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「大人の お伽噺」 2 スノッブ



 
「プルーストが、その不朽の傑作『失われた時を求めて』のなかで作り上げた人物、スワンは多分、文学史上、最も完璧なスノッブだった。
彼は富と名声に恵まれ、類稀な審美眼を持ち、人を魅了する話術に長け、芸術的才能があった。

、、、しかし、ただひとつ、彼に欠けていたのは『貴族』という称号だった。」
( 百歳堂 敬白 )
 






チャールズ皇太子をソウ呼ばないが、同じぐらい金持ちだったアガ・カーンはソウ呼ばれた。サー ローレンス・オリビエは、ソウではなかったが、チャップリンは多分、ソウだった、、、「スノッブ」、、、


「スタイル」とともに、近頃、よく使われる言葉に「スノッブ」がある。
しかし、使われる割には、「スノッブ」という言葉の意味は、少し曖昧で、使う人もハッキリと把握できていないのではないだろうか?

この言葉で、いつも疑問に思うのは、はたして、これは褒め言葉なのか、或いは人を揶揄する言葉なのか、ということである。


この言葉を、例えば、身近な使い方で探ってみると、、

バスや地下鉄を使って気軽に行ける場所に、ワザワザ、タクシーを使う人を、ロンドンでは「スノッブ」という。

その一方で、大金持ちや、大貴族は運転手付きのロールスに乗っていく。しかし、この人たちのことを、決して「スノッブ」とは形容しない。


つまり、「スノッブ」というのは、階層的にセイゼイ、ブルジョワまでの言葉で、ハイソサエテイーの間で取り沙汰される形容詞ではないことがわかる。

プルーストが、完璧な「スノッブ」であるスワンに、貴族の称号をもたせず、一人のブルジョワとしたのも当然で、これは、「スノッブ」という言葉の由来を探れば納得できる。


「スノッブ(Snob)」(英語の発音としては、スノブ)という言葉は、ラテン語のsine nobilitate(シーネ・ノビリターテ= 貴族にあらず)を縮めたものだからだ。


この由来からも察しがつくように、これは案外に大きな矛盾を孕んだ、皮肉をもった言葉で、これが生まれたのが、やはり大きな矛盾を内包した時代、ベルエポックであったことも頷ける。これは、時代の変容と、それに伴う矛盾から生まれた言葉で、人間が考えた形容詞のなかでは、その「意味の複雑な味わい」において、逸品といえる。




「貴族に あらず」 


誰しも、不思議に感ずるだろうことは、「スノッブ」の由来が、「気取り屋」とか、そういう直接的なものではなく、『貴族にあらず』という意味深な語源を持つということだ。


ウイーンの出版社から発行された「ベルエポック」という古い本(ブダペストの古本屋で偶然見つけた この本は、ベルエポックの真実を知るには興味深い記録だった)には、この時代にスノビズムの風潮が社会現象となったことは記載されているが、残念ながら、誰がこの言葉の名付け親なのか、どのようにして、この言葉が生まれたのかについては触れていない。私は、この言葉の名付け親を探そうと、ズイブン探してみたが、あいにく、明確に記述している「記録」には、いまだ、めぐり会っていない。





スノビズムの特徴は、趣味やスタイルに拘る「知性」とともに、一種の「軽薄さ」が巧妙に交じり合っていることだと思う。


「軽薄さ」というのは、逆から見れば、それまでの貴族が、伝統的な慣習や、体裁に、がんじがらめになっていて持ち得なかった、「軽妙さ」、「洒脱さ」、或いは合理性と置き換えられないコトもない。

例えば、それは、ウインザー公が、トラウザーズのボタンフライを止めて、ジッパーを採用し、しかし、誰よりもエレガントであったこと、そして王位を、ボタンフライと同じぐらい「不用意」に捨ててしまったことが象徴しているように思う。

そして、恋の成就のために、王位を失ったウインザー公は、かわりに、(本人が望んだか、どうかは分からないが)、「スノッブ」の「王(キング)」として、それ以来、世界に君臨することになる。



明確な由来を記す記録には、辿りつけなかったが、私は、ある日、スワンと同じように、或いは、それ以上に「完璧なスノッブ」と呼ばれた人物に「出会った」。




「ベリー・ウオール  King of Dandies」


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多分、ヨーロッパのどこかの競馬場で悠然と構えている、この老紳士は、グレナカートチェックのスーツにレモンイエローのウエストコート、そして優雅に絹のスカーフを結んでいて、いかにも先祖代々の大馬主といった様子だが、しかし、生粋のヤンキーである。

アメリカの大富豪にして、そのダンデイズム溢るるライフスタイルから、「Last of Victorin Dandy」、「King of Dandies」と呼ばれた、この人物の名を、ベリー・ウオールという。


