カテゴリ:2.19世紀と20世紀 その弐( 1 )

私家版 「サルトリアル ダンデイ」 2. 19世紀と20世紀




「19世紀ダンデイと20世紀ダンデイ」




ここで、この両ダンデイの時間軸を検証してみよう。ダヌンツイオが1863年生まれの1938年没、75年の生涯だった。ウインザー公は、1894年生まれの1972年没、78年の生涯。

ヨーロッパのエレガンスを代表する、ベルエポックが、1895年から1914年。その後の、第一次大戦が1914年から1918年の4年間。

ベルエポック(英国では、エドワーデイアン)という華やかで、混乱した時代の幕開けに、ダヌンツイオは30代で、最も精力的な創作期間にあった、対してウインザー公は、ベルエポックとともに生をうけ、その初等教育を、前時代から受け継がれた規範と、かたや、現実には新しい時代(ベルエポック)の幕開けのなかで受けている。


年齢差が約30歳。ちょうど、ひと世代、違うことになる。第一次大戦を中心軸とすると、やはり、ダヌンツイオは戦中派で、ウインザー公はアプレゲール(戦後派)と呼べるのだろう。

そして、この第一次大戦こそが、19世紀と20世紀をわける分岐点といえる。
社会のエトス、世界の構造(第一次大戦によって、ヨーロッパの君主制<中世以来のホーエンツォレルン家、ハプスブルグ家、オスマン家、そしてロマノフ家>は崩壊し、旧世界秩序を決定的に破壊する。そして、今日の現代国家の体制がつくられた。)という視点からみれば、19世紀という概念と枠組みは、1789年のフランス大革命に始まり、第1次大戦まで続く。そして、実質の20世紀は、第1次大戦で始まり、ソ連の崩壊で終了したといえる。


第一次大戦が勃発するや、ダヌンツイオは滞在先のフランスから、母国、イタリアに取って返し(1910年代、ダヌンツイオは借金を逃れるため、フランスに逃亡していた。その地で、作家として再スタートし、クロード ドッビュシーと音楽劇「聖セバスチャンの殉教」などをかきあげている。パリで上演された、その音楽劇のプレミアには、プルーストも列席しているが、彼の日記によれば、「このプレミアで、最も興味深かったのは、主演のイダ・リヒテンシュタインの脚線美である」とのことだった。)、情熱的に、戦局に携わっていく。

彼には、この戦争こそが、ヨーロッパにおけるイタリアの地位を再度、浮上させる絶好の機会だ、という強い想いがあった。フューメの占領などを経て、ダヌンツイオは「戦争の英雄」となる。そして、ムッソリーニと急接近し、(1971年刊行の「ムッソリーニとの往復書簡」をみると。ムッソリーニは多分に、ダヌンツイオが描く「イタリア復興の戦略」に影響されていた。)ファシズムに傾倒していく。しかし、ついぞムッソリーニは、ダヌンツイオに政権の重要なポストを与えることはなかった。
そして、ダヌンツイオは、ガルダ湖半の「ビットリアーレ」に隠棲することになる。


大戦後の新しい時代の幕開けとともに、ダヌンツイオが、「ビットリアーレ」に引き込まざるをえない運命にあったというのは、何か象徴めいている。
理想の住居として築き上げられたガルダ湖半の家に隠棲するダヌンツイオは、どこか、ユイスマンの「さかしま」を思い起こさせる。ダヌンツイオは、この館で、夥しい量の彫刻や絵画、陶磁器、書物という蒐集品に囲まれて、最後の10数年を、執筆活動に費やす。

1937年、マルコーニの死後、イタリアのロイヤルアカデミーの会長に指名されるが、翌、1938年の3月1日、愛用のデスクで執筆中に発作に襲われ、その生を終える。


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ダヌンツイオの服は、そういう人生を送った男の服だ。その人生は、彼自身が強く意図した「ロマン的」な冒険(戦争だけではなく、 女優エレノラ・デューセとの色恋沙汰なども、、、)によって導かれていく。大袈裟にいえば、それは、エドモン・ダンテス(モンテ・クリスト伯)のような19世紀的ピカレスク・ロマンを思いださせる。

彼が好んだ軍服も含めて、その服の数々は、まるで、この「人生」のために周到に練られた「舞台衣装」のように見えてくる。

はたして、ダヌンツイオは、死が突然、襲ってきたとき、どのような服を纏っていたのか、、、。



ダヌンツイオが、その最後の一年を迎えようとしているとき、ウインザー公も、また「大きな決断」を迫られていた、、、

1936年、父君であるジョージ5世が亡くなり、プリンス オブ ウエールズ(ウインザー公)は、王位を継ぎ、エドワード8世となる。この年、スペインでは内戦が勃発し、ラインライトはヒットラーに占領された。日本では、2.26事件が起きた年でもあった。


