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「百歳堂 散策日誌」 サイケデリック 3  モンマルトルの恋人

 
「 本を一冊だけ携えて 明日 旅にでかけたい。」
( 百歳堂敬白 )
  
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日は、いつの間にか、昨日になっていて、記憶は、しだいに後先が曖昧になる。どの旅の思い出もまざりあい、手触りを失って、都合の良いノスタルジーへと姿を変える。


1982年の初夏、私は、サクレクールの真裏にある、モンマルトルの宿にいた。その時、現代日本画の、ヨーロッパでの展覧会を頼まれていて、翌月には、打ち合わせのため、日本に戻ることになっていた。

50人の日本画家が、それぞれ50号の画を描くという、その展覧会は、企画としては面白かったが、大作があるでなし、歴史的な名作があるでなし、キューレーターとしては、実際の会場を思い浮かべたとき、どこか面映いものを感じたろう。それに、当時のヨーロッパでは、現代日本画は、ファインアートというよりは、まだまだ、装飾美術という捉え方が大勢だったという不運がある。
しかし、企画そのものに、クチを出すには、当時の日本の画壇、それをとりまく周囲は、権威に固められていて、政治力も持ち合わせず、歳の若さもジャマをした。

いくつか、めぼしい美術館に手紙をだし、あたってはみたが、返事は芳しいものではなかった。それでも、ロンドンでは、幸いバービカンがオープンしたての頃で、企画展の予算に乏しかった、その美術館は、会場設営の費用をコチラが持つという条件で、話にのってくれた。

それで、パリの会場のめぼしをつけるという目的もあっての旅だったが、いつものチュルリー公園近くの定宿ではなく、モンマルトルにしたのは、何か、小さな逃避めいたものが働いていた、と思う。


私は、何から逃れたかったのか、或いは、ホンの少しの間、ソレを忘れたかったのか。

2005年の私は、1982年の自分を、とうに失くしている。記憶を辿れば、辿るほど、追いかけようとしても、相手は通りの向こうを歩いているような、一体になれないモドカシサが,つのる。


je voudrais tout que te souviennes,,, 思い出して欲しい、、、



d0004856_21492667.jpg地図をひろげて、27歳の私の足取りを探ってみる。

の宿は、ラマルク通りをサクレクールの方へ上りきった所にあった。サクレクールから階段を下りて、ピガールを抜けていくと、慣れ親しんだ2区から1区が現れる。
反対側に、降りると、向こうにクリニャクールを望む、昔ながらのパリの下町が広がっている。

サクレクールで、観光客は堰き止められ、ここを境に、北側と南側では、街は一変する。事実、観光客で、賑わうサクレクールまで、歩いて、ホンの2-3分のところにあった宿の通りは、人影もまばらになった。

キュステイーヌ通りが、バルベス大通りにぶつかる2-3本手前の角には、いつも立ち寄るカフェがあった。

その小さなカフェには、年季のはいったビリヤード台がひとつと、ピンボールがあった。
中年の気の良さそうな店主が、一人でキリモリをしていて、店の名前は、どこかに書かれていたはずだが、そういえば、私は、一度も、名前を確かめることをしなかった。
zincと呼ばれる、鉛だか、ピューターだかで出来た、昔風の鋳物のカウンターがあって、それは、いつも磨きこまれていた。

私は、この旅の間中、いつも、このカフェに立ち寄ることにしていた。最初は、ただ、ソコに店があったからだが、やがて、それは、ひとつの「場所」となり、一日の習慣となった。


2度目か、3度目に、立ち寄ったとき、私の姿を認めて、店主は、本当に嬉しそうに笑った。心底、嬉しそうに見えた。
といって、馴れ馴れしく、話しかけてくるわけでもなかった、ただ、私が現れると、向こうから「いつもので良いか?」と嬉しそうに声をかけてくることだけが、私たちの新しい習慣となった。

いま思えば、私は、このとき、この街の一員に成れたのかもしれない。



C`est tout un poeme,,,それは 詩のようなもの


私は、いつも、通りを眺めながら、ミルクが入った濃いカフェを立ち飲みし、飲み終われば店を出た。私は、何を眺めていたのか。

一度、男と女がワメキ散らしながら、店に入ってきたことがある。女を追いかけるように、飛び込んできた男の目は、ジャンキーのように切羽詰っていた。カウンターにぶつかるように、女に追いつくと、諍いながら、それでも女はカフェを注文した。

女は、長く縮れた髪をしていて、アルメニア系の顔をしていた。実際に、アルメニア人かどうかは、わからないが、少なくとも、パリで生まれたのではないことは分かる。どこか、別の場所からココにやって来たのだ。男と暮すアパルトマンと、カフェ以外、彼女には避難場所はない。

男は痩せていて、ジーンズに青いポロシャツを着ていた。若くもない。女も若くない。30代ぐらいの男と女。そうだ、、、俺は30になるのがイヤだったんだ。
歳はともかく、できることなら、才能だけで生きてみたかった。それは、そうすれば良いだけなのに、情けない事に臆病だった。

見逃してはいけないコト、肝心なコトに臆病だったから、失敗もないかわりに、何も起こらなかった。例えば、「彼女」のこと、

その頃、ロンドンに「お姫さま」みたいに想っていた女友達がいた。その子は、ホントに美しい横顔(プロフィール)をしていて、いつも、マーケットで見つけてきた古着のワンピースを着ていた。淡い色のシルクデシンや、昔風の小花模様のもの、、繊細な色感を持っていて、その姿は、いつも優れた印象派の絵をみるようだった。

ハイヒールを履いていたのを見た事はなくて、いつもクラッシックな室内履きか、シンプルなフラットシューズを履いていた。そして、古着に穴が開いていれば、そこを安全ピンでとめるだけ、、、無駄な気取りはなかった。

当時、お洒落な人が多かった中でも、群を抜いてセンスが良かった。絵とか、音楽とかに表現されなくても、生きているだけで、その美意識が、人を、こんなに魅了するものかと思った。とにかく、俺は彼女の姿をみるだけで、心が満たされ、幸せになった。d0004856_1255221.jpg


いつのことか、彼女の足元をみると、ベルベットの室内履きから、いろんな色の紐が顔を出していた。不思議に思う俺の表情に気がついて、「お姫さま」は、靴を脱いでみせてくれた。紐と思ったのは、アンテイークのシルクのリボンで、彼女は、靴の中に、色とりどりのリボンを、一杯詰め込んで履いていたんだ。「綺麗でしょ」、リボンよりも、俺は、その細い、白い足に魅きつけられた。石膏のように白い、その足に踏まれた絹のリボン、、、彼女は、毎日を詩のように生きていた。
貴女にとって、一日は長かったのか、短かったのか

彼女は、いつも静かに笑っていた。何かを、強く主張することもなく、それ以外、リアルな社会に対応する術を知らないかのように、何が起こっても、何を聞いても、微笑んでいた。