独特なスタイルをもっていて、常にウイングカラーの特別製のシャツに、幅広のストライプか、水玉のボウタイを結び、足元には、後年、彼のトレードマークともなった紫色のスパッツを着けていた。


私が、ウオールに先ず興味をひかれたのも、彼の、この独特な「ラウド(派手な)スタイル」にあった。

例えば、英国で発刊された、「History of Men`s Fashion」には、ドーウ”イルで写された彼の姿がある。

その時の彼は、ハウンドツースのジャケット(袖にカフがついた2ボタン)に、白地に変りストライプのトラウザーズ、足元はコレスポンドで、ウイングカラーのシャツにブラック&ホワイトのストライプのボウタイをゆるく結び、変った形のパナマを被っている。

言葉で書くと、どう捉えられるのか不安だが、実際は、「思う存分、優雅な、自分勝手な生活を愉しんでいる」ように見えた。

ウオールの体型が、少しズングリと恰幅が良く、そして、ウオーラスを思い起こさせる、あの白い太い髭という、きわめて強い個性のもので、その強さに、独特のラウドスタイルが似合っていた。そして、それが、エレガントに納まっていた。

ウオールの写真は、さほど公表されていないのが残念だが、着こなしとしては、ウインザー公に匹敵する(むしろクリエイテイブさでは、凌駕する)メンズエレガンスの創造性を持っていると思う。
そして、彼が生きていた時代を考えると、かなり革命的で、異質だったことが、容易に想像できる。
ウインザー公との共通点は、仕立て屋のお仕着せを「選択」するのでなく、自らのスタイルを「創り出している」コトで、これは当時では、かなり珍しい。



セシル・ビートンも、ウオールの「魅力的なラウド(派手な)スタイル」に惹かれた一人で、何枚か、その姿を写真におさめている。彼を称した「Last of Victorian Dandy」というのも、そもそもビートンの命名によるといわれている。



 ベリー・ウオールとの「出会い」は、バステイーユにある不思議な古本屋で見つけた30年代の「ADAM」という雑誌に始まる。そこに、ウオールの写真と短いコメントが載っているのを見つけたのだ。


雨宿りのつもりで、偶然、立ち寄った、その古本屋には、創刊以来の「プレイボーイ」とか、30年代の「ADAM」、「MONSIEUR」、そして20年代からの「VOUGUE」が完璧な状態で私を待ち受けていた。ここは、私が「探していた」店だった。


店主は、眼鏡をかけていて、少し意地悪そうにみえたが、話してみると古雑誌の収集に執念が見て取れた。彼も、パリという街ゆえに、生息しているマニアックなパリジャンだった。(こうしたマニアックなパリジャンが、パリという街の文化を、コクのある複雑な味わいにしているのだと思う。多分、トリフォーも、始まりは、そうした一人だったに違いない。)


その日、私は1932年4月号と、1945年1月号の「ADAM」を買い求め、アパルトマンに戻って、早秋の雨の日を、この雑誌と過ごすことに決めた。

私はコーヒーをタップリつくり、窓辺のソファに寝そべって、雑誌に読み耽ることにした。秋の雨は、ガラス窓に雨粒を残し、その滴る行方と、その向こうに霞む16区の風景を、時折、眺めていると、それは、不思議に、安らかで幸福な時間だった。


1945年1月号は、終戦から復興に向かうパリのことが書かれている。、、、テアトル(舞台)が本格的に復興し名優たちが舞台に戻った、、、「マキシムの紳士」というオモシロそうな喜劇風の芝居の批評、、、「パリ、、、今日のパリ」と題されたフォトルポルタージュでは、コンコルド広場や、ホテルクリニョンなどが、1944年(終戦前)と1945年(終戦後)の写真で比較されている、、、そして、モードのパリらしく、5ページにわたってボールドルックの紹介もある。
終戦直後のパリが、「もう一度、パリらしくあろうとしている」記録としては興味深いが、しかし、時節がらかページ数も少なかった。

1932年4月号は、これとは違って、自信満々の輝きがあった。モードページも、ウエストを極端に絞ったピークドラペルのスーツを着たムッシューが犬をつれて散歩していたり、魅力的なパリの30年代が宝石のように犇き、煌いていた。そのなかに、ウオールがいた。



それで、興味を持った私は図書館に出掛けて、自伝でもないかと探したのだが、図書館の分類カードに彼の名前はなかった。紳士録も探ったが、それにも名はなかった。(紳士録にのっていないのだから、貴族ではないことは分かったが、、)

