
人が生きていれば、無駄も損もあって至極当然で、一片の無駄もない「効率的」な生き方を目指すのが、果たして幸せなことかどうか。
「無駄」や「損」から生まれる「何か」を許容できてこそ、「生きる」という摩訶不思議な魅力を味わえるのだと思う。
それは、ローマの4月、コルソ通りの散歩から始まった。
ふと立ち寄った本屋で、目をひいた一冊の本。それは、古今東西の帽子がとりあげられた好事本で、パラパラめくると、いかに、紳士が、この「無用の長物」に情熱を傾けていたかが分かる。
サボイアの皇太子は、ブリムの広いソフト帽を旅行の時には愛用していた、ルイジ ピランデロはやけに幅の広いシルクのリボンをホンブルグに飾るのが好みだった、、その他、オクタングルの旅行帽から、紋章と房のついたナイトキャップまで、、、それらは、実に「個性的」ではあるが、不思議に持ち主に同化して見える、、、
私は、私の身体の一部となってくれる帽子が欲しくなった、、、英国人は、長年、着込んで、クタブレはてたツイードのカントリージャケットを「オールド フレンド(永年の友人)」(モノも言い様だ。)と呼んで、それでも愛着し続けていることがある。私も、年を経るごとに、頭にシックリ馴染んでいく、そんな帽子が欲しかった、、、こうして、コルソ通りの本屋を出発点に、私の帽子屋遍歴がはじまった。
一般に、紳士用の帽子には、ホンブルグなどの「固い」のと、フェドーラのように「柔らかい」(日本ではソフト帽という表現があるけれど)のがある。(どちらも、主にはビーバーフェルトを使い、質に従って、5Xとか、4XとかXの数が増える。)私は、「柔らかい」のは、パリで注文することにしていた。
パリの紳士用の帽子屋では、いまは、エルメスの傘下にはいっている「モッチ」と、ランバン(ランバン自身が、帽子屋を出自としているが、主には婦人帽で、紳士帽の方は「ジェロ」という店を傘下にしている。)が有名どころで、私は、ランバン=ジェロの方を贔屓にしていた。
(ジェロは、1835年に創業し、確か、元の店は、ル ド ラペにあったはずだ。パリを訪れたエドワード7世が、この店を気に入り、ロイヤルワラントを授けたことからも、この店の出自は分かる。60年代後半にランバンの傘下にはいったということだ。)
これには、二つほど訳があった。
ひとつは、「ジェロ」には、ステッチを縦横にめぐらした独特の帽子があって、コレが気に入っていたからだ。
これは、ブリムの幅や、形で数種のデザインがあり、素材も、防水加工をしたカシミアウールなど、様々な素材が用意されていた。(「旅支度」の項で、フィッテイングケースとともに写っているのが、愛用のひとつである。この帽子については、後で触れるとして、、)
モウひとつの、理由は、「ジェロ」を取り仕切っていたオバサンの存在だった。
私は、このオバサンとおしゃべりするのが愉しみで、この店に通っていたともいえる。
「ジェロ」は、フォーブルサントノーレのランバンの3階だったが、5階だったかのオーダーメイド専用のフロアにあった。
「ランバン」や「エルメス」、(買い取られる前の「ゴヤール」も)など、パリのスノッブな老舗は、大概、メゾンの上階に、特別注文をする奇特な客のためにサロンを用意していた。
当時のパリの、ある程度、老舗といえる店は、あのシャンゼリゼのヴイトンでさえ、先ずは、カウンターに座って、欲しい商品を店員に告げて、取り出してもらうというスタイルだった。(いまは当然のように思える、客が店を回遊して勝手に商品を品定めするというスタイルは、本当に稀だった。)
だから、ロンドンや、パリの老舗といわれる店で、買い物するのはメンドウだった。欲しいモノのイメージを、あらかじめ決めていかないと、質問攻めにあってツライところがある。既製品ならマダしも、注文するとなるとナオサラだった。
つまり言い換えれば、こういう店で「買い物」をするというのは、有閑階級の「優雅なヒマ潰し」だったということだ。
このフロアには、シャツやタイユールのコーナーもあって、エレベーターを降りると、すぐのところに、「ジェロ」の特徴的なブルーのハットボックスが並んでいた。
当時、このコーナーには、帽子の木型や、金型、型どりにつかわれるスチームなどがあって、ちょっとしたアトリエになっていた。そこを取り仕切っていたのが、40~50代ぐらいのオバサンで、この人が、素材や、スタイルの相談や、製作も担当していた。
このオバサンは、パリの店によくいるオーナータイプの「マダム」というのでなく、クチュールのお針子を思わせる職人サン、パリジェンヌの、ひとつの伝統といえる職業婦人だった。体型も、どちらかというとヤセ型で、いつも首元には、ネッカチーフを昔風に粋に巻いていた。
当時のランバンのオーダーサロンは、いまよりは、ズットのんびりした雰囲気で、奥にくつろげるように大きなソファがあった。右手には、シルクやコットンのシャツ生地が並び、左手には、スーツ用の生地がならんでいた。
私は、パリでは、タウンスーツはバーソロミューという腕の良い、小さなテーラーに頼んでいたが、タキシードやフォーマルはランバンに頼むことにしていた。ランバンのタイユールは、昔はテールコートに定評があって、あの薩摩次郎八が、ウインザー公をならって、パリの社交界では初のミッドナイトブルーのテイルを誂えたのもランバンだったということだ。
私が訪れるときには、いつも必ず、馴染みの男性店員が、出迎えにきてくれた。
ランバンでは、職人とセールスは区分されていて、お勘定とか、細かいことはセールスの担当で、いつもソバについていた。お勘定をするときは、セールスと一緒にキャッシャー(これも、また区別されていた)に行くか、常連になると口座を開いて、時折、キャッシャーが連絡をくれるということになっていた。そして、これは、どこの老舗もそうだったが、担当のセールスが出世して現場のセールスをはずれようが、一旦、担当した客には生涯、その担当者がつくという決まりになっていた。
このオバサンの言い回しには、独特なものがあった。それが、パリの下町言葉なのか、職人言葉なのか、オバサン独自のものなのかは、わからないが、それもチャーミングで、おもしろかった。
思うに、注文する「愉しみ」というのは、既製品と違って、その職人さんと「話す」というのも大きな要素だと思う。
それに、そのモノもそうだが、例えば、帽子の場合は、ソフトを被るとき、前の部分をヘシ曲げた方が粋だとか、ホンブルグは、どちらか片方の耳に端がつくように傾けるのが決まりだ、とか、そういう、「無駄」で、優雅なアドバイスを聞くのも愉しい。
オバサンが得意としていたのは、前述の帽子じゅうにステッチを施したスタイルで、これはジェロ独特のものだ。このスタイルで、ブリムのあるもの、無いものなどは、お好み次第で、この帽子用の素材スワッチも奥からいろいろ取り出してきてくれた。
私は、旅行の計画を思いつくと、出かけるときの服装に合わせて、このスタイルで新しい帽子を頼むことにしていた。
、、、ブルーとヘザーグリーンのツイードのスーツに合わせた、グリーンのツイード調のモノ、シルクカシミアのコートにあわせたビキューナ色の防水加工したカシミアウールのブリムの広いモノ、ホワイトフランネルのスーツに合わせた、同素材のスポーツタイプのものなど、、、。
帽子とオーデコロンを新調して、私は、列車に、飛行機に、車に乗り込んで、旅に出るのを愉しみにしていた。
「帽子」と「香水」は、旅の気分を浮き立たせてくれる、私にとっては不可欠な「友」だった。
このオバサンたちとの関係を、どう上手く伝えればいいのだろう、、、多分、売り手と買い手、注文主と作り手の幸福な関係がまだあった時代なのだと思う、、、私は、旅行の前にヒマをみつけては、フォーブルサントノーレまでブラブラ出掛けていった。大概、その前には、シャンゼリゼの「トラベラーズ」という美しい建物のクラブで、昼食を摂って、くつろいでから、近くの「クリード」で新しいオーデコロンについて、調合師と打ち合わせをして、(いまでは、どうか分からないが、クリードでは、主に、男物のオーデコロンを調合してくれていた。)或いは、キャロン通りの「ドミニク フランス」に寄って、アスコットタイやポケットチーフを頼んだりして、それで、タクシーを拾ってサントノーレまで行くことにしていた。
サントノーレのランバンにつくと、顔見知りの店員に挨拶されながら、店の奥のエレベーターに向かう。3階に着くと、「ジェロ」の一角でおばさんが待っていてくれる。挨拶やら、近況などやら言葉を交じ合わしていると、なじみの店員が「何か飲み物をおもちしましょうか」と声をかけてくれる。
私が頼み始めた当初は、3人のオバサンがいた。そして、何故か3人ともセーター姿で、首元には、申し合わせたように、ネッカチーフをしていた。
出されたお茶を飲みながら、オバサンたちと今度、旅行に出かける服装のことなどを話す。「ツイードのスーツなら、良いツイードがあるワ。イギリスのじゃなくて、リヨンの手織りで、シルクがはいっているヤツ。エレガントよ。」とか、私が、今度は少し浅めにして、ブリムも狭く、丸いトップの昔のフォーマル用みたいなのにしょうというと、「ノン、ノン、似合わないワヨ」とか、3人のオバサンがよってたかって、生地サンプルと帽子のサンプルをとりだしながら、注文は形を作っていく。
それから、世間話をしばらくして、3人交互にお別れのキスをして私は帰る、、、それは、どうということはないけれど、幸せな時間だった。帽子そのものは、何個かたまると、どうしても、もうひとつ必要だというものでもない。それでも、私は旅行の度に、ココへ帽子を頼みにくるのが楽しみだった。