しかし、夏のタオルミナで友人たちと大騒ぎしているとき、旧式な黒い電話が、彼女が自殺したことを報せてきた。

言葉は思いつかなかった。人は、本当に大切なものを、突然、失くすと、ただ呆気にとられるだけで、無力なのだと気付いた。そして、理屈で考えるよりはズット、なかなか拭い切れない「不安」の種子が心に こびりついて、悩ませる。

その夜、バーで味気ない酒を飲みながら、誰かが言った。「生きていくには繊細すぎたんだよ」、皆、弱く、頷いた。俺は、聞かないではいられなかった、「それで、誰か、彼女と寝たヤツはいるのか」、だれもが、力なく首を振った。結局、皆、俺と同じだった。ただ、眺めていただけだ。あの、静かな、穏やかそうにみえた微笑は、誰かに助けを求めるサインだったのか、それとも、彼女は、彼女なりに人生をまっとうしたのか。
「アルベルト!よせ、アルベルト!」店主の声に、振り向くと、男が女の髪を鷲掴みにしようとしている。「お前が悪い!お前が悪い!」、男は、ソウ、何かの呪文のように繰り返して、それでも女に手を伸ばす。店主は、間に割って入ろうとする。それを,きっかけに、女は、男の手を振り解くと、店の外に飛び出していった。男も、店主を振り払って、飛び出していく。通りの、白く光る午後の日差しが、二人を飲み込む。

「ウーララ」そういって、店主は腕を大きく広げてみせて、それからまた、いつもの仕事に戻る。他の客も、普段通りの会話に戻っていった。ここ<パリ18区>では、みんな自分の人生を惜しげもなく見せていた。肉屋は肉屋の顔つきをしていて、街のチンピラはチンピラの人生を見せる。

しかし、彼らが、生きていた痕跡を何かに残す事は、ほとんど無い。時がたてば、忘れ去られる、無名といっていい人々。どこに住んでいたかぐらいは、記録に残ったとしても、その生活ぶりを、後から窺い知ることはできない。私も、カフェを飲み干して、自分の人生に戻ることにした。ところで、女は、アルベルトから逃げ切って、幸せになったのだろうか。



Deux oeurs quise sourient,Tout ca parce qu`ils s`aiment、、、 愛し合っているから 二人は微笑みあう、、、



キュステイーヌ通りに出て、私は、ラマルク・コーランクール駅へと向かう。今日は、午後からマドレーヌで、友人と会う約束だった。5月の通りは、光に溢れていて、フラッシュを焚いたように、白く空虚に見える。私は、鞄からウオークマンを取り出した、イヤーフォンから流れるカンタータが、さっきの男と女のコトを思い出させる。通りには、すでに男の姿も、女の姿も見当たらなかった。

キュステイーヌ通りが、コーランクール通りに繋がる角を曲がって、メトロのあるコーランクール小路へと入った。建物にはさまれた小道は、急に薄暗くなって、カフェには、グラスのぶつかる音や注文を繰り返す声が飛び交い、人々は忙しそうにメトロの入り口に向う。下町の雑多な生活が浮かび上がってきた。

私もメトロの入り口に向かう。
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地下鉄が、いま着いたところなのか、思い思いの格好をした人波が階段を上ってくる。

そのとき、「ムシュー、音楽の仕事をしているの?」、そう、彼女に声をかけられた。

っかけは、他にあったのかもしれない。だが、いまとなっては思い出せない。彼女は23歳で、くすんだ金髪を束ねていた。そのとき、私がデコントラクトな服装をしていて、ウオークマンをしていたから、彼女は音楽関係者だと本当に思ったのか、ただのきっかけの言葉にすぎなかったのか。返事に迷っていると、彼女は「私は、テアトルで衣装の仕事をしているの」と微笑んだ。
柔らかそうな、健康的な肌をしていて、美人の骨格だったが、それよりも生きている意志の方が強く表情にあらわれていて、それが好ましかった。

私たちは、メトロの入り口に立ち止まり、何を話していたのか。ラマルク通りのホテルに泊まっている事、これから友人に会うこと、彼女がブルトン(ブルターニュ出身)であること、、、私たちの脇をメトロに急ぐ人が何人もすり抜けていく、、、要は、私が、躊躇していたのだ。しかし、やっと、私は決心して、「後で、連絡するから、電話番号を教えてよ」と言うことが出来た。彼女は、微笑みながら、手帳を小さくちぎり、メモをつくって手渡してくれた。名前は、ドミニク、、、、住んでいる所は、マルカデ通り、、、電話番号は、、、。、私も、ホテルの電話番号を伝え、別れた。


マドレーヌのカフェに、友人はもう待っていてくれた。しばらく、話していると、友人が紹介してくれる「美術関係者」という、ゲイの若作りの男が、遅れてやってきた。いま、シャワーを浴びて駆けつけてきたという様子で、握手をすると手のひらに男の甘いタルカムパウダーの匂いが残って閉口した。

結局、この「美術関係者」は、社交界にもよくいるコバンザメで、知り合いは多いが、特別、自分自身には政治力も、能力もない輩だった。いわゆる「紹介屋」の類だ。
「また、ご連絡しますから」、私は、話もそこそこに、そう言った。経験から言って、こういう男には、そうそうに お引取り願うのが賢明だ。


その代わり、友人が、ピエール・カルダンが,最近造った、「エスパソ カルダン」というイベントスペースを紹介してくれることになった。私は、ルーブルとはいかなくても、正式な美術館での開催を死守しようと思っていたので、あまり乗り気ではなかった。だが、せっかくの好意も断ることができなかった。友人は、パリの実力者の一人である父親に電話をかけにいった。

友人が、席に戻ると、「親父が、カルダンに電話をかけてくれるよ。明日の午後、エスパソ カルダンのガーデンテラスにいれば、カルダンが来るってさ。俺も一緒に行くよ。明日の2時でどうだ。」、と言った。私は承諾した。それから、友人たちの近況や、スノッブな社交人種の悪口を言い、ロンドンの<アナベルズ>で、最近あった、ハデなケンカの話をし、どうして、またモンマルトルなんかに泊まっているんだ、なんなら、家に来るか、と彼はいった。
友人は、今晩 <カステル>にみんなが集まるからと、しきりに誘ってくれたが、「今夜は、予定があるから」と私は断った。


、、、、、今夜は、予定があるんだ。


人と別れた私は、通りの公衆電話を探す。さっきもらったドミニクの電話番号がかいてあるメモを取り出す。ドミニクはアパルトマンにいた。


「アロー、ドミニク?実は困ったことがあって、君に助けてもらえればと思うんだけど。さっき、カフェでお茶を飲んでたら、隣のマダムのワン公に、ブレザーのボタンを全部食いちぎられちゃってさ。マダムがいうには、僕のボタンが、いつも食べてる犬用のビスケットにソックリだっていうんだけど。で、どうだろう、食事をおごるから、ボタンを付け直してくれないかな。僕のホテルの近くに、魚料理のおいしいビストロがあるんだけど、、」
ドミニクはクスクス、素敵な声で笑った、そして、「わかったわ。8時に迎えに来て。、、場所はわかる?」といった。私は、多分、わかると答えて、電話を切った。