当初、私は、この人がフランス人ではナイにしても、英国人か、どちらにしろヨーロッパの人だろうと思っていたのだ。よもや、生粋のアメリカ人とは思ってもみなかった、、、



ウオールもまた、スノビズムの熱病に冒されたダンデイだった。

彼がアメリカ人だと知ったのは、1950年4月号の「フレアー」(私は、この伝説的な雑誌を古本屋で見つけるたびに買い集めていた。)という雑誌の「Paris Issue」で、再び彼にめぐりあったからだ。

d0004856_1733852.jpgこのパリ特集号の巻末、「Who remembers Paris in the Twenties?」という見開きページで、20年代のパリで有名だった同胞=アメリカ人(フレアーという雑誌がアメリカの雑誌だったから)を20人紹介しているなかに、彼がいた。

ウオールは、正真正銘のアメリカ人だったが、1912年にパリに居を移してから、1940年に亡くなるまで、ズット、パリを愛し、住み続けている。彼にとっては、祖国よりも、パリ、ヨーロッパの方が水にあっていたのだ。

事実、この小さな写真に映った彼に、エトランゼの様子はない。この地、この生活こそホームグラウンドであり、なるほど、彼がここにいるのは当然に見える、そして、なおかつ異質な輝きを持っていた。
そして、彼は、当然の如く、当時のヨーロッパ社交界で、ダンデイの名と賞賛をほしいままにしていく。
アメリカ人である彼が、ナゼ、人生の後半28年間を、パリで送る事にしたのか?
そして、スノビズムというのは、男の人生に何をもたらし、何を奪うのか?
実在の「完璧なスノッブ」、ウオールの生い立ちから遡って探ってみよう。


ウオールは、1861年にマンハッタンで生まれた。ウオール家は、いわゆる東海岸の名門中の名門だった。
当時のアメリカの富豪の家庭では、ヨーロッパ式の教育がなされていて、それは、いまよりズット徹底したものだった。
幼いウオールにも、フランス人の家庭教師がついていて、英語をしゃべり始める以前に上流のフランス語を話したという。

そして、彼が18歳になったとき、祖父と父親が、当時の金額で100万ドル以上の資産を彼に残して逝った。

さあ、ここからウオールのケタはづれの、「FUN TIME」が始まる。

19世紀後半という時代、富に恵まれた者にとって、豪華な道楽三昧の生活を楽しむことに躊躇はなかった。身なりに贅を尽くし、夜毎、エレガントなレストランに出掛け、ときには舞踊会を開き、豪奢な旅に遊ぶ、そういうふうに金を見せびらかすということが、悪趣味だとか、愚かだとは言われなかった無垢な時代だった。



ウオールも、また、旅行に明け暮れ、ギャンブルにうつつを抜かし、結婚をし、そして毎夜大騒ぎをした。
ウワサでは、ウオールは17歳からというもの、水を飲むのを止めてしまったという。水を飲むぐらいならシャンパンを飲もう。それ以来、ウオールの「水」は「シャンパン」を意味した。それも、銘柄が指定されていて、1911年か1923年の、コードン ルージュがお気に入りだったという。

以前から東海岸の社交界では、彼のエキセントリックな服装の趣味は良い意味でも、悪い意味でも評判だった。彼は、当時、トラウザーズを285本、カスタムメイドのネクタイは5000本をその特別製のクローゼット ルームに納めていたという。

カスタムメイドのタイというのは、彼は、常に1ヤード(約91センチ)に仕立てたタイを、ダブルに巻き、ボウタイに結ぶことに決めていたからだ。


ウオールは、一日に最低6回は、服を着替え、その6着の装い、すべてが完璧だった。


或る日のこと、彼のギャンブル好きの友人であるジョン・ゲイツは、彼に賭けを提案した。朝食からデイナーまでの間、一日に40回着替えることができるか、、、ウオ-ルは、もちろん受けてたった。
この賭けは、またたく間にサラトガ(サラトガは、夏の保養地で、ニューヨークにほど近く、当時、バンダービルトやロックフェラーなども集まった、いわば東海岸の社交界の夏のメッカだった。)中の話題になり、その日、サラトガにいた社交人種のほとんど全員が、ウオールの勝ちか、負けか、いずれかに賭けた。


その当日、ウオールは、繰り返し、人々の前に現れた。特に、サラトガの競馬場では、幾度も、彼お得意の人目を引く、魅力的ななカントリージェントルマンスタイルを披露した。そして最後に、完璧なイブニングウエアでユナイテッドホテルのデイナールームに悠然と現れたとき、ウオールの勝ち負け、どちらに賭けたにかかわらず、デイナールームにいた全員が拍手で彼を迎えたという。、、、もちろん、ウオ-ルは40回、すべて完璧な着こなしを見せつけた。


