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私家版 「サルトリアル ダンデイ」 1.ショルテイ以前、ショルテイ以後。 (19世紀と20世紀)




「私は、折りにつけ、我が友に説いて回ったものだ。衣服の力をかりて、自分自身の周りに防壁をつくることの大切さを、、」
(マイケル・レイリス 「L‘Age d‘homme」より)

 



「ショルテイの革命 - ロンドンカット=イングレッシュドレープの登場」

フレデリック・ショルテイという名を、もし、貴方がご存知ならば、多分、あのウインザー公のスーツ(厳密にいえば、或る時期から公は、ズボンだけは、ロンドンのフォスター & サン 或いは、お気に入りのニューヨークのテーラー、H.ハリスに頼んでいた。)を任されていた、サビルローのテーラーとしてだろう。


この「ズボンだけは、別のテーラーに頼んでいた」という理由は、巷間、保守的なショルテイが、公の望む「少し太め」のズボンを造るのを嫌ったと言われているが、それだけではなかった。

公の望むズボンは、「少し太め」という点で、オックスフォードバックスに似たようなものと思われがちだが、股上がそれまでのものと違って浅く、サイドポケットでストレートなウエストバンドをベルトで締めるという、極めてモダンなものだった。いわば現在の若者のズボンの原型といえる。(事実、公のズボンは、アメリカの若者たちに熱狂的に受け入れられた。)それまでのブレイシーズで吊るす、股上の深いズボンとは概念自体が違っていたのだ。

また、ヘビースモーカーであった公は、シガレットケースを左のヒップポケットにいれるのを常としていて、テーラーは、左のヒップを広めにとり、シガレットケースを取り出しやすいように、ボタンもフラップもないヒップポケットをつけることを注文された。愛煙家の彼にとっては、このシガレットケースが取り出しやすく、しかもシルエットを崩さない仕掛けは、重要なデイテールだったのだ。

ところが、大戦中の英国政府は、物資不足から、テーラーにも、「資源の節約」を命じた、国中のズボンに折り返しをつけることさえ、禁じたという。

それで、公は、戦時統制のないニューヨークに目をつけて、彼の地のテーラーに注文をし始めたと言われている。



事実、公は1919年から、1959年までの間、ショルテイのクライアントであり続けた。

1959年で、ショルテイとの付き合いが終わっているのは、ショルテイ自身が亡くなり、その後、店は経営的に行き詰まって、遂に1959年に閉店してしまうからだ。

ショルテイの亡き後、カッターとしてショルテイの店を切り盛りしていたのが、エリック・ジェイムズ(先代)で、彼は、その後、自身の店、「ジェイムズ&ジェイムズ」を立ち上げる。ショルテイの顧客の多くは、そちらに移った。
ジェイムズ&ジェイムズは、ウインザー公が、ショルテイでつくったノーベント(当時、流行だった)の背広(推定100~着!)を、サイドベンツに切り直すアルタネーションを請け負い、また60年代に、公は有名なタータンチェックのデイナースーツをはじめとして、自身の背広をオーダーしている。(ただし、トラウザーズは、やはりハリスに頼んでいた。)

ショルテイの死後、公は、いくつかのテーラーにスーツをオーダーしている。
多いのは、やはり、ニューヨークのH.ハリス(今度はトラウザーズだけではなく背広も)、そして、ジェイムズ&ジェイムズ、イタリアのエミリオ・ルッポ(リビエラの飛行場に降り立った、パグ犬をひきつれた公の有名な写真で、公が着ているスラブ織りのシルクのスーツを製作した。)など。


エミリオ・ルッポでつくられたスーツは、さほど残されていないので、どの程度のつきあいだったのかを推測することはできないが、それ以外のテーラーとのつきあいは、「Faithful Client」と表現できるほど、長く、深いつきあいをしている。


しかし、ショルテイの名が、いまも残り、メンズエレガンスの歴史をひもとくとき、必ずとりあげられるのは、「ドレイプ カット」、別名「ロンドンカット」の生みの親であり、スーツの歴史において、ひとつの「革命」をひきおこしたことによる。この「ロンドンカット=イングリッシュドレープ」こそは、その後のメンズエレガンスを大きく変えた「コンセプト」であり、いま、我々が、普通にスーツとして思い描くものは、ほとんど、この「ロンドンカット」の概念=コンセプトの下にある。


ショルテイが生み出した、この「ロンドンカット」以降と、以前では、男の背広は様変わりした。


 
d0004856_125993.jpg ショルテイは、ドイツ系のオランダ人移民で、彼の店は当初は、コークストリート3番地、その後、サビルローに移り、ちょうどヘンリープールの真向かいに店があったという。

ショルテイも、当初から「ロンドンカット」を実践していたわけではなく、ショルテイが「ロンドンカット」をクローズアップしはじめたのは第一次大戦中だといわれている。


そのためか、プリンス オブ ウエールズ時代のウインザー公は、どちらかというと肩幅の狭い(ナチュラルな肩幅の)まるく、身体にフィットしたシングル前の三つ揃いを着ている。