私は、ビストロに念のため、予約をいれて、それから、シャンゼリゼにでて、<クリード>で、オードトワレを調合してもらい、いくつか調べ物をして、タクシーでホテルに戻った。

シャワーを浴びて、ミッドナイトブルーのスーツに着替える。ビストロだし、パリ風にネクタイはしなかった。マルカデ通りは、キュステイーヌ通りの一本、裏で、彼女が住むアパルトマンは意外に簡単にみつけられた。通りは、思ったよりこざっぱりしていた。

ドアにはりつけてある、古びたプレートから、彼女の名前を選び出す。呼び鈴を押すと、ドミニクがでて、下に降りるからと短く答えた。現れたドミニクは、シンプルなウールジャージーの黒のワンピースに、ショールを羽織っていて、美しかった。
「あら、ボタンは付いてるのね」と、彼女は言った。それに答えるかわりに、頬にキスするとき、耳元で「ワン」と小さく吠えてやった。ドミニクは、良い匂いがした。本当は、キスをするとき、その柔らかな耳たぶを噛んでやりたかった。


ビストロは、ラマルク通りの坂の途中にある。二人で手をつないで、歩くことにした。
5月の宵は、陽光から夕闇へとかわる、ちょうど境目で、はじめてのデートをする恋人たちにはふさわしかった。
キュステイーヌ通りから階段を上って、ラマルク通りへと抜けるとき、突然、風が吹いて樹々が乾いた音をたてた。


夫婦二人でやっているビストロの料理は飾り気がない分、誠実で、美味しく、彼女はクスクス笑い、幸せな時がすぎていった。

そのとき、私たちは何を話したのか。記憶は、歳を重ねる毎に、曖昧になり、断片的になる。

私は、バスルームに行くフリをして、ホテルに電話をいれた。なにしろ、旧式のパリの宿だった。本当は、映画のゲーリークーパーのように、なじみのフロントに、部屋にシャンパンと小さな楽団でも手配させたい気分だったが、いつもの定宿にしなかったことが、いまさら悔やまれる。

宿を取り仕切っていたマダムは、帰りが遅くなるか、もしかしたら今夜は戻らないと伝えると、不審がって、なかなか理解してくれない、あきらめて正直に、いまガールフレンドと一緒なんだと伝えると、「ウーララ、わかったわ、頑張ンなさい」とあっさり、理解してくれた。パリはアムールには寛大だった。


私は、その夜、彼女の小さなアパルトマンに泊まった。



joli fruit,,,,美しい果実


翌日、エスパソカルダンのガーデンテラスで、友人と軽食をつまんでいると、向こうから、カルダンが王様のように歩いてきた。

このフランスいち金持ちのデザイナーは、しかし、才能の人だった。

カルダンは、思いのほか、若い私たちに親切で、丁寧な口調で話してくれた。私たちは、話が弾んだ。最近、彼が発掘した20歳の美男の小説家のこと(どこか、コクトーとラデイゲを思わせて、気になったが)、そして、彼の右腕である日本人女性に会うことを薦めてくれた、電話をかけておくから、今日にでも、ブローニュの森の彼女の家に行くように。

緑深い、ブローニュの森の、その家には美男子ばかりのバトラー兼秘書が4-5人はいて、年配の日本人女性は女王のように傅かれていた。リビングには、フルコンサートピアノがおかれ、やはり、ハンサムな男がラフマニノフを弾いていた。
その中で、彼女は書類に眼を通し、次々に仕事の指示を出していた。

森の中の家は、秀麗といってもよく、木の床は良く磨きこまれ、黒く光っていた。男の弾くラフマニノフも、劇場で聞いても遜色のないものだった。私は、なんだか、鬼気せまるものを感じた。書類は散らばり、モダンアートの秀作はただ、壁に立てかけられただけで、雑然さはあったが、生活はなかった。ここは、家というよりは、司令塔のような気がする。そして、強い美意識の、何か果てのようなものを感じた。

女性は、ハッキリと趣旨を聞き、的確なアドバイスをくれた。それは、上面をなぞるようなものではなく、具体的で、経験と人脈からでた鋭いものだった。
カルダンにしても、この女性にしても、若くとも才能のあるものには門戸を開こうという強い意思を感じた。
自分たちは、仕事を成し遂げたが、年老いていく。何か、自分たちには、思いつかなかった、美しいものを見せてくれ、、、美に対しては貪欲なのだ。

あまり知られていないが、彼女は日本人、ただ一人のアンリ・カルテイエ・ブレッソンの弟子だった。帰りがけに、自分で撮った写真をカレンダーにしたものを、わざとぞんざいな言い方でくれた。その写真は、パリの風景や、暮らしがモノクロームで切り取られたもので、白黒の風景写真ということで、ブレッソンの影響が強くみえそうになるが、そこには、彼女の確かな視点があった。いわゆる、書でいう「書相」があった。



Toi qui m`aimais , Moi qui t`aimais,,,私を愛していた君、君を愛していた私、、



展覧会の会場は、結局、レアールの再開発で出来た、「パビヨン デ ザール」というモダンな美術館に落ち着いた。

仕事が進展していくのと歩調をあわせるように、ドミニクとの関係は、日増しに深まっていった。


私は、時には彼女が働く劇場に迎えにいき、二人して夕食を一緒に摂り、夜のセーヌを散策した。幾つかの橋には、私たちの名前が、小さくボールペンで刻まれているはずだ。レアールの、その美術館には、下見も兼ねて、一緒にスキャパレリ展を見に行った。日曜には、チュルリー公園の移動遊園地で、子供のように遊んだ。装飾美術館は、二人のお気に入りだった。


しかし、私が日本に戻る日は近づいていた。


出発が、明日に迫った日、私とドミニクは、いつものカフェで待ち合わせた。最後の一日をどう有意義につかうか、相談をすることになっていた。 なかなか、行く先がきまらない。
迷ってるうちに、どうしたわけか、彼女が不機嫌になり始めた。
いったい、いつパリに戻ってくるの、、すくなくとも1ヶ月先かな、仕事の準備があるし、、、それは、何度も話し合った事だった。
あなたは、ズット日本にいるの?パリで仕事をみつけたら?あなたには、できるわ。お友達も多いんだし。私も、劇場をやめて、メゾンで働くわ、、、
ドミニク、それは無理だよ、僕は日本人だ。それに、すぐ戻ってくるさ、、、だが、彼女は、納得しなかった。働き者で、一途なところがあるブルトンの血が現れる。
しばらく、諫った後、彼女は突然立ち上がり、店を出てしまった。


私は、思わぬ展開に呆然とし、しばらく彼女の後姿を目で追うだけだった。彼女のシルエットが逆光で浮かぶ。

私は、アルベルトのように、すぐに彼女を追いかけてやることができなかった。

しばらく、間をおいて、それでも私は、のろのろと椅子から立ち上がる。勘定をしようとポケットをまさぐるが、うまくコインが出てこない。店主は、さっきから察していたのか、勘定はいいから、早く追いかけろと手と目で急かす。私は、やっと正気に戻り、通りに飛び出した。