「サラトガ トランク」

せっかくの機会なので、「サラトガ」についても少し触れておこう。サラトガは、ヨーロッパでいえば、バーデンバーデンのような処で、高級温泉保養地として知られていた。

それが、1874年に、この地に、エレガントで贅を尽くしたユナイテッド ホテルが、オープンしたこともあって、一躍、ニューヨーク社交界の夏のメッカとなった。
ユナイテッド ホテルは、大理石を敷き詰めた巨大なエントランスを持ち、ガラス天井と、ニレの木陰のあるガーデンがあった。
そして、特に、その料理の素晴らしさも、社交人種を惹きつけた。オイスター、グリーンタートルスープ、ソーテルヌワイン、極上のフィレ、ロブスター、選りすぐられたシャンパン、、、などなど、、そして食後の葉巻までも一流のものが揃えられていたという。



人々は、午前中はサラトガのプロムナードを散歩したり、温泉で保養し、午後は着飾って、競馬場で賭けを愉しんだ。夕べには、カジノのルーレットを囲むか、舞踊会に出席した。

ここでは、一日に何回となく、場に即した装いに着替える必要があった。そのために、ここを訪れる人のトランクは膨らみに膨らんだ。そういう人たちのために上部が丸みを帯びた、衣装がいっぱい詰め込める工夫をしたトランクが発売され、それを特別に「サラトガ トランク」と呼び、一時、流行ったぐらいである。





もうひとつ、アメリカにおいて、初めて、タキシードを着たのも、ウオールだったといわれている。当時は、まだ紳士のイブニングウエアといえばテイルコートとされていた良き時代だ。

アメリカ初お目見えの「タキシード」は、ロンドンのテーラー、ヘンリープールからウオールの元へおくられてきた。(ウオールはヘンリープールで54年間に渡って服を注文している。いまのプールはどうか知らないが、サビルローの他のテーラーと同様、当時は、<1950年以前は、、>定評があった。サビルローは1950年以前が素晴らしい、ある種、先進性があった。いまは、、、)


タキシードには、丁寧な但し書きがつけられていた。

「僭越ではございますが、これは、ご自宅でのデイナー、或いはサマーリゾートでの夜の装いに、お召しになるのが適当かと存じます。」

なにしろ、タキシードは、かの地、ロンドンでも、まだ一般的なイブニングウエアとは認知されていなかった時代だ。しかし、服装には冒険家のウオールのこと、すぐさま気にいって、サラトガのグランド ユニオン ホテルで開かれたボール(舞踊会)に出向いた。


誰もみたことがない、このデイナージャケットを着て、その日、ウオールは素晴らしい美人を伴って、社交界の牙城に乗り込んだ。

この日のことを、ウオールは、こう述懐している。

 
「私は、この最新式のデイナージャケットが気に入っていた。なにしろ楽だった。ボールルームに入るまでは、皆の注目の的でよかったのだが、私はボールルームで呼び止められた。
もしも、私が、彼女と踊るつもりならば、通常の紳士の装いをしてくれと、奴らは言うんだ。

その夜、私は飛びっきりの美人といっしょだったんだ、私は、この素敵な夜を台無しにしたくなかった。だから、宿泊していたユナイテッドホテル(サラトガで当時、最もエレガントとされたホテル)に引き返して、より”フォーマル”なテールコートに着替えて、またボールルームに引き返したというわけさ。、、、それが、アメリカにおける、はじめてのタキシードの物語だ。」



そして、服装の趣味とともに、ウオールが生涯、愛し続けたものが「サラブレッド」だった。


いまに残るウオールの写真のほとんどが、ドーウ”イル、ロンシャンなどの競馬場、或いは競馬場のある場所なのは偶然ではない。幼い頃より、彼は乗馬に慣れ親しんできた。障害レースにおいては、優れた騎手でもあった。


足繁く、ロンシャンなどのヨーロッパダービーには、出掛けていたものの、サラブレッドへの愛情は絶ち難く、ツイに1912年、パリに居を構え、大馬主としてヨーロッパ社交界に活躍の場を移す。

サラブレッドを愛する者にとって、そのヒノキ舞台は「ダービー」である。そして、何といっても、ロンシャン、アスコットをはじめとするヨーロッパダービーがその頂点であり、それは、いくら金を費やしてもアメリカでは手に入らないものだった。


社交界において、ダービーは、大きなポジションを占めている。
王族以下、社交界の主だったメンバーが一同に集まるのもダービーならではのものだし、それゆえに、ダービーには独特の華やな雰囲気がある。映画「マイフェアレデイ」にあるように、ここで社交界デビューを飾る人も多い。

とくに、ブローニュの森にあるロンシャン競馬場は、ヨーロッパで最も美しい競馬場とされていて、ヨーロッパ内では独特の位置にある。

ナポレオン3世の異父弟で内相・立法院議長を歴任したモルニー公によってブローニュに移されたロンシャン競馬場は、当時、最も格式があると同時に、最もファッショナブルであり、いくつもの最先端のファッションがここから生まれた。ロンシャンは特別な意味を持っていた。
そして、毎年、10月の第一日曜日に、GⅠの中でも最高峰の凱旋門賞が行われることでも知られている。ウオールがロンドンや他の街ではなく、パリに居を構えた、その理由が窺い知れる。