第一次大戦によって引き起こされた「歪み」は、1929年、10月の世界大恐慌を経て、各国の新たな植民地獲得と軍事拡張へと大きく増幅し、世界情勢は、一触即発の不安定な状態にあった。


ところが、ご存知のように、即位 間もない1936年の12月、エドワード8世は、BBC放送を通じて、「王位の放棄」を国民に告げる。その理由は、これも、ご存知のように、ひとりのアメリカ女性との「色恋沙汰」である。

当時の、戦争の危機を孕んだ世界情勢(この年、勃発したスペイン内戦を、第二次大戦の始まりとする歴史家もいる。事実、同内戦は第二次世界大戦で使用されることになる兵器の実験場の様相を呈し、壮絶を極めた。)、そして、国民の拠り所ともいえる王制という概念を根底から覆すことを鑑みれば、コレは、モウ、ムチャクチャといわざるを得ない。

事実、一大スキャンダルとして、ウインザー公は、嘲笑と恥辱に曝されようとしていた。

その時、助け船をだしたのが、シンプソン夫人の母国、アメリカのジャーナリズムだった。上流階級の「色恋沙汰」は、「20世紀最大のロマンス」と塗り替えられ、愛を貫くために、国を捨て、王冠を捨てたウインザー公はヒーロであり、夫人はヒロインとなった、、、


2003年に、解禁された公に関する「機密文書」によると、シンプソン夫人は、公との交際中に、別の男性、車のセールスマンをしていた ガイ・トルンドル、とも密会を重ねていたという。これは、政府がシンプソン夫人に24時間体制で尾行をつけた結果、判明したということだが、公には、生涯、知らされるコトはなかった。

昔の(今も?)上流階級の間で、結婚が繰り返され、不倫や愛人問題やらがあるのは、「退屈」だからだ。これは、経験すれば分かるが、職業をもたない彼らは、「暇」なのである。暇だから、「パーテイ」が繰り返され、「色恋沙汰」も生まれる。読んで字の通り、「社交界」なのだ。私の某知人は、あきれ返るほど、「婚約」を繰り返していた、、、



このニュースが知らされた時、ガルダ湖半の館で、ダヌンツイオは、どう考えただろう。


「持つ者」と、「持たざる者」、、、ダヌンツイオは、称号と、自身に「ふさわしい」社会的地位には恵まれなかったが、独自の想いを自由に表現できる芸術には恵まれた。ウインザー公は、英国の王というノブレスの頂点に生まれたが、規範の中で個人の自由を押し通すことには、軋轢と限界があった。

人は、なかなか、目の前にある幸せだけでは、満足できないでいる。もしも、ダヌンツイオが清貧に甘んじ、己の芸術に忠実であったなら、、、ウインザー公が、ノブレス・オブリッジを再認識し、公なりの王室をつくり、戦後を生き抜いていたら、、、





この前代未聞の「王位の放棄」以降も、公の行動は報道を通じて全世界に配信されていく。いや、なおさら、公が、旅行の際も、デイナーを摂るときも、その一挙手一投足を見逃さまいと、一個師団のプレスがつきまとった。しかも、公自身が語るように、公は気軽に写真撮影を許した。、、、こうして、「ウインザー公」はマーケテイングされていく、、、。

特に、シンプソン夫人との結婚以来、アメリカのジャーナリズムは、英国の王がアメリカ女性を娶ったことに、ある種の誇りを感じていた節がある。
公の意図は知らないが、ジャーナリズムによって、公は、アメリカという当時、最大の市場に、見事にマーケテイングされていく。これほど、リアルタイムで、ひとりのダンデイのスタイルが、繰り返し、パブリシテイされたのも前代未聞ではないだろうか。


公のスタイルは、一言でいえば「スタイリッシュなカジュアルネス」といえるだろう。

それまでの「場」に即した「フォーマリテイ」という19世紀的な装いの原則は、公によって、次々に壊されていった。ウインザー公によって実践された20世紀的な「カジュアル(簡略)化」(ウエストコートを捨て、ブレイシーズの代わりにベルトを締め、ジッパー付きのトラウザーズを履く)は、パブリシテイによって一般に認知され、「元」英国王という肩書きでオーソライズされていく。