5月の光が、目に一杯飛び込んできて、私は方向を見失う。最初は、すぐ追いつける、どう取り成そうと思っていたが、キュステイーヌ通りの、偶数番地側にも奇数番地側にも彼女の姿が見当たらない。角を曲がって、彼女の家の方向に向かってみる。やはり、姿はない。家の前までいって、呼び鈴を何度も押すが、応答はなかった。


私は途方にくれた。



そのとき、私は何故か、ホテルに戻って、彼女に電話をいれようと思った。

ドミニクが怒るのも無理はない。若い私には、相手の思いを配慮することに欠けていた。いまとなっては、自分の傲慢さが恥ずかしい。しかし、その時はまだ、電話であやまれば何とかなると信じていた。  結局、私は、この街の一員には成れなかった。


ホテルへと、ラマルク通りに抜ける階段を急いで上っているとき、この前と同じように、風が樹々を揺らして、乾いた音をたてた。それは、どこか彼女の笑い声を思いおこさせて、私は、思わず振り返った。

しかし、階段の下には、人影はなく、陽光に照らされた空虚な空間が、ぽっかりと口を開けているだけだった。


Tu vois je n`ai pas oublie,,, ほら、私は 忘れていない、、、


それから、一年と半年ばかりがたち、私は、チュルリー公園近くのパリの定宿にいた。あれから、私はいつもどおりの生活に戻り、新しい女友達もでき、友人たちとスノッブなナイトクラブに出入りし、あれほどイヤがっていた30間近になっていたが、何も変わっていなかった。


美術展のファイルを調べていると、書類の間から、いつかドミニクが、メトロの入り口で手渡してくれた手帳の切れ端が零れ落ちた。


名前はドミニク、、、住所はマルカデ通り、、、電話番号は、、、


私は、気が付いたとき、すでに電話番号の幾つかをダイアルしていた。呼び出し音が鳴る間、私はドキドキしていた。何を期待していたのか、何を期待するのか。


呼び出し音の7回目が鳴り終わる時、しかし、私は、受話器を戻すことにした。ゆっくりと。戻す刹那に相手が出たような気がして、あの懐かしい笑い声が耳元に思い出された。


結局、臆病な私は、それが自分の傲慢さだと気づくのに、人生の半分を費やした。


、、、どの旅の思い出もまざりあい、手触りを失って、都合の良いノスタルジーへと姿を変える、、、



copyright 2005 Ryuichi Hanakawa
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by rikughi | 2005-05-24 00:23 | モンマルトルの恋人

「六義  コレクション帖」  2 フルモックアップ と フィッテイング


「フルモックアップ」 六義


體に六義有り。
一は則ち情深くして脆ならず、二は則ち風清くして雜ならず、三は則ち事信にして誕ならず、四は則ち義直にして回ならず、五は則ち體約にして蕪ならず、六は則ち文麗にして淫ならず。
( 「古畫品録」 )



d0004856_21232312.jpg「六義」という名を 不思議に思われる方もいらっしゃるが、この名は、「古畫品録」という 古い本の 一文に由来する。
これは、極く、大雑把にいえば、画、書をする者、観る者への教えの書、戒めの書だが、我が家は、ヨホド、これが気にいっているらしく、小さい時分、諳んずることを強いられた。
その意図は、痛いほど、分かるのだが、どこか盆栽作りに似た、人工的なイヤラシサを感じて、私の代になったら、すべてヨスことにしている。 この時代、男は、他にモット、学ぶべきことがある。盆栽の美しさより、形は拙くとも、たくましい野生の大樹に成ることが尊いと思う。



大久保とロンドンで、出会い、二人して、銀座に店を開く事になったとき、浮かんだのは、しかし、この名だった。(教育というのは、凄いナ。)

名は、体を表す、、、マーケテイングやら、デザインやら、カタカナが多いことを生業としていたから、「それらしい」洋風の名前も、ハヤリにのったゴマカシも、捏造できたろうが、そンなモノは、ウソッパチだと知っている。
らしくない名かも知れないが、これから、やろうとしていることの「所信表明」としては、これ以外、ふさわしい名を、思い浮かばなかった。



「フィッテイング コンセプトのある靴屋」 


オッ、この旦那は、紳士だ。
、、、上等な靴を、履いてラッシャる。

(映画「マイフェア レデイ」、 コベントガーデンの花市場での出会いの場面より)


その昔、上等の注文靴を履いていることは、紳士の、第何番目かの条件だった。だから、注文靴屋は成り立っていた。

それが、60年代あたりから、需要と供給のバランスが崩れ始め、もとより、経営ノウハウのなかった注文靴屋は追い込まれていく。

「経済」と「質」のジレンマのなかで、この時代あたりから、注文靴はバラツキが出始める。

ロンドンの靴づくりを、例にとると、ここでは、完全な分業体制がしかれていて、有名な靴屋といえど、最初から最後まで、自社のワークショップで靴を完成させるところはない。
大概、よくて、ラストとパターン、クリッキングまでで、クローザー(アッパーを縫う=製甲)、シューメーカー(底付け)は、アウトワーカー(外注)ということになる。
ここで、問題なのは、本当に優秀なアウトワーカーは、ロンドンでも限られており(クチウルサイ人は、3人だけだという)、ここに、ロンドン中の各靴店の注文が重なっていくことだ。 当然、それでは、注文はまかないきれないから、他のアウトワーカーにも発注は流れていく、だから、同じ店に頼んでも、客によって、質が異なるというコトになる。


私は、ヨーロッパで靴を頼むときは、アウトワーカーを指定するか、総ての工程において、AAAクラスの技量をもち、自社のワークショップ(それも、1920年以前に創立された)内で完結できるアトリエ(いまや、稀で、信頼できるのは2軒となった。)に、頼むことにしている。

1920年以前というのは、大恐慌前のヨーロッパだけが、エレガンスというのが必然で、そのために金を浪費できた社会だっただからだ。

この時代には、スタイリッシュな顧客(当然だが、すべての顧客ではない)が、スタイリッシュな靴、、、これも、すべての靴ではなく、稀に、ラストのあり方、パターンの秀逸さ、など、現在とは違うものがある。ウイーンのヘルメスウ”イラの博物館でみた、1910年代のナポリでつくられた、散歩用のブーツは、素晴らしくエレガントなラウンドトウをしていた。それは、クラッシックなものだが、ロンドンの形とも違う。何故か、ローマのベッピオという老人が、いまも作っている靴のトウは、これに似ている。、、、を注文していた。この時代に、創業した店には、その資料が残っているはずだ。


個人的には、ロンドンはアキラメタ。
ここ、数年のロンドンをみていると、どこかマズイ雰囲気を感じる。

たとえば、長い間、紅茶は、外で飲んでも、「20ピー」(20ペンス=40円、紅茶は万人のもので、値段は別物と英国では考えられていた。)ぐらいのものと決まっていた、それが、いまや2ポンドぐらいする。昼につまむ、サンドウイッチが、これも3ポンドぐらいはする。それで、タクシーの運チャンは、マイドリンク、マイ弁当を持参している、(日本食のテイクアウトが流行っていて、若い子が「ベントウ」という日本語を知っているのが、妙だった。)高くて、外で食べられないと言う。しかし、市場で買う食料品は、日本に比べて格段に安い。日本より、安い食料品が、加工されると、日本より、高くなる。