いつのまにか、彼のエレガンスは同胞をよせつけないほどに「成長」していた。生まれ育ったアメリカは、彼には、もはや物足りない世界だった。彼には、この、日に日に「増殖し」、膨らんでいく「彼のエレガンス」を、受け止めてくれる別の「惑星」が必要だった。
そんな彼が、後半生の住処を、ヨーロッパに求めたのも無理はない。


外壁に大理石を張られた、その豪奢なパリの邸宅で、彼は常にクリムゾン レッドのラウンジスーツ(このクリムゾンのラウンジスーツは、同型のものが10数着用意されていたという)に身を包み、散歩の際には、「チ・チ」と「トイ・トイ」と名づけられた2匹のチャウドッグを引き連れていくのが日課だった。

そして、ロンシャンに出掛けるときは、シルクのトップハットを被るのが常だった。
トップハットは、もともとフォックス ハンテイングのときに被られていたもので、頑丈な筒状であるため、落馬したとき頭部を守るという役割から生まれた。その由来から、いまでもダービーのときの正装として被られている。

しかし、このシルク製のトップハットというのがヤッカイな代物で、手入れを上手くしナイと、すぐに、毛がネてしまって、輝きを失ってしまう。保管するときも、専用の革のハットボックスが必要で、被っているときは良いが、手に持つときはヤタラと面倒な作法があるので、廃れてしまうのは良くわかる。


トッパー(トップハット)は、常に輝きをもっていなければならない。この輝きを維持するのが、バレット(主人の身の回りの世話をする召使)の腕の見せ所なのだが、晩年のウオールは「いまや、トッパーの輝きを維持する方法を知るバレットもいなくなった。」と嘆いている。

ウオールが友人に送った書簡を調べてみると、晩年、彼はことにつけ、時代がエレガンスを失くしていくコトに気づき、嘆いていたことが分かる。

現代の私たちにとっては、30年代はずっとエレガントな時代に見えるが、第一次大戦前の本物のエレガントな時代を最先端で生きた彼には、きっと偽物めいて見えたのだろう。



ウオールは、1940年5月5日、保養に訪れたモナコのホテルで、息をひきとる。死因について、記載されている記録は見付からなかった。


「貴族にあらず」、、、、彼に、この人生を選ばせたのは、彼のスノビズムだと思う。


本来の血統に生きるのではなく、彼が愛したサラブレッドが、より早く走るために、より良い遺伝子を探し、交配を重ねて、いわば人工の究極の血を探すように、彼も、「究極の自分」を自ら探し求めた。

男にとって、スノビズムは一歩間違えば、只の身の程知らずの阿呆に成り下がるが、自分の存在を楽しみ、矜持を守るためには必要なものともいえる。少なくとも、ウオールのスノビズムは、彼の人生をスケール大きく開拓し、彼なりの幸せに導いたと思う。、、、それを、「完璧なスノッブ」=「人生を自分の趣味に従って、好きなように生きてしまう人」と呼ぶことができる。



ボニ・カステラーネ同様、あれほどのダンデイズムの輝きにも拘らず、ウオールも、また、時代とともに、忘れられた存在になっていく。

同じダンデイでも、モンテスキューが、「蝙蝠」という一冊の詩集を残したおかげで、いまだ、人々の記憶に残り、最近、回顧展が行われたのに比べると、さびしい限りだ。
ちなみに、プルーストが創り上げた「スワン」のモデルは、モンテスキューといわれている。





スノッブというコンセプトは、ベルエポックの時代に現れたらしい、、、
copyright 2005 Ryuichi Hanakawa

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by rikughi | 2005-07-25 00:29 | 2.スノッブ

「百歳堂 散策日誌」 サイケデリック 4   京都のお化け 




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「この世をばわが世とぞ思ふもち月のかけたることもなしとおもへば」





洛北の北山大橋から見上げる月は、道長が詠んだ様に、欠ける処のない萬月だった。天まで届く剛の弓矢があれば、試しに狙ってみたいほど、見事に夜空にポっかり穴を開けていた。蒸っと重い、暑い空気のせいか、月は少し赤く滲んで見える。

水面に映る月影を見ようと、橋から探してみるが、不思議にそれは見当たらなかった、、、



「夏夕べどこにも水のせせらげる」
( 万太郎の句 )





昨日、京都に着いて、昨日も今日も祇園で遊んでいる。
いまでは、他の街に似てきてしまった京都も、古くは水の都と謳われていた。白川の近くにある仕出屋の奥の座敷にすわっていると、それでもどこかで、水のせせらぐ音が微かに聞こえる。