それは、大戦によってヨーロッパの君主制が壊され、戦後、ブルジョアが台頭し、アメリカという新国家が世界一の大国となる時代背景に呼応していた。





「ウインザー公のスタイル」
19世紀ダンデイズムから、20世紀ミーイズムへ






d0004856_033639.jpgウインザー公のスタイルで、私が好きなのは、プレイドスーツだ。
公のクローゼットには、目が眩むほどの数々が並べられていて、それは壮観である。
特筆すべきは、これらの、ツイードのプレイドスーツが、ショルダーパッドやライニンングがとりはずされた「アンライニング」になっていることだろう。


英国のカントリーツイードは美しい。タウンスーツの慎重なジミさに対して、カントリースーツは、コチラが驚くほど大胆だ。その、プレイドの大胆な組み合わせ、複雑で意外性に満ちた、色の組み合わせなど、シャネルが、そのスタイルイコンとなる「シャネルスーツ」の想を、ここから得たというのも頷ける。




それぞれの家柄を示す「デイストリクト チェック」などは、なまじの「デザイナーの計算」では為し得ない「アバンギャルド」な美しさがあると思う。


「デザイン」とか、「計算」ではなく、伝統とか歴史、あるいは風習から生まれた「美しさ」には、本物がもつ「強さ」と「深み」がある。日本の和服に近いものが、英国にあるとすれば、それは、このツイードだと言えるのかもしれない。

そして、カントリー ツイードに限っては、いくら、くたびれた古いものを着ていても、或いは、父親や祖父が残したものを、仕立て直していようとも許される。これも、紬などの仕立て直しに似ている。

ウインザー公も、ツイードではないが、父君、ジョージ5世が残した、ショールカラーのタータンのラウンジスーツを仕立て直して愛用していたという。


ちなみに、この「タータンチェック」も、ウインザー公が「流行らせた」モノのひとつだろう。
或る夜のデイナーで、公がタータンチェックのデイナースーツを着ていた事を聞きつけたマスコミが、それを報道するやいなや、ジャケットから、バッグ、ソックスまで、国中(主にはアメリカ)がタータンだらけになったという。


思うに、功罪取り混ぜて、ウインザー公ほど、その後のレデイメイド(既成服)に影響を与えたダンデイは、いないのではないだろうか。
プレイドやタータンは、古からの英国が誇る「スタイル」であったはずだ。それが、皮肉にも、公の手によって、「スタイル」から「ファッション」になっていく。

穿ちすぎかも知れないが、60年代、70年代の、ポリエステルの派手なプレイドジャケットにゴルフズボンという典型的な(そして、私見だが、悪趣味な)「アメリカン」 カジュアルスタイルは、公のスタイルの「マチガッタ」解釈の末裔だとさえ思う。




ウインザー公が、ダンデイの歴史上で特異なのは、19世紀的な価値観の象徴である英国王室に生まれながら、それに相対する20世紀的な「ドレスダウン」と、価値観としての「ミーイズム」を実践してみせたことにある。

それも、早すぎるでもなく、時代に遅れをとったわけでもなく、19世紀から20世紀に移る、その絶妙なタイミングに、「王室の反逆児」という、これも、絶妙なお膳立てのもとに登場したことによる。

そう考えてみれば、色恋沙汰の果ての「王位の放棄」も、生き方としては「首尾一貫」したものにさえ思えてくる。





こうして、いま考えていくと、ウインザー公の「革命的なドレスダウン」は、「持てる者」の一種の偽悪趣味だったといえるような気もして来る。

権力の座にあるものだけが、ルールやファッションを無視できる。王に生まれた、ウインザー公だからこそ、19世紀的な「りっぱな装いで身を飾る」ことを、無視できて、また、それを正当化できたともいえる。

そういう意味では、公のスタイルをダンデイズムのお手本のようにして、マネをするのは愚かだということになる。公のスタイルそのものが、厳密にいえば「反ダンデイズム」であり、実質は、「ミーイズム」の表現にあったのだから。

つまり、公のスタイルは「英国王室」を出自としているが、そのスタイルを「英国クラシズム」のテキストで捉えるのは大きな間違いで、ウインザー公という我侭で、思いっきりスタイリッシュな人間の「個人的な趣味」の表現に過ぎないということだ。
そして、面白いのは、そのスタイルが、「ソサエテイーの良識」というものを、徹底して、無視(無関心か?)していて、逆に「ソサエテイー」の方が公におもねるという構図を生んだことだ。

さらに、興味深いのは、結局、公の「スタイル」というのは、よく理解されなかったように思うことと、その代わり、表層的には、その後の既製服に大きな影響を与え、「ファッション」に大きく貢献することになったということだ。