それは、いまのデパートや小売業界の人が言う、お客様は神様で、質の高いサービスと信頼を、、、というのとは、多分、次元が違う。世界が別のところにあると思う。既製品の世の中になって、所詮、紙幣とモノの「交換」を基本とするかぎり、「交換」は「交換」であって、それ以上の世界は現れない。だから、我々は、やたらに選択の幅を求め、世の中にはモノが溢れ、もとより差別化のできない流通は、重箱の隅をつつくような「サービス」に迷い込んで疲弊する。
多分、私が「買い物」に求めているのは、オバサンたちがつくってくれたシンプルな「世界」なのだ。
そこには、幸福な関係というのがあって、おおげさに言えば、人生に必要なチョットした楽しみというのがあるように思う。基本となるのは、お互いの愛情であって、それさえわかっていれば「交換」では味わえない大人の男としての経験を積み重ねることができる。自分自身を振り返ってみても、あの時代にそれを味わえたのはラッキーだったし、その経験は、確実に栄養になっていると実感する。
こう考えていくと、何故、自分がいま買い物不精なのかヨク分かる。
社会情勢もあるのだろうけれど、良いパーソナルショップが少なくなったのは、愛情のある顧客と、愛情のある職人が減っていったのがソノ大きな理由なのだと思う。
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「日々の愉しみ」 2.旅支度
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2006-07-03T02:40:00+09:00
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2006-07-03T02:35:53+09:00
rikughi
2.旅支度
「1958年の麗しき秋の或る日、ブローニュの森のウインザー公の館では、その忠実な従僕であるシドニーが、恒例のニューヨーク旅行に備えて、モンブランの山の如く積まれた公のシャツと格闘していた。
テーブルの脇には、テイッシュペーパーの、コレもマッターホルンほどある山ができあがっていた、、、このテイッシュペーパーは、型崩れしないよう、公のスーツはもちろんのこと、ズボンにも詰め込まれる。テイッシュを飲み込んだスーツの幾つかは、既に、主の体そのままに、、、というよりは、河岸に水上げされたマグロの如くにスーツケースの中に横たわっていた。
スーツケース、、、この旅行のために持参すべきゴヤールやウ”イトン製のシャツケース、ハットケース、シューズケースなど、、、それは、優に27個を超えていた。
スーツケース、、、その27個と、その中身を思って、シドニーは、思わず天を仰いだ。」
(百歳堂敬白)
さて、質問です。あなたが、ビアリッツに1週間、滞在するとして、何着の着替えを、お持ちになりますか?
或いは、チョット贅沢をして、1ヶ月、ならば?
ウ~ン、気軽な外出着として、リゾート用の替えズボンを3~4本、半袖と、夜、冷えるかもしれないから長袖のサマーセータ、それに合わせるアスコットタイと、昼には、便利なネイビーのブレザーか、気分を浮き立たせてくれるパウダーブルーのトロピカルウーステッドのジャケット、デイナーの時には、エレガントなスーツがあったほうが、レストラン(、、、とくに、スノッブなリゾート地のスノッブなレストランの、マトモといえるウエイターたちは、 自分達のプロフェッシェナルなサービスを理解してくれる昔ながらのエレガントな客を、それに見合うチップとともに待ち望んでいるのだ。)での扱いが愉しいし、、、瞬く間に、我がトランクは鯨のように膨れ上がっていく。
私のトランクは、どうして、ソンナに膨れ上がってしまうのか?
この半世紀を振り返ってみると、私が旅に費やした時間は、相当なものだと思う。(ホントに、私は、自分の職業を問われれば「旅行家」と答えるのが正しいと、真面目に思っている。)
その経験値から計れば、私はプロフェッショナルなはずだが、荷づくろいの方は、世間一般でいう「旅慣れた気軽なもの」からは、いつも縁遠い。
証拠物件 その壱 「鰐皮のフィッテイング ケース」
この中には、マニキュアセット、、、ボタンアップブーツを履く際に使う象牙の柄のついたフック、、、化粧品を入れるスターリングシルバーのトップがついたガラス製のボトルジャー各種、、、整髪用のブラシ2個(髪を整える際には、昔風にブラシを2個使うのが好み)、、、カフスボタンと、タイタックをいれておく鰐皮の小さな箱(これは、旅先では、外出から戻った際に、コインや名刺などをいれておく「忘れな箱」としても重宝する。)、、、極め付きは、歯ブラシをいれておく、やはりシルバーのトップがついた長細いガラス製のジャー、(濡れた歯ブラシをいれておくには、これが一番、衛生的だし、ビニール製の袋とかはイヤなのだ。)、、、全く、どれも無駄といえば無駄なものだ。
しかし、私の日常では、ドレモ必要なもの、トイウカ、あるベキものであり、手を伸ばせば、ソコにあって当然のものなのだ。
私は、この紳士用のフィッテイングケースを幾つも持っている。30年代のエルメス製のものや、昔の英国のものなど、どれも買ったわけではなく、我が家にあったもので、(残念ながら、今時、こういうモノで、マトモなものは売っていない) 私は、コレらを美しいと思っている。 「旅の道具」の中でも、少しノスタルジックだが、贅沢さと、美しさを感じる。それが、私の望んでいる「旅の時間」なのだ。
「旅の時間」、、、それが、どうあって欲しいかで、携えるものも違ってくると思う。
「旅の時間」、、、私は、それは、贅沢で、美しくあって欲しいと思っている。
つけ加えれば、いまの私の場合、それに少し「ノスタルジー」が混ざる。昔、足繁く、かよったレストランやカフェ、ナイトクラブ、二人で歩いた通りを、もう一度、見ておきたいという衝動にかられる。人生も、半ばを過ぎてしまったので、そんな甘ったるいノスタルジーを、もう、許してやっても良いと感じ始めた。 昔日への郷愁と、新しい出会いとが混在した「時間」、、、
この、特別な「時間」のために、私は支度を整え始める。
証拠物件 その弐 「ドレッシングガウンとモロッコ革の室内履き」
今どき、ドレッシングガウンを旅に持参する人も珍しいし、フィッテイングケースと同じく、男の装いの歴史の中では、忘れ去られたアイテムといえる。
しかし、私は、コレは男の暮らしの中で、案外に、便利で、楽しいものだと愛用している。
例えば、、、あなたは、或る朝、ホテルの部屋で目覚める。
昨夜は、夜通しドンチャン騒ぎだったので、まだ、着替える気力も、シャワーにはいる気もしない。しかし、冷たい絞りたてのオレンジジュースと、濃いカフェを何杯か、そして焼きたてのクロワッサンは、目覚めのために、先ず、必要だ。
そうしたとき、ドレッシングガウンさえ羽織っておけば、パジャマのままでも、なんとか格好がつくことになっている。朝食を運んできたメイドは、だらしない遊び人だが、エレガントではあると評価してくれることだろう。
それに、コレに限っては、目が回るようなペイズリー柄の絹で仕立てようが、大げさなパイピングや、カーテンみたいな房をあしらおうが、派手で豪華であることを許されているのだ。これは、男のワードローブのなかでは、カントリーツイードとドレッシングガウンのみが許された特権だ。
モロッコ革の室内履きは、20年近く前に、マラケシュの古風な仕立て屋で誂えたもので、擦り傷が一杯ついているが、いっこうにヘタらない。一時は、ウイーンで、ネイビーとワイン色のガルーシャ(エイ皮)をシンプルなスりップオンに仕立てて、室内履きに兼用していたけれど、結局、モロッコ革の方がガウンにはスンナリ合うし、履くのに靴ベラもいらずラクなので、いまだに愛用している。着替えるマデは、これでないと、調子がクルうのだ。
世界中を、行ったり来たりしている間に覚えたことは、どこで目覚めようが、自分のスタイルを楽しむことが大切で、結局、その方が心地良いというコトだ。
ところで、ソモソモ、人は、どうして、ソンナに「旅」に魅かれるのか?安楽な「我が家」から、どうして、ソンナニ旅立ちたいと思うのか?
思うに、人が捉える「時間」の充足度というのは、環境の変化、経験の変化、という風に変化の要素が重なるほどに(良い意味にしろ、悪い意味にしろ)、高まっていく、、、「旅」は、擬似的に、それを呼び起こす、手軽なドラッグなのだ。
だから、古の有閑階級は、「退屈」を逃れるために、しばしば旅に出た。(それは、何かを目的とした「旅」ではなく、ある意味、純粋な、「旅」のための「旅」だった。)
中毒が過ぎると、私の叔父貴のように旅に果てる者もでてくる。そこまでいかなくとも、芭蕉や、ランボオならずとも、旅に「新しい自分」を見出したいと、出掛ける者は、古今東西、いまも枚挙の暇がないだろう。
「新しい自分」、ちょっとした「刺激」、、、人は、「現実」に疲弊しながらも、いつも「何か」を捜し求めている。
「何か」を期待して、人は旅に出る。
我が家の納戸に眠る、家族が残した「旅の記憶」、、、異国のホテルのシールや、荷札がついたトランクやらバニテイーケース、勿体ぶった革張りの手帳や、アドレスブック、、、それらを見るたびに、彼らの持病のカルテを覗き見しているヨウな気がしてしまう。彼らは、何を期待したのか?