つまり、店で買うと、人件費や家賃で、そんな質でもないものが、高くなる。これでは、買う人が少ない、だから、又、高くなるという悪循環。街角でみた、この小さなフレームは、いまや ロンドンのすべてのものに あてはまっていくと思う。


多くの店で、靴を注文してみて、気がついたのは、明確な 「フィッテイング コンセプト」を持つ靴屋が、意外に少ないということだった。これは、何故か、指摘する人が あまりいない。
ほとんどの店は、「メジャリング」だけで、作ろうとしている。

せっかく「ビスポークした」のに、足にあわない、という人がいる。チャント、採寸してもらったのに、と。しかし、残念ながら、各部所のメジャリングのみで、ラストを削っても、万全な靴はできない。立体にあわせるという難しさと、歩くという行為を忘れている。これで、仮縫いも、いいかげんで、或いは、仮縫いナシとなると、合う靴ができるほうが、奇跡といえる。
靴を足にフィッテイングさせるということは、かなり具体的な作業で、魔法のようなものを、期待するものではないと思う。

これは、テーラーを考えてみれば、分かりやすい。優れたテーラーは、フィッテイングに対する考えを持っている。採寸のみで、スーツをつくっても、それは格好の悪い、着づらい服になる。フィッテイングとスタイルを確認するために、スーツは、何度も仮縫いをし、中縫いもするのに、何故、靴には、「奇跡」を期待するのだろう。
それに、スーツは、ただ着づらいだけで終わるが、合わない靴で歩いていると、下手をすると足の変形を招く。第一、歩きづらいと思う。

ヨク、「靴を慣らす」といわれるが、アレは、「靴が壊れ(或いは崩れ)」はじめているダケだと思います。一般に、既成の靴は、コワレル(クズレル)ようにできている。その過程で、偶然、足にフィットしたような気になるが、しばらくたつとユルクなり、本当にコワれ(クズレ)てしまう。
ただし、既成靴と注文靴は別物で、値段も違えば、構造も違う。比較するものではないと思います。

本物の注文靴は、履いて2時間ほどたって、革が体温で温まり、フィット感が一度、変る以外は、何年たっても履き心地が変らないものが、理想とされている。
チョット、考えてみれば分かることだが、わずか数ヶ月、数年で履き心地がかわってしまっては、ワザワザ、仮縫いをし、フィットさせる意味がなくなる、というものだ。
履き心地が変らない、崩れないことに、良い職人は、誇りを懸けている。

或る靴屋では、ワニ皮の注文は受け付けないコトにしている。それは、釣り込む力が、かなり強く、ワニ皮では、斑のところが切れてしまうからだという。長年、履き心地が変らない靴をつくるためには、この強力な釣り込む力が必要なのだという。実際に、ラストに釣り込まれたアッパーの履き口を、指で弾いてみると、弦のように鋭い音がした。

できあがって、試着してみて、不都合があれば、具体的に修理に出すか、作り変えるか、或いはアキラメルしかない。スーツも同様だが、靴は特に、当初からフィットしているべきモノで、「履いているうちに、慣れて、足に合って来る」という、曖昧な、マジックのような事は期待すべきことではナイ。


「明確なフィッテイング コンセプトとは」


大久保と、2年間の準備期間で話し合ったのも、この「フィッテイング コンセプト」だ。
先ず、「ストロング フィット」を、基本線とした。

巷間、タイトフィットとかコンファタブルとかいわれるが、これは曖昧で、意味がないと思う。多分、採寸をもとに、それから何ミリ、逃げるかということなのだろうが、これでは、ユルクなるか、キツクなるかだけで、快適でスタイリッシュな靴をつくるために、どうするかという、コンセプトがない。例えば、タイトだが、コンファタブルとしたときに、はじめてフィッテイングのコンセプトが浮かびあがってくるのだと思う。

「ストロングフィット」(呼び名の是非は、ともかくとして)というのは、シェアのマルクスも時折、使う言葉だが、歩行にあわせて、フィットさせるべきポイントは、キチンと皮膚についていかせるということだ。これは、言葉では、タイトフィットと似ているように思うが、全く次元が違う。

ポイントの割り出しがモット明確で、どこをフィットさせるかということに、意志があり、コンセプチャルなのだ。実際、タイトフィットといわれて、造られた靴には、往々にしてポイントは緩かったりするモノがある。
また、どこもかしこも、フィットさせれば良いかというと、それは、余裕のない靴になり、快適な履き心地とは縁遠いものとなってしまう。

ここからは、言葉で説明するのは、正直いって難しい。実際に靴をみながら説明するしかない。ただ、基本は、カカトと甲、土踏まずをフィットさせ、足指は開放してやる、ということになる。

これは、言葉でいうと簡単だが、ひとつ、ひとつを明確にしていく作業というのは根気と集中力がいる。立体だから、矛盾は、当然、起きてくる。

言葉で伝えられえる範囲でいうと、カカトのフィットは歩行において大事で、それも単に小さくするのではなく、運動を考えてアキレス腱をつかまえなければならない。六義のラストは、昔、トウーゼックが試みたように、ヒネリを加えてあるが、日本人の足を考慮して、ウイーン風のバナナラストのあり方もとりいれてある。これに、履き口が浮かないよう、足首に沿ったラインをつくったので、かなりオリジナルなものとなった。

足裏も、平面でなく、できるだけ、くるむ形にするため、土踏まずには瘤が用意されている、、、


「メジャリング」ではなく、「フィッテイング コンセプト」というのは、靴というのを、全体で、どう捉えるかということで、その靴屋の 大げさにいえば、哲学とも言える。この手間を惜しまない、哲学とかコダワリが、いまや、希薄になっているように思う。そして、その希薄になるやり方が、少し、ズル賢くなったような気がするのは、私がヘソ曲がりだからか。


「ハウスラスト」 

これを、基本としてハウスラストをつくることにした。いまでは、老舗といわれるところでも、既成のラストをつかっている処が多い。 しかし、独自のフィッテイング コンセプトを明確にするということは、どうしても、オリジナルのハウスラストが必要だった。


「日本人にあった木型」というのがよく聞かれるが、日本人と欧米人の足は確かに違うと思う。ただ、ともすると、「幅広」というポイントのみがクローズアップされるようだけど、むしろカカトが小ぶり(薄い)だと思う。私が、ヨーロッパで注文した経験からいうと、多くの靴屋で、フィッテイングの際、カカトのフィット(ゆるさ)が気になったことからも、そう思う。