まるで、メビウスの輪のように、「権威」と「反権威」、「ダンデイズム」と「反ダンデイズム」を魅力的な螺旋で繋ぐ、公のスタイルは、極めて20世紀的な在り方で、それゆえに、いまだに「鬼火」のように、語り継がれるのだろう。





その公のスタイルの真骨頂は、やはり、その「カジュアルスタイル」にあると思う。
なぜならば、それが、最もウインザー公自身のアイデアと嗜好が色濃くでているからだ。


プレイドのスポーツコートに真紅のトラウザーズを合わせて、絹のスカーフを首に巻き、パームビーチに遊ぶ姿は、いまどきの「チョイワル」を鼻で笑うかのようだ。


公は、生涯を通じて体型を維持したといわれている。

残されたスーツから導かれる公のフィギュアは、

胸周り             96センチから97センチ
トラウザーズのウエスト  74センチ
トラウザーズのレングス  104センチから106センチ(インサイドレッグは74センチ)

夫人ともども、華奢な、小柄といえる体型だった。写真で見る限り小柄に映らないのは、注文仕立てのスーツのおかげだろう。

当然だが、公の「カジュアルスタイル」も、注文仕立てであった。スーツは注文するが、「カジュアル」は既成で済ます人が多いが、「カジュアル」こそ、バランスや仕立てが大切で、また、自分なりのスタイルが実現できるのではないかと思う。


公の「カジュアル スタイル」の独自性は、その素材選びにもあった。お気に入りは、英国のものとは明らかに違う、米国独特のトロピカルウエイト(軽く、しなやかな)の色鮮やかな、コーデユロイや、これも英国では見ることのない、爽やかなシアサッカーだった。

英国の王族のドレスコードを考えれば、いま、我々が思う以上に、当時は、ショッキングで、先鋭的な選択だったろう。しかも、オークションに、かけられたスポーツトラウザーズのリストをみると、ダクロンなどの化繊のものさえある。

アメリカ人が、公から多くを得たように、公もまた、英国と比べて、規範の薄い、アメリカの「カジュアルテイ」から多くの収穫を得た。
それらの「安価」な「素材」は、熟練の職人の手を経て、「ウインザースタイル」と成って、輝きを増す。

トラウザーズに合わせる靴も、有名なホワイトデイアスキンとのコンビのローファーはともかく(このローファーのアッパーは、単なるモカシン縫いではなく、独特なつくりになっている。)、ケッズの厚いラバーソールのバックスキンダービーなども、お気に入りだったようで、様々な色のものがシューラックに納まっている。


面白いのは、当時のリゾートシューズの代表格である、フルブローグタイプのコレスポンデントやクロコダイルのもの(そう、鰐皮の靴は、元来、リゾートなどのカジュアルタイプだった。)ではなく、コンビのローファーや、ダービーを好んだところだろう。(公は、色違いや、同じものを、何足も誂えている。)


特に、私のお気に入りは、黒いカーフと、ホワイトデイアスキンのダービーで、何気なそうに見えて、実は手間のかかる、凝ったアッパーのつくりになっている。これを、公は、カジュアルスタイルだけではなく、シテイスーツにも合わせていて、独特の雰囲気を作っている。

多分、シテイスーツを「ドレスダウン」して、着こなしてみせた先駆けは、公なのではないだろうか。そして、その着こなしで、独特なのがソックスの選び方だと思う。



d0004856_17443332.jpg有名なのは、ブルーストライプのシアサッカーのトラウザーズに、コンビのローファー、そして、ホリゾンストライプのソックスという組み合わせだが、これ以外にも、茶のグレンチェック柄のダブルのスーツに、茶と黒のシェファードチェックのソックスとか、格子の半袖シャツに、シアサッカーのピンクと、イエロー、ブルーの格子のトラウザーズ、そして足元は、茶のスエード靴にアーガイルのソックスという具合に、足元にまで、その意思が通っている。


もうひとつ、公のカジュアルスタイルで、注目したいアイテムが、オーバーシャツというのか、一種のシャツジャケットだろう。

これは、ライニングのないシャツ仕立てのジャケットで、いわゆるCPOシャツのようなものや、ウエストまでのブルゾンタイプのものなど、数パターンを、スーツと同じ柄のツイードなどで誂えている。

公は、これに、ネクタイをしめて、プラスフォー(ニッカーボッカー)や、ハイランドキルトにあわせて写真に収まっている。カジュアルジャケットといえば、ハッキングジャケットか、ノーフォークジャケットの時代に、いわゆる「アンコン」のジャケットを着たのは、ソサイエテイーでは公が初めてといわれている。










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copyright 2006 Ryuichi Hanakawa

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by rikughi | 2007-02-04 23:46 | 2.19世紀と20世紀 その弐