、、、1935年の4月、祖父はシャンゼリゼ通りにあった、仕立て屋「クニーシェ」のパリ支店で買い物をしている。、、同じ年の10月、祖母は、競馬で掛け金を失っている。、、1978年の7月、私は、ニューヨークの「ワン フィフス」というスノッブなオムレツ屋で、友人と日曜日のブランチを摂っている、、、そのレストランは、アールデコ風の豪華客船の船室を模して内装されていた、、、あの頃のニューヨークは、まだ治安が悪くて、それよりも道路の舗装が悪いのに閉口したとある、、、そう言えば、あの時、友人に強く勧められて、街歩き用にスニーカーを買ったハズだ、スポーツ以外にスニーカーを履く習慣が、まだなく、選ぶのに苦労した、、結局、いちばん、革靴に近いと思ったベルギー製のブルーのスエードのプーマを買ったハズだ、、、私は、こうした旅から、何を得たのだろう?
、、、多分、それは、美しいけれど瞬間的で、それ自体には意味のない記憶の断片だと思う。
それは、、、ビアリッツの、思いのほか、荒々しく押し寄せてくる波とか、何もすることが思いつかないバーデンバーデンの午後とか、冬のドーウ”イルの砂浜で、海風に乱された髪をかきあげる彼女の指先の真っ赤なマニュキアとか、、、そういったもので、ただ、それが、モザイクのように合わさって、今の私の精神をつくっている様な気がする。
「精神」、、、という言葉で、思い出すのは、我が叔父貴のことで、私は、この叔父から「旅の愉しみ方」を教わった。
叔父は、家族や親戚から「アイツも道楽が過ぎなければ、ひとかどの人物になれただろうに、、」と、いわれつづけた人だった。
結局、叔父は社会的に評価される職業には、生涯つかなかったと思う。私は、まだ子供だったので、叔父の実状は、よくわからなかったが、気軽に長旅にでかけていたり、そうかと思うと、突然、洒落た異国の手土産を携えて、「ご無沙汰。」と、我が家を訪れたりしていた。
叔父は、子供の眼から見ても、他の大人と比べて、「変わって」いて、それが、私には魅力的に映った。叔父も、私を可愛がってくれて、家に来る度に、キャッチボールや、トランプゲームにつきあってくれた。(将棋や、碁や、チェスを本格的に教えてくれたのも、この叔父だったし、一度は、土産にミニチュアのルーレットなど、なかなか本格的なギャンブルセットをくれて、ギャンブルの心構えと、粋なやり方を子供相手に伝授しようとした。)それをしながら、異国の言葉や、夕日や、海や、食べ物や、様々なことを、面白おかしく教えてくれた、、、
あの時、子供をもたない叔父は、意識したかどうかは分からないが、言葉でもって、何らかの自分の遺伝子を、私に残そうとしたのかも知れない、、、。
叔父が教えてくれた、旅の極意というのは、例えば、
「人は旅先に着いてから、楽しもうとするが、道中を楽しめなければ旅ではない。」というものだった。
叔父は、確かに「移動する」のに、金をかけていたし、楽しもうとしていた。単に最上等のクラスに乗るだけではなく、例えばパリに行くにしても、いくつものルートを考えて、寄り道していくのに凝り始めた。一時は、砂漠をバイクで横断して、パリに入るという計画も考えたようで、しかし、それは、誰かに先を越されたということで、アキラメタということだった。
(私は、この「叔父の先を越した」人と、後年、成人してから偶然にも知り合っている。この方は、元新聞社の女流カメラマンで、その後、パリに住み着いていた。砂漠を横断するぐらいだから、やはり、一種の女傑で、人を見る眼は厳しいが、人情厚く、フランスを訪れた様々な日本人<その中には有名な人もいる>がお世話になっていると思う。
この方が、好きで集めた絵画のコレクションも見せてもらったが、藤田のドローイングをはじめ有名作家のものから、韓国の新進画家まで入り混じったソレは、独特だが、ある種の審美眼を感じさせた。
そのコレクションの中の、恋人を描いた、藤田のドローイングは、話によると、ちょうど藤田が、その恋人に裏切られたか、別れた時のもので、恋人の片方の黒眼のところが、煙草の火を押し付けられ、焦げて、穴があいているという、チョット怖いモノだった、、、)
叔父の口癖は、「一番大事なのは、ソイツの精神で、人の違いはソコにある。精神を除けば、後は脂肪と水分で皆、同じようなものだ。」(その割には、美人をコヨナク愛したが、、、)というものだった。「精神も植木と同じで、水を遣り、良い養分を与えなければ育たない。」、だから「精神上、良くない職業」にはつかズ、金を稼ぐよりは、使い果たすことに専念した、、、。
理屈としては、興味深く、同意もしようが、コレデは、家族は納得し難いのは当たり前で、変人扱いされるのも無理がない。それでも、叔父は自分の「精神」というものに拘った。
叔父が、理想とした「精神」というものが、どのようなものだったのかは、私には、分かるようで、分からない、とうのが正直なトコロで、ソコまで「精神」を追い求めた叔父が、何故、「旅する」ことに一生を費やしたのかも、分かるようで、現実感を超えている。
結局、叔父は旅の果てに住みついた異国で亡くなり、私の手元には、黒い革表紙のアドレスブックが、形見として残った。その中表紙には、達筆ではあるが、鉛筆の走り書きで、敏行の歌が記されていた。
老いぬとてなどかわが身をせめぎけむ老いずは今日に逢はましものか
(、、、歳老いていく自分を、何故、嘆くことがあろうか、歳を経て来なければ、今日という「一日」にめぐり逢わなかったのだから、、、)
「旅」の成分には、何か分けの分からないモノがあって、それは肉体とか、「スケジュール」とか、ハッキリとした形のアルものとは別に、確かに精神に「水を遣る」ようなモノが潜んでいると思う、、、
、、、さて、山と為す旅の荷物に悲嘆にくれていたシドニーは、思いあまって、公爵夫人に進言した、
「ハイネス、我々は毎年、ニューヨークにでかけるのですから、向こうで必要な服は、いっそ、ニューヨークの家に保管しておいたらいかがでしょうか?」
公爵夫人は、答えて曰く、
「シドニー! どうして、いままで、ソレに気づかなかったのかしら!」
、、、こうして、シドニーは27個のトランクから開放され、後年、ウインザー公の遺品を集めたサザビーズのオークションでは、手のひらにのるぐらいのアルミ製の釣り針ケースが5~6個、出品された。それには、整理された、色とりどりのスーツの生地スワッチ(それらは、約5センチ四方に切られ、厚紙に貼られていた)が、お行儀よく詰め込まれていた。
そして、そのケースには、それぞれ、「ニューヨーク」、「la Croe」(公の南仏の家の名前)、「The Mill」(公のカントリーハウス)と、スーツのおいてある場所の名が、記されていた。
ちはやぶる神世もきかず龍田河唐紅に水くくるとは、、、
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「日々の愉しみ」 1.シャツとネクタイ
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2006-05-28T01:31:00+09:00
2009-05-08T01:52:29+09:00
2006-05-28T01:31:55+09:00
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1.シャツとネクタイ
「昔々、百戦錬磨の女友達がノタマッタ、、、シャツとタイの着こなしを見れば、大概、その男の質は分かるワネ、、、フ~ン、そういうものか、、、。」
(百歳堂敬白)
ネクタイ如きで、男の質を問われても困ってしまうが、極く、昔風の英国流儀でいえば、スーツは「完璧」に着こなさなければならない、、、コトになっている。
この「完璧」というのが誤解を招きやすいのだが、それにしても、私が、街で見かける限り、多くの人のスーツの胸元は、「ジミすぎる」か、「オモシロすぎる」ように思える。
言い換えれば、古今東西を通じて、「ジミすぎ」ズ、しかし、こちらの意図があからさまに映るほど「目立ちすぎ」ナイ、、、これが、男のタダシい姿だと思う。
ジミすぎるのは貧相にみえる。しかし、お洒落をしていますという意図が、人にわかりすぎるのも品がない。
「意図」がわからない程度に、だが、巧妙に仕組まれていて、チャームがあって、本人の品格もあげてくれる装い、、、ソウありたいモノだが、これは、男の熟成度や趣味の良さ、育ちというものを背景として生まれる。
残念ながら、そう簡単には身についてくれないのだ。
それで、バックグラウンドをもたない当方としては、高価なものでも身につけておけば、ナントかなるだろうと思いがちだが、
セブンフォールドの20オンスのタイとか、200双のシャツとか、ソウいうことは、店の人が考えることであって、それを、ただ身につけたからといって、エレガントにはなれない。所詮、タイやシャツが目立つぐらいで、本質には結びついていかない。
シャツやタイは、モノではあるが、モノを見せるのが男の装いではないということだ。 第一、肝心の本人よりも、タイの方が評判が良くて、中身よりも高価にみえるのではオモシロクないではナイカ。「着こなし」というのは、あくまで、中身の貴方が評価されなければならない。