この仕出屋は、京都炭山に「登り窯」をもつ知人の陶芸家の紹介で、今夕は、彼と、彼の贔屓の芸妓がひとり、華を添えて、美味しい料理を愉しもうという趣向だった。

この店は、御茶屋さんへの仕出しが本業だから、座敷があることは、極く常連しか知らない。知人の陶芸家は、魯山人に傾倒している人だから、ここの料理が美味くないはずがない。

根を詰めていながら、いじり過ぎない、その料理は優しく、酒も美味しかった。それで、だれからともなく、座の話題は、「百物語」のコトとなった、


「百物語」というのは、一種のキモだめしで、江戸時代に(もしかしたらそれ以前にも)流行ったものらしい。
100本の蝋燭をたてて、座にいるものが、恐い話、怪談の類をひとつ、ひとつ披露していく。其の度ごとに蝋燭は一本、また一本と消され、最後の話とともに、100本目の蝋燭が吹き消され、真っ暗闇となるや、それまで話されたお化けや、怪奇なことが、すべて一挙に現れる、と言い伝えられている。


それで、私たちも、そのマネごとをすることにした。


しかし、百も怪談話を知らないし、だいいち、夜が明けてしまうから、一人、ひとつの話で「三物語」にしようということになった。

陶芸家は、よほど、この趣向が気にいったのか、さっそく襖を開けて、女将を呼ぶ。「オーイ、蝋燭を持って来て」。
女将は、慌てて顔をみせると「蝋燭なんて、何しいやるんどすか。それに、うちには、ご仏壇の蝋燭しかあらしませんどすえ。」と怪訝そうに言った。

「仏壇の蝋燭、ケッコウ、ケッコウ。早よ、3本、もってきてんか。」陶芸家は、この店に顔が利くのか、そう頼むと、女将は「火事には気イつけておくれやすや」といいながらも素直に蝋燭を持ってきた。


3本の蝋燭と、3枚の小皿をうけとって、陶芸家はさっそく準備をはじめる。座机のうえに、皿を均等に並べて、蝋燭を一本、一本、立てていった。

「やー なんか 鳥肌がたってきたワ、、」、揺らぐ蝋燭の炎をみつめながら、芸妓が、誰にいうでもなく呟いた。年の頃は27、8といったところか、玄人好みの着物を纏っているが、今日は、髪も化粧も普段どおりで、ただ、とびぬけて色白なのが眼を引いた。

この女(ひと)とは、前にも会っている。

以前に、陶芸家と小さな町屋を手直したバーで飲んでいたとき、途中から、確か、やってきた。

その時も、珍しいほど色白なのが印象に残っている。どちらかというと、少女のふくよかさが残る細面の美人で、その肌はヒンヤリとして、透きとおってみえた。

黙っていると、忘れ難い美人で通るだろうに、花柳界の女(ひと)だけあって、少し徒なところがある。いつかは、「うち、00ちゃんと寝た夢みたわ」、と言い出すこともあった。(00ちゃんというのは、ここでは書けないようなヤンゴトなき人の名だった。)

しかし、陶芸家は、「アイツは、ああ見えて踊りに才があるんヤ」といった。日頃、手放しでは、人を褒めない彼が、ソウ言ったから、私は少し興味を覚えた。



「さあ、準備はできたデ、みなサン、よろしいか。」そう陶芸家は言うと、自ら立ち上がって、部屋の電気を消した。

闇のなかで、燃える蝋燭の炎は、意外にくっきりとしていて、周囲にまでは、その光は届かないものの、座机の上は、ほの白く浮かびあがっている。それは、月の光に似ている、と思った。


一本目の蝋燭  「陶芸家の話」

明応の頃、洛北の鷹ガ峰に観鴈寺という寺があったそうや。
この寺は、寺とは名ばかりの荒れ寺で、そこに気が触れた坊主がひとりおったんや。
明応の頃というのは、戦乱の時代で、世の中は混沌の極みにあったといわれとる。
なにしろ、時の天皇がお亡くなりになっても、戦で混乱しとるから、葬るまでに40日間もほったらかしにされてたといわれてるグライ、世の中が迷てた時代や。そやから、荒れ放題の小さな寺なんか、全国にはヨウケあったワケや。


しかし、その寺の荒れ具合いうたら、ソラ、目もあてられんほどやったそうな。襖の類どころか、雨戸もなく、床は処どころ穴があいて、床板はヒン曲がって歩くのも難儀するほどやった。

そこに、住み着いておった坊主いうのも、ホンマに修行の僧やったかどうかも怪しい。痩せこけて、目だけがギョロリとしていて、なんかにとりつかれたように、朝から晩まで念仏を唱えとる。

ただ、一生懸命、念仏を唱える姿に、ほだされて、村人たちは、ときおり野菜や食べ物を持っていってやった、それを、坊主は礼の一言も言わず、貪るように食っては、食い終わると、また念仏を唱えに行くといったことやった、、、