このスタイルを、いまだに、純粋に残しているのは、ウイーンの「クニーシェ」だと思う。あまり知られていないが、この店は、「クニーシェ」と「C.F.フランク」という2店のテーラーが併合したもので、「C.F.フランク」は「クニーシェ」よりも、より古い名店で、ジョージ5世をはじめ数々のロイワルワラントを持っていた。




「ロンドンカット」は、「ガーズ コート(王室近衛兵)」と呼ばれる近衛兵のユニフォームからヒントを得て、ショルテイが独自に創り出した、極めてマスキュリンなシルエットだった。それは、広めの肩と、絞ったウエスト、ゆとりのある胸周りを特徴としている。
「近衛兵のユニフォームからヒントを得た」という背景には、ショルテイが、自分の店を出す前には、ジョンズ&ペグ(この店は、1858年創立の老舗のひとつで、エジンバラ公のワラントをもっていた。数年前までは、セント ジョージ ストリート 11番地に店があったが、いまは、サビルロー 38番地の「デイビス & サン」に吸収され、その一部門として名を残している。)という、主に王室近衛兵のエリートを顧客としていたテーラーで修行を積んでいたという「経緯」がある。


「広めの肩」、「絞ったウエスト」、「ゆとりのある胸元」と言葉でいえば誰しも知ることだが、それを一枚の布きれで、実現するためには、背広の内部の仕事、技術が必要になってくる。

ショルテイは、胸元からポケットまでプリーツを両サイドにいれ、ウエストを絞り、またショルダーラインを広くみせるためにパッドを工夫し、アームホールには、今でいう「ゆき綿」をいれ、胸周りのゆとりを生み出し、動きやすくした。袖は、手首に向かってテイパードされ、ウエストラインは実際よりは数インチ上にとられ、ポケットを高くし、ラペルは立体的にロールされ、より鋭角的なものにされた、、、、そう、いまや当たり前となったことが、ショルテイによって生み出された。革命的だったのだ。


一番の大きな転換は、男の服に「アスレッチクな男らしさ(マスキュリン)」というコンセプト(概念)を持ち込んだことだ。

それまでのエレガンスというのは、どちらかというと「優美さ」に重きがあった。身体の欠点は隠したろうが、ゴツゴツしたところのない「優しいライン」がエレガントとされ、極論すれば、幾分、フェミニンな価値観の延長にあった。
そこに、ギリシア彫刻のような広い肩と絞られたウエストという「肉体的に鍛えられた男らしさ」、「強さ」を男のエレガンスとして再認識させ、定着させたことが革命であり、男の服はショルテイ以前と以後で様変わりする。


この、「様変わり」する時代の「以後」と「以前」を代表するダンデイに、ウインザー公とダヌンツイオがいる。

上の写真は、ダヌンツイオが1920年にウ”ェツイアのマルテイネンギというテーラーにオーダーしたカントリースーツで、幾分、「ロンドンカット」の影響を受けているが、その意図するところは「優美さ」と「耽美的なデイテール」にあることは瞭然と映る。

ウエストに寄せられたボタンは、1911年頃、大戦前にパリで流行した「デイテール」で、通常は2つボタンなのだが、3つボタンにしたのはダヌンツイオの「注文」なのかもしれない。

翻って、下の写真は、ショルテイ作(1928ー29年)の、ウインザー公のカントリースーツ(トラウザーズはプラス4になっていて、こちらは、フォスター & サンのラベルがついている。)で、フラップ付きの胸ポケット、ハーフムーンポケットなど凝ったデイテールだが、ダヌンツイオのものと比べると、確かにショルダーを広めにとり、よりモダンなメイルエレガンスを感じる。

ただ、ショルテイのコートを色々、見ていると、ウエストを絞ってはいるが、タイトというのではない。一種の「ゆとり」が胸元あたりにあり、これが、矛盾するようだが、絶妙な「ソフトなエレガンスさ」を生み出して、シルエットづくりの上手さが際立っている。

ショルテイの影響で、サビルローを始めとするテーラーが、次々に、「ロンドンカット」を取り入れていくが、やはり、ショルテイが群を抜いていた、といわれる所以は、この絶妙なバランス感覚を持ったシルエットづくりの才にあった。



d0004856_17349.jpg「ダヌンツイオとウインザー公」


思えば、ダヌンツイオとウインザー公ほど、対象をなすダンデイもいない。

一方は、「ノブレス」に憧れ、自身の手で家から服装、生活の総てを「それ」にしようと異常な情熱を傾けた男、もう一方は、「王になる者」として生まれ、だが「それ」に無頓着で、自分の趣味嗜好に走るあまり、「王位」も棒にふってしまう男。