、、、さて、困った、、、
しかし、多くの事が歴史から学び取れるように、近代的なラウンジスーツの発明以来、少なくとも100年はたっているはずだから、そこには紳士たちの冒険と挑戦の記録とともに、ノウハウは蓄積されているハズだ。
先ず、シャツとタイの組み合わせ、、、
或る週末、私は、ヨークシャの緑に囲まれたお宅に、お世話になっていた。私は、どこでも寝坊なので、遅い朝食を摂りにモーニングルームに出向いた時には、既に友人たちは、朝の散策に出掛けてしまった後だった。
大きく開かれた窓の外には、5月の陽光が輝いていたが、部屋の中は、どこか、夏の木陰のようにヒッソリとしていて、
出遅れた私と、給仕をつきあってくれるバレット氏(主人の身の回りの世話をする召使、服の管理を任されている。いまや、絶滅の危機に瀕している、或いは、ほとんど絶滅してしまった種族といえる。)の二人っきりだった。
巷の「予定(=スケジュール)」から取り残された「無為な時間」ほど、リラックスできて、貴重なものはナイ、、、ト思う。ダカラ、私はイツモ、寝坊することにして、午前中は自分のモノにしている、、、というのは単なるモノグサの言い訳か、、、
しかし、おかげさまで、このときも、文字通リタップリとした英国式朝食(英国の田舎屋でグルマン的関心を満たしてくれるのは、コノ朝食と、もし、幸運ならば、年代モノのポルトワインだけと思った方が良い)を、友人の話への相槌に気をつかうこともなく堪能できた、、、
ソレはさておき、私は、手持ち無沙汰もあって、興味半分に、バレット氏に、日々の「職務」について質問した。なにしろ、サビルロー辺りの古のテーラーとともに、「バレット」といえば、英国が誇る、服の「番人」の双璧ではないか。
「いったい、シャツとタイの組み合わせに法則というのはあるやなしや?」(ダンデイとして評判の当家の主のシャツとタイは、実は、このバレット氏が日々、都合をつけているということだった。) 彼、曰く
「なに、簡単でございます。格子のシャツには、ストライプか、無地のタイを、ストライプのシャツには格子のタイか、無地、もしくはストライプのタイを、無地のシャツには、ストライプでも格子でも、柄物のタイを合わせるコトです。」
、、、いかにも、職業的な明快さである。 ただ、不思議に、このバレット氏は、水玉のタイには触れなかった、、、
ごく、個人的な趣味で言えば、ストライプのシャツに水玉のタイを合わせる人もいるが、アレは、少し「意図」が見えすぎていて、好みではない。
ピンドットぐらいの細かい水玉が点在したタイを、ストライプの間隔の広いシャツにあわせるというのは悪くはないと思うのだが、ストライプとドットの組み合わせは、グラフィックすぎて、あまり奥行きを感じさせない。
同様に、チョークなどのストライプのスーツに、ドットのタイを合わせるのも、何か「深味」を感じさせない。ドットのタイは、無地のスーツに合わせたときにこそ、スノッブな輝きを持つように思う。
例外があるにせよ、タイとシャツの柄あわせは、よほどの冒険好きでない限り、バレット氏が指摘するような程度でコト足りる。
ちなみに、かつての紳士の朝の身づくろいというのは、この気心のしれた忠実なバレットに、手厚く、手助けされながら行うものだった。
バレットは、シャツのアイロン、靴のひかり具合、背広のブラッシングなどは、もちろんのコト、主人のファッション的な冒険心を理解しつつも、いささか度を越したチャレンジには、控えめに「およしになった方が、、」と指摘もしたことだろう。
つまり、家を一歩出る前に、その着こなしが、エレガントか、主人にふさわしいものかという、第3者のフィルターがあったということだ。十分、身づくろいに時間もかけられた。だから、紳士は紳士たる装いが、日々まっとうできた。
そういうシステムだったのだ。
「グラマラス」と「シンプル」
さて、無地のスーツに無地のシャツ、無地のタイという組み合わせが、最も 「シンプル」 とすると、柄のスーツに柄のシャツ、柄物のタイというのが、最も 「グラマラス」 ということになる。
同様に、ブルーの背広に、白いシャツ、ブルーのタイという、同系色の組み合わせが 「シンプル」 とすると、ブルーのスーツに、エンジのシャツ、ゴールドのタイという風に、色を重ねていくのが 「グラマラス」 ということになる。
簡単に言えば、この「シンプル」と「グラマラス」の間で、
1.いかに、その人らしい「奥行き」を作って、(「奥行き」というのは、例えば、単純なストライプのタイではなく、地紋のある「ストライプ風」のタイにするとか、、、マア、その程度のヒネリといえる。)
2.「魅力的な」 (チャームのある)装いをするかということである。
コツは、昼の装いは、少し「グラマラス」な方がまとめやすく、夕べの装いは、いかに「シンプル」さのなかで奥行きをつくるかということにある。
上の2葉のイラストを見てみよう。どちらも、男の定番といえる、クラッシックなものだ。
3ボタンのライトグレーのスーツの彼は、淡いブルーに白い襟のクレリック、濃い紺地のストライプタイという組み合わせ。なかなか上品で、チャームもある。
ここでのポイントは、ブルーの無地のシャツではなく、クレリックを合わせている所で、これが「奥行き」を作っている。それも、クレリックの濃淡の差がないのが良い。淡いブルーと白襟、薄いグレーと白襟のクレリックシャツに、色の濃いタイというのはなかなか上品な組み合わせだと思う。
濃紺のダブルヴレスッテドの彼は、もう少しグラマラスだ。ブルーグレー地に、濃紺のストライプが入ったクレリックに、スーツよりも濃い目の、飛び柄のタイという組み合わせ。端に、格子模様が入ったポケットチーフなど、いかにも30年代の「良き着こなし」の、好例だ。
ここでもクレリックが、組み合わされているが、地色の濃いストライプをクレリックにすることで、適度な「抜け」がある。小さめのクラッシックな襟も、「やりすぎ」になることを、微妙に抑えている。
この、濃い目の地色にストライプというクレリックシャツは、意外に組み合わせがきいて、かつチョット、ヒネリがある装いになる。魅力的だが、そのままシャツに仕立てるには、強すぎるかナと思われるストライプは、クラッシックな襟のクレリックに仕立てることを、お薦めする。こういうシャツを、2,3枚もっていると、着こなしも楽しくなるだろう。
この、2葉のイラストが、どちらも70年以上前の着こなしであることを思えば、男の装いというのが、どのようなものかは容易に察しがつく。
「着こなしと、奥行き」
「スーツ姿が板についてきた」という言葉がある。本来、そのためには年季というのが、モチロン必要なのだが、スーツの着こなしの上手い人をみていると、ある種のコツがあるように思う。
これが、いわゆる「着こなしの奥行き」というもので、
先ず、初歩的な気の使い方としては、
その壱 「単純明快過ぎる図形の組み合わせは避ける。」 ということだ。
つまり、ストライプのシャツに、明快すぎるストライプのタイをあわせてしまったのでは、意図が見え過ぎて、着こなしが薄っぺらに映る。
この場合、単純なストライプではなく、ストライプ風にみえる柄物のタイ、もしくは飛び柄、或いは地紋や、色が織り込まれた無地のタイをあわせると奥行きがでる。
逆に、明快なストライプのタイを合わせたいときは、シャツを、趣き深い綾織、或いはシャドーストライプ(無地のドビーパターンも案外にイケル)にする、という具合。
これに、ポケットチーフを(チーフの色は、タイではなく、シャツに合わせるのが原則だ。だから、白い襟のクレリックには、白無地のチーフが、最も素直に映る。)無地にするところを、柄物にすると、より着こなしが趣き深くなる。
例えば、上のイラストのシャツとタイ、チーフの組み合わせは、ストライプのシャツに紺地に飛び柄のタイ(いささか、柄のパターンがモダンすぎるきらいがあるが、、)の組み合わせ。
これだけだと、程の良さはあるが、少し素直すぎるところを、格子模様のチーフをあわせることで奥行きをつけている。
この場合、タイをいじらずに、チーフで変化をつけているのが正解で、実際、スーツにあわせた場合を思い浮かべれば、この程度で十分といえる。
大人の着こなしとしては、気をつけるべきは、「ヒネリ」すぎて、ソレが見えすぎないことだ。「程の良さ」、時には、ワザと「ハズす」余裕が肝要で、あくまで、身についたエレガンスを表現しなければならない。
マア、実際、一度、スーツを着てしまえば、自分がどんなモノを身に着けているかは、忘れてしまった方が良い。マタ、忘れてしま得るには、「完璧」な組み合わせでなければ適わない。
もうひとつのコツは、、、これはいかにもヒネクレて聞こえるが、
その弐 「一度、決めた組み合わせは変えない。」ということだ。
これは、誤解を生みやすく、上手には説明し難い。ただ、それなりの紳士ならば、いまでもソウしていると思う。
とりあえず、スーツを新調したら、それに合わせて、シャツとタイ、ポケットチーフ、できれば靴も用意するベキである。
逆に、例えば、黒いオックスフォードしか、持ち合わせがなければ、チャコールグレイ、或いは黒地(ストライプが入っていようが、無地だろうがかまわない)のスーツ以外は頼むベキではナイ。
