カテゴリ:ボニ・カステラーネ侯爵  2.( 1 )

ベルエポックのパリ社交界 ーボニ・カステラーネ侯爵 2




d0004856_98359.jpgボニが活躍していたベルエポックのパリ社交界は,類、稀な栄華を誇っていた。

当時、パリには、王室も、皇室も革命以来、存在していなかったから、
社交界の重鎮はサロンを開き、社交人種は、どのサロンに出入りしているか、或いは出入りできるのかで、値踏みされた。また、同時に、サロンの当主は、そこに集まる社交人種の質で、これも、値踏みされた。
加えて、この時代、マスコミが認知され、力を持ちはじめていた。社交人種の一挙手一投足は、毎朝、報じられ、評論された。

自ずと、サロン文化は磨かれ、社交人種も、また切磋琢磨をせざるを得なかった。

第一次大戦の勃発までの、短い期間ではあったが、こうしてパリの社交界は、独特のオーラを放っていた。しかし、大戦後、二度と、この魅力は戻りはしなかった、すべてが様変りしてしまった。




ボニが30歳のとき、「最初の」転機が訪れる。 ー 「結婚」である。

花嫁は、アメリカのゴム王と呼ばれたジェイ・グールドの娘 アンだった。

使っても使い切れないほどの巨額の資産を得たボニは、社交界のリーダーとなる。

もとより、ボニは、類のない 趣味の良さを持った人だった。絵画の優れたコレクションをつくり、城を買い、船上パーテイの出来る素晴らしいヨットを注文し、外壁がピンクの大理石で覆われた、秀麗なパリの住居「バレ ローズ」をつくる。
そして、パーテイ、、、、それもケタはずれのスケールのパーテイの数々、、、、

最も有名な、デイナーパーテイは ブローニュの森に 150人の「近しい友人」と4千人のゲストを招いて開かれた。
そのとき、ボニは200人のオーケストラとともに、オペラバレーカンパニーを、その一夜のために雇い入れた。森の樹々には、8千個のグリーンのベネチアングラス製のランプが灯され、10マイル(16キロメートル)にわたって、カーペットがしきつめられた。


これが「個人」のパーテイである。このとき、ボニは、まさしく パリ社交界の王だった。





copyright Ryuichi Hanakawa 2005
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by rikughi | 2005-03-23 09:09 | ボニ・カステラーネ侯爵  2.