村人たちが、俺のことを気が触れた坊主と思っているのは知っている。だが、俺は狂ってはいない。狂ってしまったのは、俺の人生だ。

こう見えても俺は、御池の大店の手代だった。
自分で言うのもなんだが、俺には商いが性に合っていた。親に売られて、丁稚として入った店だが、俺は何より働くのが好きだった。そんな俺を、旦那も、目をかけて、可愛がってくれた。
俺はメキメキ頭角を表し、ついには手代となった。口減らしのために、犬ッコロのように売られた俺だが、ヤット、自分の居場所を、この手で掴むことができたと思った。


間違いは、店の娘の、おいねさんが俺に惚れてしまったことだ。


おいねさんは、大店の一人娘にありがちな世間知らずの、それだけに一途なところがある女(ひと)だった。
俺は、正直戸惑った。だが、そのうち、おいねさんの一途さにほだされて、或る日、旦那に二人して夫婦になる許しを乞いにいった。
そのときは、あれほど尽くした旦那だし、かわいい娘のために、かえって喜んでくれるのではと、身の程知らずにも、本気でソウ思っていた。


ところが、旦那は、話を聞くどころか、エライ剣幕で、「コイツは、犬みたいに売られてきた男や、身分違いも甚だしい!飼い犬に、手を咬まれるとはこのことや。エイ、今すぐ出て行け、お前の顔なぞ二度と見とうナイ!」そう言って、すがる俺を店の者にいいつけて、着の身着のまま放り出した。


俺は、店の前に蹲って、三日三晩、許しを乞うが、叶わず、挙句の果ては、丁稚に石もて追われる始末。

どこか、死に場所を探そうと、京の街を足を引きずってフラフラと、さ迷っているうちに、何処をどう辿ったのか、気がついたとき俺は、この寺にいた。


俺は、ほとほと疲れていた。ナメクジが塩をかけられたように、身体がずるずる崩れていくようだ。絶望を通り越して、俺には、ひとすじの精神すら残されていない。足は血まみれだったが、痛みすら感じなかった。

いつのまにか、俺は、庭に蹲ったまま眠ってしまった。



そのころ、手代がいた御池の大店は、蜂の巣をつついたような騒ぎやった。

ことの起こりは、おいねの縁談話や。
手代との一件以来、お目付けを四六時中つけて、外にも出さんようにしとったが、おいねの悲嘆ぶりといったら痛々しかった。
それで、親としては、また悪い虫がつくよりは、早いトコ、身を固めさせようと思たわけや。相手は、京の呉服屋では一、二を競う大店の息子で、明日には祝言ということになった。


ところが、、、やれやれ、これで、ひと安心と、旦那をはじめ店の衆の気がゆるみ、寝込んでしまった月夜の晩、おいねはソット、店を抜け出した。祝言の日になって、おいねが、おらへんコトに気づいた店は、エライ騒ぎや。


百人近くの若い衆が四方八方を探し、旦那もあらゆる手管を尽くすが、娘の姿は、神隠しのように、かき消えた、、、



俺は、どれほど眠ったのか

ざらざらとした目覚めに現われたのは、蒼く、月光に照らされた荒れ寺の庭だった。

月の光は、こんなにも明るかったのか、、、見ようによっては、美しいともいえる月下の荒れ野で、俺は、不細工な虫のように蹲っている。

俺は喉の渇きが耐え難く、寺の池まで、なんとか這っていって、むせ返りながら、泥水を飲む。


芋虫のように、身体を引きずって寺の本堂に這い上がると、この荒れ寺には仏像もなかった。まるで、俺のようにカラッポだ。

俺には、もはや心はない。

結局、俺は巡りめぐって、売られて来たときと同じ、犬畜生同然に戻ったわけだ。

俺の血と肉は悦びを知らず、骨は報われることを知らない。

俺は、はたして生きているといえるのだろうか。

ふと、カラッポの俺の口をついて出たのは念仏だった、、、妙法蓮華経、、、南無妙法蓮華経、、、
さぞかし俺の念仏は畜生声であったろう。
俺は、五文字七文字を繰り返した。、、、妙法蓮華経、、、南無妙法蓮華経、、、

俺は、何の為に唱えるのか?