それが、一番、黒のオックスフォードを素直に、美しく見せる組み合わせだからだ。(私の好みは、英国の60年代風に仕立てられた、フラノの黒地にオフホワイトのチョークだ。)
こうして「完璧」に用意された、一揃いは、クローゼットのハンガーレールに、スーツ、シャツ、タイと合わせて吊り下げ、そして、できれば、その足元には、マッチさせた靴と靴下も一緒に置いておこう。こうすれば、朝、着替えるのに、いちいち取り出す手間もない。
身づくろいには、時間をかけるべきだが、毎朝、シャツとタイの組み合わせに迷うのは男子のすべきことではないと思う。身づくろいとは、丁寧に髯を剃り、髪を整え、背広にブラシをあて、タイを優雅に結ぶ、そのようなことである。
こうして、決められた一揃いを身に着けていくうちに、シャツの襟の芯地は、ほどよく馴染み、チーフの見せ加減も分かってくる。10年もたてば、そろそろシャツの襟も変えどきかもしれない。不思議に、同じ一揃いでも、年数とともに着こなしの印象は変ってくるものだ。
そして、長年の間には、あなたは、旅先でフラリと入った店で、「偶然」にも、ピタリと合う靴下を見つけるかも知れない。(モチロン、「偶然」というのが正しく、探し回ってはイケナイ。)或いは、数年経った或る日、タイはもう少し暗い方が良いナ、と気づくかもしれない。
それらは、パズルの失われていたピースのように、あなたの装いに、ピタリと嵌め込まれていく。
ナゼ、地味スギズ、目立ちスギナイことが必要かというと、長年、着続けるためには、そういうものしか適わないからだ。
あなたに、会ったときは、素敵にエレガントなので感心するが、あまりに自然な着こなしなので、別れたあと、どんなタイをしていたかはハッキリ思い出すことができない。そうありたいものだ。スーツもそうだが、「完璧」といわれるものは、一見、自然に映る。
「ファッション」の新しいアイデアも貴重だが、男の装いは、ゆっくりと時間をかけて完成されるものだ。つまり、その人の、「良い時の流れ」が、着こなしに「奥行き」をつくる。
男の装いは、バタバタしていてはいけない。いかに、分刻みの仕事のスケジュールをこなしていても、姿は、それとは別の次元の時間が流れていなければ、エレガント、優雅な男とはいえない。
ゆっくりと時間をかけて、くり広げられる「生活」、、、
「モノ」の形容詞としての「エレガント」や「優雅さ」が濫用される反面、本当にエレガントな男が少なくなったのは、金ではなくて、そういう「生活」を軽んじる男が増えたからだと思う。
、、、ソウ考えれば、冒頭の女史の言葉もアナがち、、、恐るべし、女性の六感。
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「大人の お伽噺」 3 プレイボーイ その2
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2006-05-06T09:18:00+09:00
2008-07-19T13:22:12+09:00
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4.プレイボーイ その2
1953年、冬のマンハッタン。
ルビは、トルフィーヨ将軍とともに、プラザホテルに滞在していた。ちょうど、その時、ハンガリー生まれの美人女優、ザ・ザ・ガボール(正確には、ジャ・ジャ・ガボール、ジャ・ジャは、英語名ではSUSANにあたるニックネーム)も、ニューヨークでの最新作のプレミアに出席するためプラザに泊まっていた。
プラザが、「プラザ」としての威厳を、まだ保っていた時代だ。
ザ ザは、ミルク色の肌とブロンドの、ミス・ハンガリーにも選ばれた(ちなみに、本当は、選ばれたのは彼女の姉だったという説もある)ゴージャスな美人だった。ザ ザも、息長く銀幕で活躍したが、ダニエル・ダリューと違って、出演作はB級娯楽映画が多く、女優としての才能よりも、その華やかな交友と、豪華な暮らしぶりで有名だった。(ザ ザは、パリス・ヒルトンの曽祖父、ヒルトンホテルの創始者、コンラッド・ヒルトンをはじめ、生涯、9度、結婚している。ちなみに、ウワサではザ ザの伝記テレビ映画の企画がすすめられており、その主役、すなわちザ ザ ・ガボール役にパリス・ヒルトンがオファーされているという。)
ルビが、ザ ザとはじめて出会ったのは、プラザのエレベーターに、偶然乗り合わせたときだった。ザ ザは、ミンクのコートを着て、2匹のプードルを引き連れていた。
ザ ザとルビは、似た者同士だったのかもしれない。<「人生は神様が与えてくれた享楽の果実」、、、人生を楽しむことにかけては、二人ともエリートだった。>二人を結び付けるには、ルビが送った部屋一杯の最上の赤い薔薇だけで充分だった。それは、ルビの本名=ルビ ローザ(スペイン語で赤い薔薇)にちなんでいた。
ルビは、赤い薔薇で彼女の部屋を満たした翌日、ザザの隣の部屋に移った。そして、部屋と部屋とをつなぐドアを静かにノックした。ドアは、もちろん、ザ ザの微笑みとともに開いた。
ザ ザにつれられて、ルビの交友範囲は、フランク・シナトラ、サミー・デイビスJR、エバ・ガードナー、キム・ノバックという綺羅星のようなハリウッドスターまでにも広がる。事実、サミー・デイビスJRの自伝には、パリを訪れたときの思い出としてルビとの交友が描かれている。
ルビは、ジェットセットのハシリだった。その交友も、いまや、アガ・カーンから各国の社交界、ハリウッド・スター、JFケネデイまでも含まれていた。
ルビの外交官生活は、常にラブスキャダルと表裏一体だった。1953年、有名なレイモンド タバコの相続人、リチャードがその妻を密通の罪で訴え、裁判沙汰になったのも、妻があまりに、ルビに夢中になりすぎたせいだし、著名な英国人ゴルファー、ロバート・スイニーの妻、ジョアンも同様だった。この、「事件」には、新聞もルビを名指しで非難した。
さすがのトルフィーヨ将軍も、あまりのスキャンダルの広がりに、ルビを一時、公的活動から身を引かせ、更迭せざるを得なかった。それでも、ルビの「愛の冒険」はとどまるところを知らなかった。
いったい、56年という短い生涯に、何人の愛人たちがルビの人生に登場したのだろう。ウワサでは、アルゼンチン大使時代には、あのエビータ・ペロンとも、ハリウッドでは、マリリン・モンローとも関係があったといわれている。
ザ ザとのロマンスは、マスコミの格好の話題となり、スキャンダラスなケンカ沙汰や(有名なブラックアイ事件、内輪ゲンカの末、ザ ザが、ルビの背中をついた際、「つい」ルビは、右フックをザ ザの右眼にくらわした。結果、ザ ザの右目は見るも無残な黒アザとなった。ザ ザは、黒革の眼帯をして記者たちの前に現れ、それでも彼女は、「男が女を殴るのは、深く愛している証拠ヨ」とウソぶいた。)、ニースやドーウ”イル、サンモリッツに、二人が現れる度に、写真とともに大きく報道された。
しかし、結局、二人の恋は、結婚には至らなかった。
ザ ザとのロマンスが破局に終わったことをゴッシプ欄好きな人々が知る頃、ルビは突然、4度目の結婚を発表する。相手は、大富豪ウールワース家の相続人、ニューヨークの億万長者、バーバラ・ハットンだった。
1953年、12月30日、バーバラとの結婚式が、ニューヨークのドミニカ領事館で執り行われた。一旦は、アルゼンチン大使というポジションを取り上げたトルフィーヨ将軍だったが、このアメリカ一の大富豪との縁組にはご満悦だったのか、ルビに再度、パリ領事館への勤務を命ずる。
しかし、ルビにとってバーバラとの結婚生活は、当初からしっくりとくるものではなかった。理由は、虚弱なバーバラの持病と、辛抱のなさだった。挙式後、二人は、陽光溢れるフロリダ、パームビーチのマハラジャが所有していた豪華な館に居を落ち着けるが、バーバラは、日焼けを嫌って、部屋に閉じこもり切りだった。
これでは、人生をエンジョイしようとするルビに合うハズがない。
また、一方では、ウワサによると、バーバラとのハネムーンの旅先で、ルビはザ ザと「再会」し、バーバラとの結婚中も、ザ ザと密会するため、自家用飛行機でフェニックスまで通っていたともいわれている。バーバラとの離婚は、ザ ザとホテルで、ビーチハウスで、あるいは山小屋でと、さんざ、密会を重ねたあげくのことで、”バーバラがアマリニ「非活動的」だったから”というのは、自身を正当化させるためだと非難されもした。
結局、バーバラとの結婚生活は、3ヶ月と持たなかった。そして、ルビの手元には、5頭のポロ競技用の馬と、もう一台の自家用飛行機、「ラ・バランカ」と名づけられたドミニカの広大な農園、それに300万ドル以上にものぼる慰謝料が短い結婚の代償として残った。
その後、ルビは、しばらくザ ザとヨリを戻している。不思議なことに、ルビと関係のあった女性たちは、その後も、ルビと再会するのを楽しみにしていた。誰もルビの悪口を言う者はいなかった。
1956年、ルビは5度目の結婚をロンシャンで行う。今度の花嫁は、うら若きフランス女優、オデール・ロダン。彼女は19歳だった。当時、ルビは47歳、実にふた周り以上の年齢差だった。