六義の店に並ぶ、オーダーサンプルを良く見て頂くと、ラストがすべて、少しズツ違うのに気づかれると思う。このハウスラストは、数十回、改良されている。

もうひとつは、フィッテイング(仮縫い)である。いかに、天才的なラストメーカーでも、採寸だけではフィットさせるラストはつくれない。これは、動かしようのない事実だ。







「六義」のフルモックアップ 

色々、考えた末、六義では、フルモックアップをつかって、フィッテイングを行う事にした。
本縫い用と同じ革を使い、サイドライニング、つき芯をいれて、本縫い同様、釣り込む。ソールがコルクでつくられる以外は、ほとんど完成品に近い状態でフィッテイングチェックができる。
コルクソールも、完成時をイメージできるように、ベベルドウエスト、ピッチドヒールを再現し、ヒール形状、ウエストの形状を確認できるようになっている。雰囲気を掴むため、コバは黒く塗られている。もちろん、両足つくられる。
フィッテイング時には、つま先部分をカットし、靴の内部での、足指の収まりを確認する。
このモックアップは、フィッテイング後には壊され、ラストの修正を行ったあと、新たなパターンを組みなおし、革も新たに クリッキング(カット)される。(下段のものは 欠点が分かりやすいように、白い革を使用している。)



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六義 銀座

東京都中央区銀座一丁目21番9号 箱健ビル1階
電話 03-3563-7556











copyright Ruichi Hanakawa photo by T.Okubo  「書」 Aya Kakogawa 

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by rikughi | 2005-05-16 21:28 | 2. 「フィッテイング」

「男の躾け方」 2  睡眠




「、、、吸血鬼とダンデイは、眠り にもスタイルを持っている。」
( 百歳堂 敬白 )




d0004856_19354865.jpg近頃、「眠り」に悩みを持つ人が、多いという。「眠ること」に迷う社会というのは、不幸だが、それよりも気になるのは、あれほど日中のドレスには気をつかうのに、「眠る」ときのスタイルにコダワル人が少なくなったということだ。

いまの男は、「眠り」を楽しむことを 忘れてしまったようだ。
快適な「眠り」は、それを「育てる」必要があると、私は、教わった。合いふさわしいスタイルで、「眠り」を迎えることは、男の暮らしぶりを計る尺度であり、また密やかな愉しみでもある。

ノエル・カワードは、トレードマークとなったシルクのドレッシングガウンをシュルカで誂え、当時、最先端の アールデコの軽快なベッドルームを準備した。 多くのダンデイ達は、快適で贅沢な眠りを求めて、胸に大きなイニシャルを入れた絹のパジャマをもとめた。(夢のなかでも、自分の名前を忘れぬよう用心したのか、どうかは知らないが、それが流行った。)

「眠る」スタイルを見失ったときから、人は「眠り」に裏切られ、格闘をはじめるのだと思う。


贅沢な 眠りを 求めて、、、 私は、リストを片手に、パリの或る店を訪ねた。この店には、私を手助けしてくれるプロが揃っているという。 頼もしいではないか。



パリのモンターニュ通りに、この店はある。ここには、世界中から、「眠り」のエピキュリアン達が集まってくる。この店に、お世話になった人には、フレッド・アステア、ジョセフィン・ベーカー、ウインザー公爵夫妻などがいる。スノッブなアガ・カーンも顧客だったに違いない。

数年前に、モンターニュ通りは、改装され、また、それに合わせて 模様替えをした店も 多いが、それでも 黒と金に塗られた柵が並ぶ この通りは 昔の面影を残している。ここに、並ぶ店は、もとは 大貴族の館だったのだ。広い通りの向こうには、エッフェル塔が一望でき、通りの真ん中あたりには、プラザ・アテネが、フランソワ一世通りとぶつかる手前には、シャンゼリゼ劇場がある。

この通りには、私の お気に入りのレストランが2軒ある。

ひとつは,鳩料理が有名な、きわめてクラッシクなフランス料理が味わえる店で、ここは、いまだに 男の客にはネクタイの着用を義務づけている。パリに残された ブルジョワの牙城のひとつだ。
鳩は、日本人には好みが分かれるところだが(それに、この店の入り口の待合には、供される鳩が、わざわざ 鳥かごに飼われて 客を迎える。気弱な日本人女性を、連れて行ったときには、たとえ、この鳩の由来について、薀蓄を傾けたいという誘惑にかられても、それは避けた方が賢明だ。)、それ以外の 料理も手抜きがない。
この店には、女性のソムリエがいて、この人の真摯な仕事ブリには好感がもてる。ワインリストも、よく勉強されたもので、選ぶ際、客が尋ねれば、控えめに、真面目に 色々教えてくれる。この会話は楽しい。望めば、珍しいものも味わえる。

もう、ひとつは、数年前に出来た店で、シャンゼリゼ劇場の上にある。新鋭、花形シェフの セカンドラインとしてオープンした、モダンキュジインヌの店だが、料理、サービスともに、悪くない。なにより、日曜もオープンしているのが 有難い。パリで、日曜日に開いていて しかも、グルマンの舌を満足させる店を探すのは、至難の業なのです。シャンゼリゼ劇場の 素っ気無いエレベーターを使って店にあがるのも、どこか秘密めいているし、白づくめのモダンなインテリアも、よく訓練された しかし愛想の良いスタッフと合わさると 居心地の良いものとなる。大きなガラス窓から 臨む パリの夜景も美しい。



大雑把に分類すると、この店は「ハウスリネン」の店ということになる。第一次大戦後に、開店したはずだから、18世紀からつづく御用商人という訳ではない。
それが、ホワイトハウスに納めるまでとなったのは、ひとえに クリエイテイブ力溢れ、執拗に質に拘った 初代の女性当主の手腕による。 

店にはいると、山と積まれた タオルの類や、色別、サイズ別に分類されたシーツに 目がくらみそうになるが、ココハ 落ち着いて 奥の顧客用の 椅子にドッカリと座るコトだ。
そして、あなたは、「ベッド リネンを 一式 頼みたいのだが」と 告げるだけで良い。

ソウ、この店は、家のあらゆる用途のリネンを特別注文できる オートクチュールメゾンなのだ。

店に並ぶ既成のものでも、充分、こと足りる。しかし、この店の 真骨頂を味わうためにも、思い切って、自分だけの特注品をオーダーするのを お薦めする。その理由は、この店のパリ郊外のアトリエに、あなたのために控えている 専属のデザイナーと職人のチームの仕事ぶりにある。 
この店が、評判をとったのは、それまで白一色だったハウスリネンの世界に 華やかな色と いかにもパリ、クチュールの伝統を彷彿とさせる 刺繍の妙味を 持ち込んだことにあるのだ。

サザビーズのオークションカタログに残る、ウインザー公のリネン類も、この店によるものだ。 リネンに施された 公のイニシャルと文様のデザイン画は いまも、このアトリエに保管されている。

ここでつくられる特別製のリネン類は、、、夏の夜、ヒンヤリと優しく、迎えてくれる 麻100%(シャツに仕立てたいと思ったほど、しなやかで、目が詰まったものであった。多分、特別に織らせたものなのだろう )のシーツの感触、凍えるような冬の夜に、滑らかに、かつ豪華に包み込んでくれる、シルクが混ざった、コットンやウール、そして絹のシーツ、、、 思わず、頬ずりしたくなるものだ。