恨みか辛みか、それとも極楽浄土を願うのか、、、ソンナものは俺には、どうでもよかった。俺が欲しいのは、俺の中身だ。カラッポの俺を、少しでも埋めてくれる「中身」が、ただ欲しかった。


、、、妙法蓮華経、、、南無妙法蓮華経、、、五文字七文字を繰り返すことで、俺は、俺の中身を取り戻したかった、、、



 ある日、その荒れ寺に旅の高僧が立ち寄った。長旅に袈裟は破れ放題やったが、その表情には一筋の疲れも見えなんだ。坊さんは、村のウワサを聞いて、この寺に寄ったんや。手には、丸太を抱えておった。

坊さんは、手代を一見すると、無言のまま、庭にドッカと座り、丸太を取り出した。

その姿を本堂から見つめる手代、、、その眼は赤く滲んでおって、それは、すでに餓鬼の眼をしておった。

坊さんは経を唱えはじめた。その声は、手代と違って、大地を空をムンズと摑まえる、天声やった。経を唱えながら、一心に丸太をナタで打ち始める。ナタの一打、一音に、経が沁みこんでいくようや。
そして、丸三日が過ぎて、坊さんが経を念じ上げたとき、そこには、観音菩薩が彫り上げられておった。

坊さんは、手代を一顧だにせず、まっすぐ本堂にあがると、仏像が納められていたであろう場所に、その菩薩像を置いて、立ち去った。

  
菩薩、、、

俺は、それを前にして何故か、ひるんでいた。

俺は何をためらっているのか、、、覚悟を決めて念仏を唱え始める、、、
すると、菩薩は、煙(けむ)をあげて姿を変えていった。

眼を瞬かせて、それでも眼を凝らすと煙のなかから現れたのは、おいね だった。

おいねは、俺にゆっくりと抱きついてくる。手を伸ばし、俺も、それを迎える。

おいね、、、おいねの体温が、俺の痩せこけた身体に伝わってくる。おいねの血の暖かさが、俺を溶かしていく。


その透き通るほどの白い肌、その柔らかさを、俺は、指で辿っていく、、、
うなじの首元ちかくにあるホクロ、、、少女のように小さな乳房(ちぶさ)、、、


、、、おいねは、ふいにスルリと身をかわすと、庭に躍り出た。、、、何処へ行く、、、おいねは、少女のように笑いながら俺を手招く。俺も、誘われるままに、庭に出た。

蒼い月明かりの中、おいねは、俺を導いていく。荒れ野を抜けて、萬月が水面を照らす滝壷の方へ、、、


滝壷には、月がユラユラと、その影を映していた、、、おいねは、子供のように、その月影を採ってくれと、甘え、せがむ。俺は、おいねの駄々に負けて、おそるおそる水にはいった。


、、、俺には、すでに俺の末路は察しがついていた。だが、俺は、運命(さだめ)に逆らう気力もなかった。


滝壷の水は、新鮮な生命に溢れていて、いまの虚弱な俺が敵うはずがなかった。俺は、もがいてみるが、次第に身体の自由は奪われ、水底にグイグイと引きずり込まれていく。何かが、俺の足を掴んでいるようだ、、、水中の無音の世界で、見上げると、月がユラユラと笑っているのが見えた、、、


それから、数日たって山菜採りの村人が、喉の乾きを癒そうと、滝壷に寄ったそうな。
滝は、数日の雨で水嵩を増しておった。そのせいもあったのか、、、

水を掬った村人の目の前に、フイに、手代の水を吸った水死体が、ぽっかりと浮かび上がった。

その村人の驚いたこと、オドロイタコト、、、声にならない悲鳴をあげると、あとずさりしながら、ほうほうの態で村に帰りつき、そして、仲間に告げた、、エライこっちゃ、、観鴈さんの滝にホトケが浮かんでおる、、、

村人たちは、相談し、そのままにするのもカワイソウじゃ、やはり弔ってやろう、ということになった。それで、村人全員揃って、滝に集まった。

念仏をとなえながら、手代の死体を引き上げていると、一人の若い衆が叫んだ、アッチャにもホトケがおるゾ、、今度はオナゴじゃ、、

水ぶくれしたそれは、見る影もなかったが、うなじにホクロのあることは見てとれた。





陶芸家は、話し終わると一本目の蝋燭を、ふうーと吹き消した。


、、、「暑おすなあ、、、」そういって、芸妓は、窓ににじり寄ると障子を開けた。「やー、お月さんがきれい、、」

そういわれて、見越しに覗くと、夏の京都は、いつのまにか、とっぷり暮れていた。


「コラコラ、窓を開けたらイカンがな。趣向がくずれる、、、」、そう陶芸家に諌められ、芸妓は窓を閉める、、、ふり向いたとき、抜き衿の隙間から、うなじにホクロが見えたような気がした、、、


「今度は、アンタの番やデ」、陶芸家が、芸妓に水を向ける。芸妓は、私の顔をうらめしそうに見るが、陶芸家に、この人は「お客さん」ヤから、お前が先に話せと言われ、観念したようだ。


「そしたら、、、おいね さんの話でもしまひょか、、」


おいね、、、それは、さっきの話のおいねのことか、、、私は思わぬことに、少し気味がわるかったが、陶芸家は満更でもないらしく、「オモロイ、、、話さんかい、、」と言った。



2本目の蝋燭  「芸妓の話」














人は月の光に狂うのか、、、
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by rikughi | 2005-07-10 00:56 | 京都のお化け