オデールは、ブルネットの清楚な美人で、歳の割には、落ち着いた賢明さを備えた女性だった。オデールは、献身的な愛をルビに捧げ、新妻の要望もあり、二人は静かで端正な、フランスの田舎町、マルネ ラ コケットに家を買い、より「シンプル」な生活を送り始める。それでも、ルビはポロ競技と、フェラーリを駆ってのオートレースだけは楽しみ続けた。
1958年、トルフィーヨ将軍は、ルビにキューバ、ハバナ大使を命ずる。当時、キューバは、バチスタ将軍政権と、カストロが率いる反乱ゲリラとの2大勢力が拮抗する、まさに一触即発の時代だった。
ルビがハバナに赴任したとき、ルビのもうひとつの「金のかかる趣味」=カーレースのパートナーでもある、アルゼンチンのチャンピオンレーサー、ホアン・マニュエルがキューバーレースに参戦していた。そうした嬉しい偶然もあったが、プレイボーイ外交官、ルビの赴任は、キューバにとって時期的に好ましいものではなかった。1958年には、ルビはキューバーを後にしなければならなかった。パリにオデールとともに戻った後、ルビはベルギー公使に任命されている。
いったい、独裁者トルフィーヨ将軍のもと、ルビの「外交官」としての仕事は、どの程度のものだったのか。史実としては、華々しい「愛の冒険」の一方で、1935年には、ルビのいとこにあたるルイス・デ ラ ルビローザが、ドミニカから追放された政治家 セルジオ・バンコスムを暗殺したかどで、ニューヨークで起訴された際、ルビとの繋がりを取り沙汰されている。
また、1956年にも、合衆国へ亡命していたコロンビア大学のバスコ・デ・ガルデズ博士の失踪(政治的な理由から暗殺されたといわれている)にも、その関与が取り沙汰された。
どちらも、ルビはその関与について否定している。
ただ、言えることは、ルビは、自分に名誉と金を与えてくれるトルフィーヨ政権の維持には忠実だったと言うことだ。
1960年に、米州機構(O.A.S.)がトルフィーヨ政権を認可した際、ルビは旧知のJ.F.ケネデイとトルフィーヨ将軍の間を取り持ち、公海上での会談を画策しもした。ただ、この会談は、米国側議員の抗議によって実現はしなかった。
外交官という装いは、プレイボーイ、ルビにとって格好のパッケージだった。
しかし、1961年、5月30日、トルフィーヨ将軍が暗殺者の銃弾に倒れる。ルビは、あらゆる努力をするが、1962年、ドミニカの国務省によって外交官の地位を剥奪される。これ以降、ドミニカ政府ならびに、大使館はルビを徹底して無視した。
しかも、外交官特権を失うと同時に、ニューヨーク検察は、1935年、及び1956年の暗殺事件へのルビの関与について、再度、諮問した。(ルビは、その関係を否定している。)
ルビは、オデールの勧めもあり、マルネ ラ コケットの閑静な家で、メモワールを書き始める。
たしかに、ルビのこれまでの人生は、書き残すに値するものだった。色恋沙汰も、ここまで徹底すると、硬い結晶を結び、ひとつの宝石となる。それは、充分、人を魅了する輝きをもっていた。
しかし、ルビが、自身の過去を遡り、文字に刻むとき、私には、それが、プルーストの「失われた時を求めて」の最終篇、「見出された時」の主人公の姿とだぶってみえる。偶然にもサロンに一堂に介した、かつて、あれほど自分の興味を抱かせた人物たちが、皆、年老いて只の偏屈な老人に変わり果てているのをみて、あらためて、失われた「時」というものを認識する。アレは、幻ダッタノカ。イヤ、現実におこったコトだが、通り過ぎた「時」は、いまや実体はなく、歳月とともに、いっそう、あいまいさを残す。その不可思議な感覚。
独裁者直属の「外交官」というパッケージを失っただけでなく、ルビ自身も、もう若くはなかった。プルーストが書いているように、肉体は精神を、ひとつの砦のなかに閉じ込め、やがて、その「砦」は包囲され、ついに、精神は降伏する。
ルビは、オデールと出会って、結婚してからも、女優のキム・ノバックを始め、幾人かの女性たちと交渉があったといわれている。「生きている神話」となった彼を、周りもほおっておかなかっただろう。いくら「外交官」の職を失ったとはいえ、困らないだけの金は残った。
しかし、失われた「時」は戻ってこない。
それから、3年後、「老い」の無残さを見せることもなく、ルビは、何かに仕組まれたように、しかし、いかにも「プレイボーイ=ルビ」にふさわしい最期を迎え、「神話」のまま、ある種の人々の心に残った。
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「大人の お伽噺」 3 プレイボーイ
http://rikughi.exblog.jp/2125115/
2005-11-03T23:33:00+09:00
2008-07-19T13:23:37+09:00
2005-11-03T23:32:46+09:00
rikughi
3.プレイボーイ その1
「人生は、思っているより短いンだ。だから、私は、この一夜の夢ともいえる私の人生において、素敵な女の子と、ちょっとした冒険のほかには興味を持たないことにしている。」
(最後のプレイボーイといわれたポルフィオ・ルビローザ、通称 ルビ、の言葉。)
1965年7月16日付けの「ル モンド」紙を開くと、よくある交通事故のひとつにしては、大きく紙面をさいた記事に目が止まることだろう。
記事の横には、粒子の粗いモノクロ写真が一枚。そこには、優雅なブローニュの森に突っこんで、無残にもフロントがつぶれたフェラーリが映っている。
運転していた男は、即死だった。
事故時刻が深夜未明であったことから、目撃者も少なかったが、それでも、ブローニュ近くのレーヌ マルゲリット アベニューをかなりなスピードで疾駆する赤いフェラーリーが見咎められていること、そして男の身体からアルコールが検出されたことから、酔っ払い運転の末の事故とパリ警察は判断した。
その記事が、他と少し違っていたのは、事故とともに記された、その男の華麗な経歴だった。
曰く、、、4人の魅力的な大金持ちの女性との4度の結婚。レーシングドライバーであり、優勝したポロチームのオーナー。自身も優れたポロプレイヤーとして知られ、外交官としての肩書きもある。
このドミニカ生まれの男の死につけられたタイトルは、「世界的なプレイボーイ、’ルビ’ 死す」だった。
『1978年 パリ』
ルビの死から13年が経った70年代後半、私はロンドンからパリへ移ることにした。どういう理由からなのか、或いは、もとより、訳などナカッタのか、その時、とにかく、私はトコトン遊び呆けたかった。
とり急ぎ、当時流行っていた、テッド・ラピドス(メンズウエアでは当時、流行の先端で、吊るしではなくチャンとタイユールもあった)の店に駆け込み、グレーフランネルのやけにショルダーの張った、3ピースを誂え、私は夜な夜なナイトクラブに通った。私も、パリの夜も若く、夜明けのコンコルド広場の寂しげな噴水も、怪しげなピガールの路地を曲がるときも、それは異国の夜風の匂いとともに、何かワクワクさせる予感を残した。
歳月が多くのことを忘れさせた今でも、あの美しい夏の夜明けが、パリの街にひろがっていく瞬間を思い出すことが出来る。
私は、眠ることさえ惜しかった。夜明けまで遊び、昼には、友人とクリニョンでランチを愉しんでいた。それでも、私は活気に満ちていた。
事故の前日、ルビのポロチームは、「パガテール クラブ」で行われたオープントーナメントで優勝を果たしたところだった。ウワサでは、ルビは試合直後から祝杯のシャンパンを空けはじめ、そのまま一行は、夜の祝勝会に雪崩込んだという。ルビは、これまでそうであったように、勝利の美酒を思う存分味わい、店で一番高価なシャンパンがミネラルウオーターのように、次々と空けられた。
結局、祝勝会がお開きになったのは、翌朝5時のことだった。カナリなドンチャン騒ぎの夜ではあったが、ルビにしては珍しいことではなかった。事実、いつものように、彼の完璧な服装は、宴の後でも、少しの乱れもなかった。
ルビは、友人と今日のランチの約束をして、愛車のフェラーリに乗り込むと、エンジンを全開にした。そして、、、彼の、あのチャーミングな微笑みは二度と見る事ができなくなった。
ルビのエレガントな物腰、マナー、女の子の扱い方、そして、少し無鉄砲なところ、、、生前、彼を真似ようとした者は、数限りない。女性だけではなく、そうしたエピゴーネンの男たちも、グルーピーのように、彼の一挙手一投足の観察に熱心だった。
しかし、誰も彼のようにはなれなかった。哀れな模倣が生まれただけだった。
ルビにはカリスマがあった。それは、ルビ、そのものであり、エピゴーネンたちが即席にマネできるものではなかった。
事実、ルビの死後においてもプレイボーイを気取る社交人種、輩は枚挙の暇がない。しかし、ルビのようなタイプのプレイボーイはいなくなった。
それは、一種の冒険家、、、無謀ともいえる情熱と速度で、人生を、うらやましいほど魅惑的な冒険物語に仕立てしまう男、と言えるかもしれない。
このとき、私は、、、