これは、実際に体験した人しか知りえない愉悦である。

もちろん、シーツや、ピローケースなどに入れられる イニシャルも デザイナーの手によって、顧客ごとに,図案化される。
王冠をいれるのは、どうかと思うが、魚や、動物、スクロール模様などを組みあわせて、独自のものを頼むのも楽しい。何を頼んでも、上品に仕上げてくれるので、要望を伝えて、あとは まかせてしまうのが、良いと思う。

数週間たつと、全体のコーデイネート案と、それらに 刺繍する 図柄のスケッチ(このスケッチ自体も、額にいれて飾りたくなる程のものだった。)が送られてくる。

私は、秋冬用の イエローと マロンをアクセントにした一式と、夏用の 薄いパウダーブルーと、これも、イエローをアクセントにしたものを 頼み、リネン類と同じイニシャルと図柄が入った、パジャマとバスローブも 合わせて頼むことにした。

請求書は、思わず、目をつむりたくなる額に達していた。しかし、意外と長持ちすることや、なにより、見事にコーデイネイトされた ベッドルームが 毎夜、エレガントな眠りを保障してくれることを 考えると、これは、安い投資なのだ、、、、と、ナンとか自分に言い聞かせることにした。


 
 私の注文ができあがるまで、親身になって、いろいろと連絡をくれたり、我が侭な私の要望について アトリエとの橋渡しをしてくれた、2代目当主は もの静かな紳士だった。
私は、いつも気になっていた質問を、この人にも、投げかけてみたくなった、、、「安眠のコツというのは あるのでしょうか?」
彼は、いつものように 心底、真面目に考え込んでから おもむろにコウいった。

「、、やはり、、眠りたいときに 眠る、 ということでしょうか。、、」


、、、、今夜も、貴方に 安らかな眠りが 訪れますように、、、、、









贅沢な眠りを求めて、、、、
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「六義」
中央区銀座一丁目21番9号
phone 03-3563-7556 e-mail bespoke@rikughi.co.jp
copyright 2005 Ryuichi Hanakawa

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by rikughi | 2005-05-11 19:37 | 2 「睡眠」

「男の躾け方」 1  洗濯



ある Old School Boy氏の話、
彼がはじめて、バレット(主人の身の回りの世話をする召使、服など身支度の一切を管理する)をつれずに、旅行したとき、、、朝、ドレッシングルームで 何故、今日に限って 歯ブラシが泡立たないのか 訝しく思った、、、彼は、歯ブラシに歯磨き粉をつけることを 知らなかったのだ、、、( 実話です! )




d0004856_0182624.jpg少し前の日本には、男子の育て方というのが、確実にあった。
別段、それが良かったというほど復古主義でもなく、有難いとも思っていないが、私は、そういう教育を受けた。
多分、そういう時代の最後尾あたりに、私の世代はあるのだと思う。最後尾の悲劇は、そういう育てられ方をされたにもかかわらず、いざ成年に達した時には、そういう時代が終わっていた、ということにある。


そういうわけで、一人暮らしを始めた時、私は、自分に「生活するテクニック」が欠落していることに気づかざるを得なかった。
、、、夜、帰ってきて、ソファに脱ぎ捨てたシャツは、朝、起きたときも、そのままの形で、ソコにある。椅子にすわって、待っていても、「御目覚(おめざ)」のモーニングテイーはあらわれない、、、、

これが、良き時代ならば、脱ぎ捨てられたスーツは、丁重に、蒸しタオルで、一日の汚れを清められ、主(あるじ)の体つきに合わせて、綿で補足された特別製のハンガーに、イツノマニカ、安置されている、シャツも、また、即座に、手厚く、手洗いされていることだろう。そして、朝、8時半には、控えめなノックで起こされ、ベッドのなかで、モーニングテイーを味わう、、、残念ながら、そういう時代はオワッテいた。


私は、自力で「マットウな生活」を送れる 技術を学ばねば ならなかった。


手始めに、「洗濯」から試みることにした。
とりあえず、私は、洗濯すべき リストをつくってみた。ただ、シャツを 自分で洗うリストに加えるか、クリーニング屋に出すものとするか、迷った。



それで、当時、シャツを頼んでいた、仕立て屋のジョージに 聞きにいくことにした。ジョージは、ケーリー グラントのシャツを作ったというのが自慢の、、、モウ、60歳を越えていたが、、、元気な、面白い人物だった。

彼は、長年、サビルローの顧客のために、シャツをつくっていたが、いまは、半引退といった身分で、昔からの顧客に限って注文を受けていた。顧客は、ジョージと 彼の作るシャツを愛していた。だから、彼が、ウエストエンドから離れて、自宅の一室に ワークショップを移してからも 顧客は 彼の居所を探し出して 足茂く 通った。質素な、下町の家の前には、およそ不釣合いな、コーチワークされた特別製のロールスや、ベントレーが いつも留まっていて、道行く人を不思議がらせた。

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私は、夏も終わりの ある日、手土産を携えて、ドライブがてら 彼の家を訪問することにした。
ジョージに白羽の矢を立てたのは、シャツを頼んでいただけでなく、彼も、一人身だったことにもある。息子夫婦が近くに住んでいて、その奥さんが 身の回りの世話をしていたようだが、ジョージは ひとり暮らしを楽しんでいた。
時折、愛車を駆って、郊外にでかけるのを趣味としていて、雑然とみえる住まいも、男の住処としては かえって居心地が良さそうで、快適そうにみえた。

私には、たのもしい先達と 映ったのだ。

ジョージは、ドアが開くなり、「マイボーイ、、」という陽気な嗄れ声とともに、気さくな抱擁で 私を迎えてくれた。


この人は、どこか異次元にいるような人で、イギリス人の典型では掴み切れない処がある。挨拶の抱擁というのも、英国では珍しいし、ロンドンの職人というと、ジミで頑固で、ちょっとイジワルな所があるのが相場だが、ジョージは自由奔放といったところがある。

それが、この人の「チャーム」なのだ。それは、お上品なものではなく、下町のチョット、ワルな 面白さ だと思う。一度などは、裁断台の隅に、イエローペーパー(エロ雑誌まがいの、、)を、見つけた。

ところが、この人のつくるシャツは昔風の、素晴らしくエレガントなものだった。シャツづくりも、ロンドンでは分業制が当たり前だが、彼は最後の仕上げまで、すべて 一人でやりこなしていた。それも、ミシンを使わず、すべて手縫いで、、。隅から隅まで、手縫いでつくるシャツ職人は、ロンドンでは、後にも先にも、彼以外に 私は知らない。それに、あらゆる種類、あらゆる時代のシャツを知り尽くしていた。

私が、彼につくってもらったシャツは、例えば、30年代風の イカ胸部分だけ ホリゾン(横)ストライプにしたものや、彼が「パジャマスタイル」と呼ぶ、ポロシャツのように 被り式のもの。これは、ボデイがコットンフランネルで、衿とカフ、そして ちょうどスーツのVゾーンから覗く部分だけ ストライプのポプリンで出来ている。これは、冬のカントリー用のシャツなのだが、私は、気にいって、これと同じスタイルで タウン用のものを幾枚か頼んだ。