金や時間を惜しむのにクヨクヨするのはウンザリだった。
人生の「成り行き」というのに、一度、この身をまかせてみたかった。
何故か、自分では強運だと信じていた。
「考え」ていることは、無意味なような気がした。もっと、肉感的な事実を味わいたかった。
「SALAD DAYS for Playboy」
ルビは、1909年、武勇で知られたドミニカの将軍、ドン・ペドロ・ルビローザの末っ子として生まれた。終生、彼の愛称となる‘ルビ‘は、当時、兄弟たちがヤンチャな末の弟につけたものだ。
生地は、ドミニカ共和国の北部、チバオバレーの街、サンフランシスコ デ マコリスだった。
サンフランシスコ デ マコリスは、自然に恵まれた田舎町で、厳しいけれど男らしい父親、愛情に満ちた母親、仲の良い兄弟に囲まれ、ルビは素直で幸せな幼年期を過ごす。
ルビが6歳のとき、家族に劇的な変化が訪れる。父親が、軍務から外交キャリアに進むことを決心したのだ。1915年、父親のフランス領事館への転勤に伴って、家族は田舎町から、エレガントなパリ ジョルジュビレ 2番地へと移り住むことになる。
この時代に、ドミニカからパリへ外交官として赴任してくるということは、それなりのエリート層といえるだろう。ルビは、この後、13年間、パリジャンとして自由な少年期を送る。
記録では、ルビは16歳のとき、モンマルトルで、はじめての情事を持ったとされている。第一次大戦をルビは、パリで体験し、ベルエポックの時代よりはエレガントさに欠けていたにせよ、戦勝気分で、より陽気で、自由であったコスモポリタン、パリで早熟な少年期を満喫する。ルビの人生は、順風満帆と思われた。
しかし、ルビは人生をエンジョイするのに急ぎすぎた。ルビは、学校よりもスポーツや女の子や音楽に夢中になった。父方も、母方も筋金入りの職業軍人の家系から考えれば、ハッキリ言えば「オチこぼれ」だった。(私の偏見では、「良い」プレイボーイは、エリート家庭の「育ちの良いオチこぼれ」から生まれるという「黄金律」があるように思う。)
ルビは、カレの受験に失敗してしまう。両親の落胆は大きく、特に父親からはキツク叱られた。1926年、父親は外交官として英国に転任するが、ルビだけは、カレの再受験に備えるため、家族と離れてパリの寄宿学校に残ることになる。ルビは、パリで一人になる。これが、ルビのようなタイプの少年にとって、どう影響するかは、火を見るより明らかだった。
ルビは、箍を外されて遊び呆けてしまう。
結局、ルビは、1928年に、家族がドミニカに戻ることになった時点で、3度もカレの受験に失敗している。
この間、ルビと父親との間に、どのような会話があったかは、記録に残っていないが、察するにあまりある。英国の父親は、罰として、経済援助をストップしてしまう。そして、家族はパリのルビを残して母国に戻ってしまう。
「SELF-MADE Man」
独立独歩で成功した男を、英語では「SELFMADE Man」と表現する。
日本で思うよりはズット、欧米の家族の繋がりは深いから、大概、子供は家業を継ぐか、家族との繋がりのなかで人生を終える。「SELFMADE」=家族とは違う生き方で成功するのは、案外、特殊なことなのだ。
パリに一人、残されたことから、ルビの「SELFMADE」の人生が始まる。
とりあえず、一銭の金もなくしては、パリにとどまることはできない。それで、彼は初の冒険を試みる事にした。ルビは貨物船にまぎれこんで家族の後を追い、ドミニカのサントドミンゴまで辿りつく。
サントドミンゴは、ドミニカ共和国のなかでも植民地風の魅惑的な都会だった。
この時、ルビは19歳。無一文で、特定の職業もなく、カレの受験の失敗以来、家族のなかでも「浮いた」存在だった。ただ、水際立った美男で、パリでの13年間の生活によって身についた洗練された物腰と、教養があり、いやでも、街では目立った。
ありあまる時間と、故郷ドミニカの都会という舞台を得て、ルビは、自分の「生き方」を学んでいく。いわば、後年の華やかなプレイボーイの下地を創っていく。
ルビは、いつも午後は有名なコンデ通りで過ごした。そこには数々のバー、店や市場があり、プロムナードは、そぞろ歩く美しい女の子たちで溢れていた。恋を探すには格好の場所だった。夜は、パーテイ仲間とこの古い街を徘徊し、得意のダンスを踊り、時には売春宿にいったりもした。
ヤワなプレイボーイ気取りの男には無い、ルビのある種のタフさ、男らしい毅然とした態度には、このボヘミアン生活の裏づけがあったように思える。
後年の華やかなパリでの生活ばかりがクローズアップされて、この時代の記録が、あまり残っていないのが残念だが、無一文の若者が、夜の都会を徘徊する間には、リアルなトラブルもあったろうし、快楽だけではなく、ある種の刹那さに迷ったはずだ。
それが、単なるプレイボーイに終わらせない、ルビの人間の奥深さと、カリスマに繋がっていったように思う。
「転機」
1930年、ルビに転機が訪れる。父親が病に倒れ、ルビはその看病のために、ボヘミアン生活を切り上げて故郷のサンフランシスコ デ マコリスに戻る。
父親の病は重く、周囲も本人も、死を覚悟していた。ルビは、死に向かう父親と数ヶ月を過ごす。
死を覚悟した父親の言葉に敵う息子はいない。ルビは、サントドミンゴのロースクールに入学することを約束させられる。もとより、ボヘミアンや、街のチンピラに成りきるには、ルビは育ちが良すぎた。
父親の死後、ルビはサントドミンゴに住む姉のアナの家に寄宿し、父親と約束した通り、ロースクールに入学した。
時同じくして、ドミニカの独裁者といわれたトルフィーヨ将軍が国の政権を握った。ここから、ルビの人生が大きく動いて行く。
ルビは、或る日、サントドミンゴの由緒ある「カントリー クラブ」で、この老獪な独裁者と出会う。
将軍は、ルビの男らしい毅然さと、優雅な身のこなし、その出自に強い印象を受けた。政権を握ってから、将軍は自分の軍隊の将来を考え続けていたのだ。その「ニュープラン」のなかで、ルビは格好の人材と、将軍には思われた。
数日後、ルビは将軍に大統領官邸に招かれる。そして、官邸を出るときには、トルフィーヨ将軍の私設ガードに任命されていた。
このとき、独裁者にとって、ルビは、「新しい軍隊」をアピールするための単なるアクセサリーに過ぎなかったのかもしれない。
老獪な将軍が、血筋はともかく、ルビが「軍人」に適切かどうかを見抜けなかったハズがない。或いは、独裁者特有の気まぐれだったのかもしれない。 だが、その気まぐれは、大きな代償を要求した。
「最初の結婚 フロール デ オロ トルフィーヨ」
1932年、ルビはパリへ赴任する。一文無しで貨物船に紛れ込んでパリを逃れて以来、4年振りの思い出の地だった。シャンゼリゼに、もう一度舞い戻ったとき、さぞや、感無量であったろう。
パリには、トルフィーヨ将軍の愛娘、フロール デ オロが留学していた。フロールは、黒い瞳と、健康的に日焼けした肌を持つラテン美人で、まだハイテイーンだった。
残された写真をみると、当時17歳という年齢にしては、フロールは、すでにラテン美人特有の少しダークな色気さえみせている。しかし、将軍の手厚い加護のもと育った彼女の実質は、いまだ無垢で、ロマンチックな夢を求める育ちの良い少女だった。
そんな彼女にとって、颯爽としたルビは童話の王子様のように見えたのかもしれない。父親の周りにいる無骨な男とは明らかに違っていた。
フロールがルビに夢中になるのに、時間は掛からなかった。
二人は、父親である独裁者のカントリーハウスで、乗馬を楽しみ、ルビは彼女にギターを奏でながら愛の歌を囁いた。二人の恋は、ゴシップとして、周知の事実となり、ついには独裁者の知るところとなった。
困ったことに、将軍は娘の未来に「プラン」を描いていた。ゆくゆくは、どこかの王族に嫁がせようと思っていたのだ。当然、ルビは将軍の逆鱗に触れ、軍を解雇される。
そして、オザマ川の土手にある、16世紀初頭に建てられた伝説の砦フォリタリーザ オザマの、これもいわくつきの塔、トーレ ド オマージュにルビを幽閉してしまう。
、、、まるで、「岩窟王」みたいだ。
このコーラルロックで建造されたゴシック風のいかめしい塔は、1970年まで(つまり、トルフィーヨ将軍が亡くなるまで)牢獄として使われていた。ペーニャ・ゴメス、ホアン・ボッシェなど数多くの高名な政治犯が幽閉されたことでも知られ、この独裁者のお気に入りだった。
(この、オザマ砦、トーレ ド オマージュについては、数多くの逸話が残っていて、メッポウ魅力的で、いつか書き残したい。)
しかし、ルビは決して動揺しなかった。ルビのタフさ、強さ、そして誰もがルビに一目置いたのは、この、一種の精神の高貴さだったのかもしれない。
結局、将軍は愛娘の嘆願に負ける形で、二人の結婚を許す。この時、ルビは23歳、フロールは17歳だった。
1932年12月3日、ルビとフロールの結婚式がとり行われる。ドミニカの各新聞が、派手に、その一面で取り上げ、式には外国からの貴賓も駆けつけた。さながら、ロイヤルウエデイングのようだった。この時の写真でみるルビは、30年代のエレガントなモーニングを着て、屈託のない笑顔を見せている。