最近 ウエストエンドに住む、老婦人から譲り受けたという、20年代のシルクの生地について、面白い話を聞いた後、私は、件のシャツの洗濯について 切り出した。、ジョージは、最初 変なことを聞く日本人ダト 訝しい表情をしていたが、事情を察して、丁寧に だが 彼流におしえてくれた。 、、そして、その後、イギリス人が 外国人に もっとも教えたがる 「正しい」お茶の入れ方を 彼が講釈し始めたのは もちろんのコトだ、、、


ジョージ流の 男の洗濯方、、、

その1   マズ、洗剤を適当なビンに適量、詰め、お湯を加えて 勢いよく シェイクする。いわば 洗剤の濃縮ジュースをつくる。これは、洗剤が溶けないまま シャツにくっつくのを防ぐためだが、今の日本では、液体のコットン用洗剤が売られているから それが便利だ。

その2  帰宅して、背広を脱いだら、そのまま バスルームに直行するコト。そして、バスルームの洗面台に、30度ぐらい(つまり、シャワーと同じぐらいの温度)のお湯をはり、そこに この濃縮ジュースを スプーン2-3杯ぐらい垂らして、よく混ぜる。
そして、シャツを脱いで、裏返しにし、その中に、ほおり込む。2-3度 押し洗いして 万遍なく シャツに洗剤を染み込ませる。ついでに、ソックスとトランクスも ほおり込む。
気をつけるのは、洗剤をいれすぎないことで、入れすぎるとすすいでも シャツに洗剤が残る事もあるし、第一 いっぱい いれたからといって、効果があがるものではない。

その3  シャツのコトは忘れて、シャワーを浴びること。この時点で、アナタは、真っ裸なはずダカラ、、。充分、今日一日の汚れを落とし、リラックスすること。バスタブに浸かり、しばし 瞑想スルもヨシ。

その4  充分 リラックスしたところで、バスローブをひっかけ、シャツを押し洗いする。決して、揉んだり、擦ったりしてはいけない。 洗面台の底に 押し付けるように洗う。汚れのつく、衿とカフスは 広げて お湯の中で何度かヒラヒラさせて 汚れを押し出す。
衿の汚れを 気にしすぎる人がいるが いまの洗剤は強力だし、いつも こうやって スグ洗っておけば、汚れはおちてしまう。
シャワーを浴びるぐらいの間 つけおき するのがコツで、汚れを 自然に浮かせることができる。 ただ、長い間 つけおき すれば 良いかというと そうではなくて、 かえって、生地にダメージをあたえる。せっかく 手洗いする 意味がなくなるというものだ。

その5  洗剤液をながし、よくすすぐ。このとき、はじめと同じ温度のお湯で、何度かすすぐことが大事で、つまり 洗濯の最初から 最後まで 一定の 温度を保つことが 生地のダメージを防ぐ。このときも、押し洗いすること。

その6  さて、すすぎ終わったら、マットウな形の ハンガーを用意する。マチガッテモ、クリーニング屋から かえってくるときについていた針金のものナドは使わないコト。シャツは、洗う時、裏返しにしたハズだから、当然 表に戻してやる。
通常、バスタブの上には、洗濯物を干せるように、ポールが渡してあるから、これにハンガーをかける。これは、下手に外に干して、紫外線で 色が変ることを 防ぐためだ。
ここで、重要なのは、決して シャツを絞らない事だ。 つまり、ビチャビチャな状態のまま ハンガーにかけること。ここが、ポイントです。当然、雫は 垂れるが、下はバスタブ、気にする事はナイ。絞らないのは、生地に余計なダメージを与えないためだ。
ソックス、トランクスも 同様に 絞らず、干す。

その7  ひと仕事、終わった。もう、洗濯のことは 忘れて、そのまま 安らかに眠るもヨシ、趣味の将棋の千日手に挑戦するもヨシ、、、、

その8  朝、起きて バスルームにいくと、昨日のシャツは、ほとんど乾いている、絞らず、ハンガーに干したので、そのまま着ていけるくらいだ。 本当は、まだ 充分に湿り気がある状態(英語では、dampと表現する)で アイロンをあてることを ジョージにはすすめられたが、私は メンドウなので、乾いたところで、そのママ、クローゼットにしまうことにしている。必要なときに、アイロンをあてれば良い。
ちなみに、シャツは スーツと同様 ハンガーがけで 収納するのが良いと思う。 場所は とるかもしれないが、畳んでレンガの様に 積み上げると、結局は取り出しにくいし、第一 畳むのは意外にメンドウだ。


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それから、1年ほどたった頃、見知らぬ女性から電話をもらいました。
一ヶ月ほど旅行にでかけ、ちょうど帰ってきたところで、最初は怪しく思っていたら、電話の主は、ジョージの末の娘さんでした。

「実は、父が数週間前に亡くなったのです。とても、、急なことでした。父の顧客ノートに、あなたの名前があったので、何か し残しの ご注文などあったのではないかと思い、ご迷惑かと思いましたが、ご連絡をとらせていただきました。何度か、電話をいれさせていただきましたが、ご不在だったようで、、、」


大腸ガンだったという。手術の間際まで、元気に 看護婦さんに冗談をいっていたが、既に 転移がはじまっていた。結局、手術後 間もなくして 亡くなったという。

私は、こうした場合、誰もが つぶやくように、信じられなかった。
ほんの、ひと月半前に、私は、ジョージを訪ね、新しいシャツを頼んでいたところだ。そのときは、いつもどおり 陽気な姿だったのだが、、、「旅行から 帰ってくる頃には、シャツは仕上がっているから、、」、それがジョージの私への最後の言葉となった。


翌日、とり急ぎ、ジョージの家へと向かった。娘さんが、待っていてくれた。
私を惹きつけた、快適で、楽しそうだった部屋は、主をなくして、途方にくれているようだった。

お悔やみの言葉をいい、故人の思い出を語る。私が頼んでいたシャツは、彼女が、ズイブン探してくれたが、結局、みつからなかった。残念だ。彼女も、残念がって、「その代わりといっては何ですが、父の残した物で、なにか気に入るものがあれば、思い出として持って行ってください。 故人も喜ぶと思います、、何でも、持って行ってください。」

そういわれて、躊躇したが、私には思い入れの深い人だったので、厚かましいとは思ったが、前にジョージが話していた、20年代のシルク生地のひとつと、分厚いボール紙でできた衿型をひとつ、頂いた。

裁断台のうえには、黄ばんだ古いノートが残されていた。ジョージ自身が描いた様々なスタイルのシャツのスケッチと、衿の形、多分、型紙の一部と思われる不思議な図形と、記号のようなもので、それは埋め尽くされていた。私は、陽気なジョージのもうひとつの顔、自らを鍛錬する職人としての一面を見たような気がした。 

「、、旅行から帰ってくる頃には、シャツは仕上がっているから、、」

私は、ちゃんと旅行から戻ってきたが、ジョージ本人は、戻らぬ旅に出掛けてしまった、、、。私は、お墓の場所を尋ね、心ばかりの花を手向けた。









男の洗濯方、、、
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by rikughi | 2005-05-05 00:18 | 1 「洗濯」