ルビの生涯にわたる、どの写真を見ても、この笑顔の屈託のなさというのは共通している。
これは、晩年のボニ ド カステラーネが、その波乱に富んだ人生にも関わらず、昔と変らぬ悠然としたエレガンスを保ち続けたのと似ている。それは、多分、計算されたものというよりは、本人の「質」なのだろう。そして、この何物にも揺るがない「質」というのが、人の精神の高貴さとか、世の中がいうエレガントさの「本質」なのかもしれない。
1934年、ルビは大佐として軍に復帰する。
ルビとフロールのカップルは、御伽噺の恋人たちのように、楽しげで無垢だった。フロールにしてみれば、ルビは自分への愛のために、一旦は牢獄に幽閉された「愛の殉教者」であり、まさにロマンチックな小説を地でいく「お姫さまを救け出してくれる王子様」だった。
若いルビも、少し舞い上がっていたようで、この時期、柄にもなく投資や、ビジネスに手を出し始める。独裁者が結婚祝いに、フロールに与えた5万ドルの大金を元手に、浚渫船(港の海底の泥や砂をさらう機械)を購入するが、結局、機械は上手く動かず、せっかくの大金を総て失ってしまう。
1936年、ルビはドイツへ赴任する。独裁者である義父は、ルビに大使館の代表、領事を命じた。これは、ルビにとって最初の大任だった。これ以降、ルビは、その父親と同じく、本格的に外交キャリアを歩んでいく。
そして、1937年には、パリ ドミニカ大使館の秘書官に任ぜられる。ルビの生来の華やかな社交性は、外交官にうってつけだった。ルビ自身も、天職として楽しんでいた。しかし、ルビのキャリアが充実する一方で、何故か、フロールとの結婚生活の雲行きが怪しくなっていく。
フロールにとっては、ルビは「私だけの」王子様であって欲しかったのだ。仕事や軍務に忙しい、野心を持った男たちは、いままでに幾人も見た。父親の取り巻きの男とは、ルビは違うと思ったのに、、、。
結局、フロールは、チョットしたイザコザをきっかけに、ドミニカに帰ってしまう。そして、父親にルビの不実な仕打ちを非難がましく訴える。
義父は、即座にルビとの離婚を、フロールに命じる。そして、当然、ルビの外交官としてのポジションは奪われ、それどころか、ドミニカにとって「ペルソナ ノン グラータ」(「好ましからざる人物」)というレッテルをつけられる。
1938年、ルビとフロールは離婚する。普通のプレイボーイ気取りの男ならば、ここで、その冒険譚も幕を閉じ、独裁者の不興を買った「好ましからざる人物」として、その存在も忘れ去られるものだが、ルビはつくづく強運の持ち主だった。
きっかけをつくってくれたのは、独裁者の3番目の妻であるマリアだった。(ちなみに、マリアと独裁者の間に生まれた息子、ラムフィは「世界最年少の将軍」といわれていた。なにしろ、独裁者は、10代に満たない少年を将軍に指名してしまったのだから。)
マリアは、末の娘の出産のために、パリにやってきた。マリアとラムフィは以前から、ルビを慕っていた。第2次大戦へ向かおうとしているヨーロッパで、ルビは彼女たちの世話を親身になってする。無事、娘を出産し、故国に戻ったマリアは、夫に口添えする。独裁者も、ルビの妻への献身振りには満足だった。結局、ルビを外交官に復帰させ、パリの一等秘書官に任ずる。
準備は整った。、、、さあ、お楽しみはこれからだ。
「プレイボーイ」
ジュリアン ポタン大通りの、ルビのアパルトマンの隣に、ひとりの美女が住んでいた。時は、1940年、パリはナチ侵攻の暗い予感に震えていた。外交官として、日に日に増す不穏な空気を感じとっていたルビの毎日で、時折、出会う、隣の美女は唯一の楽しみだった。
美女の名は、ダニエル・ダリュー、当時「フランス一の美女」と謳われた女優だった。
ダリューは、生粋のパリジェンヌで、いかにもフランス好みの、シックで女振りの良い、美人女優だった。当時、既にシャルル・ポワイエと共演した「うたかたの恋」(1935年)などでスターとしての地位も確立し、もともとコンセルバトワールでチェロを学んでいた人なので、舞台でも成功をおさめていた。
ダリューは、驚くほど芸暦の長い女優さんで、30年代、40年代だけではなく、50年代には名作「輪舞<ロンド>」、ジェラール・フィリップと共演した「赤と黒」、60年代にはフレンチスター総出演の名匠ジュリアン・デユウ"イウ"イエの「フランス式十戒」、ジャック・ドウミの「ロシフォールの恋人」など各年代で息が切れることなく活躍している。最近では、2002年の「8人の女たち」で、カトリーヌ・ドヌーブのお母さん役で登場したのには驚いた。
1941年、ドミニカ共和国パリ大使館は、ナチによるパリ占領とともに、フランス中部の街、ウ”イシーへと移る。いわゆる、第二次対戦中(1940年ー1945年)のエタ・フランセと呼ばれる親独中立政権、ウ”イシー政府である。
この時期、ルビは夜の街頭で、不審な銃撃をうける。難は逃れたものの、その後、ルビは、他の外交官とともに、ゲシュタポによって、6ヶ月間も投獄されている。
大使館の移動とともに、ルビもウ”イシーへと移る。既に、ダリューとルビは深い仲になっていた。ウ”イシーに引っ越す直前、ルビはダリューにプロポーズする。結局、1942年、ウ”イシーで二人は結婚式を挙げることになる。
この結婚は、全世界中の新聞が書きたて、「ヨーロッパのスター女優を射止めた、ラテン男」、ルビの名は、2大陸で知れ渡ることになる。
当時、ダリューの人気は絶大で、ドイツをも含むヨーロッパ全土のステージ、映画で活躍していた。ダリューという人は、多分、デイートリッヒ同様、高いプロ意識を持った女優だったのだと思う。
観客はダリューに「パリジェンヌ」を求め、夢見た。ダリューも、それを具現化し、年々、シックでミステリアスな「性」を磨き上げた。
ダリューは恋人よりも、優れたプロの女優だった。確かに、魅力的で、その美しさを演出する才能もあった。ルビもそれを認め、誇りに思っていた。この時期、ダリューは美しく輝き、映画に舞台にと精力的に活動する。その結果、ルビはひとり、ウ”イシーに取り残されることになる。
ルビは、孤独に身をもてあまし、1945年に別の魅力的な女性に出会う。ジャーナリストで、「世界一、裕福な女」といわれた億万長者のアメリカ女性、ドリス・デュークである。
5年間の結婚生活の後、ルビはダリューと協議離婚する。
1947年、ルビとドリスはパリのドミニカ大使館で結婚式を挙げる。ルビにとっては3度目の結婚となる。二人は、リブゴーシュに3フロアーの館を買い、このころから、ルビはアートに興味を持ち始める。ドリス・デユークの莫大な資産の加護のもとに。特に、彼の18世紀のフランス絵画のコレクションは優れたものだった。
アートとともに、同時期に興味を抱いたのがポロだった。これは、ルビの生涯を通じての情熱となり、「金のかかる」趣味となる。
ルビは、主にパリのパガテールガーデンにあるクラブを本拠地としていた。ポロ クラブは、当時、各国王室をはじめ、富と時間に恵まれたインターナショナルな有閑人種が集まる社交の場所だった。
ちなみに、ルビがオーナーを務めるポロチーム「チバオ パンパ」は、ルビの友人でもある女優ジャンヌ・モローの主演作「恋人たち」で、その雄姿を見ることができる。
きしくも、結婚後すぐに、ルビはアルゼンチン大使を命ぜられる。ラテン、ヒスパニック国の間では、最も洗練された魅惑的な都市、ブエノスアイレスは当時、ポロのワールドセンターだったのだ。 ルビは、ドリスとともに、赴任し、アルゼンチンの全紙が、この世界的に有名なプレイボーイの外交官と、世界一裕福な女性との世紀のカップルの赴任を書きたてた。
当然、二人はブエノスアイレスの社交界、外交の中心となった。
ルビは、ポロに夢中になり、夜はブエノスアイレスの濃厚な闇でタンゴを踊った。時の政権は、あのペロン政権だった。当時、中立国として大戦に参戦しなかったブエノスアイレスの社交界は、昔ながらのクラスと、カリスマ、ペロンを筆頭とする新政府派、そしてヨーロッパからの戦争亡命者も入り乱れて、ことほど煌びやかで、その実、裏に闇をもっていた。
ドミニカの外交カードとしては、ルビとドリスのカップルは格好の切り札と思われたが、或る日、突然、ルビはトリフィーヨ将軍にサントドミンゴに呼び戻される。そこで、つきつけられた現実は、アルゼンチン大使、ルビの解任だった。
トルフィーヨ将軍にとって、ルビはどういう存在だったのか。最愛の娘の元夫、元義理の息子、プレイボーイとして世界的な知名度を得た部下、、、。あるときは、突然、解任し、また或る時は、抜擢し、褒美を与える、、、。
将軍が暗殺されるまで、ルビとトルフィーヨ将軍の、この奇妙な関係は、ゲームのように続いた。
結局、このイザコザの後、パリに二人は戻り、そして、1948年、ドリス・デユークはルビに離婚を申し渡す。離婚にいたる経緯には、様々なスキャンダルがあったという。
ドリスは、離婚の慰謝料として、自家用機を一台、リブゴーシュの館、そして「ルビが再婚しないかぎり」、年に2万5千ドルをルビに払い続けることを約束した。
、、、Y氏にささぐ。
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