しかし、この二人のダンデイは、ちょうどコインの裏表のように、対極をなすように見えて、実は一枚の硬貨であり、どちらも「スノッブ」だと思う。


ダヌンツイオの服装は、実に「エレガント」だと思うが、必要以上に「貴族的なモチーフ」で飾られ、彼が思い描いた「懐古的なノブレス」が見て取れて、どこか痛々しい。

ダヌンツイオ自身は、きっと興味深い、それなりの芸術をもっていた人物だと思うのだが、それがどこかで「政治」に向かっていって、「アート」として昇華されなかったのが残念に思う。
これは彼の服装にもいえるような気がして、「私的な趣味の面白さ」として昇華すれば、実にチャーミングなのだが、服装にも「政治」(服を通して、本来ではない身分を、社会的に位置づけようとする)が見え隠れして、粋ではなくなる。


ダヌンツイオのスーツの多くは、意外にパリのテーラーによってつくられている。
これは、イタリア本国より、より洗練された服を手にいれるためにパリに足繁く通ったのか、或いは、パリに定期的に旅行していたのか、、、どちらにしても、服装に、異常に情熱をかけたということは、周知の事実だから、テーラーの選択にもダヌンツイオの情熱があったことは明白だろう。


下の写真は、パリのトレムレット(これは、シャツ屋で有名だった、ワシントン トレムレットと同じ店なのだろうか)による1912年製作のもの、この他にも、ベルエポック時代の名店、セザール トマシーニでも数着つくっている。輝くようなベルエポックのパリのエレガンスに、ダヌンツイオが惹かれたのは想像に難くない。

(ちなみに、本国イタリアでは、前述のウ”ェネツイアのマルテイネンギの他に、
フィレンツエの「サルトリア チェレニーニ」、ミラノの「プランドーニ」と「ベローニ」というテーラーで服を注文している。シャツは、フィレンツエの「A.ダルマッゾ」に頼んでいる。)




そして、その服、ひとつひとつが、凝っていて、細部にわたって息苦しいほどのデイテールに満ちている。(それが、いまでもダヌンツイオの服が取り上げられ、私たちを魅きつける所以なのだが、、、)


これらの服をみてみると、そのエレガンスの価値観が、19世紀のコンテキストにあることが分かる。服がそうであるように、ダヌンツイオという人間の価値観、美意識もまた19世紀にあったといえると思う。





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翻って、上の写真は、ウインザー公のショルテイ作のデイナースーツと、公のクローゼットに並ぶ、カラフルなトラウザーズ(主には、ニューヨークのH.ハリス製)、そして、右は、アルミのケースに整理されたウインザー公の背広のスワッチの数々(パリのブローニュの家、南仏の家など、各家ごとに分けられている。)、、、この、煌くような「フランボヤント」さ、、、

ダヌンツイオの凝ってはいるが、それまでの社会的生活の枠組みにある(そして、その中でより良く評価されようと意図している)服と比べると、極めて「個人的」で、「個人を中心とした」イデオムにあることがわかる。

その意味で、ウインザー公は、20世紀的だといえる。
それは、進歩的で、輝いているが、確固とした土壌に根付いたものというよりは、個人的な想いが強い、いわば、「根無し草」的な「フランボヤント」さで、それが、極めて20世紀的といえる。

「20世紀」は、「個人(ミーイズム)」という意識が、果てしなく、社会の枠組みを壊していった「時間」だ。

それまでの社会性を問われた服から、個人の表現という新概念を、服装に持ち込み、主流に導いたのは、ウインザー公の功績かもしれない。事実、公は30年代にはいると、特にアメリカにおいて、絶大な人気を誇る「ファッションリーダー」となり、「ロンドンカット」は、「憧れのファッション」となった。


アメリカの富裕層は、こぞってサビルローへ出向き、歴史上、唯一、サビルローが「ファッションの中心」となった。

この、アメリカで、「熱狂的に受け入れられた」というのが、時代の為せる「仕業」で、多分、アメリカという「観客」がいなければ、これほどウインザー公のスタイルが、瞬く間に「評価」され、広まる事になったかどうか、、、



「ロンドンカット」とともに、公のシグネイチャースタイルともいえる派手な柄への嗜好、ストライプやチェック、ピンクやコーラルなど、柄や色の「ほとんど冒険ともいえる」組み合わせは、当時のヨーロッパのソサエテイーを身震いさせるものだった。

ただ、これは公だけではなく、当時、オックスフォードの学生などの富裕な子息を中心に、シュールレアリストのような「エキセントリック」な装い(セシル・ビートンの若かりし頃の写真などから、それを窺い知ることができる)をする若者が現れていて、一種の「嘆かわしい」社会風俗になっていたという背景もある。

モウひとつは、よく言えば、「イングリッシュ エキセントリック」、あからさまに言えば「イングリッシュ バッドテイスト(英国人の悪趣味)」という「伝統」もある。
何故か、英国には、ごく「個人的」な「変った趣味」の服装を、「情熱的」に「追求する」ダンデイが、生まれる歴史的傾向がある。


公も自著「ファミリー アルバム」の中で、「黄色い伯爵」と呼ばれたロンデール伯爵のことを、懐かしげに回想している。
ロンデール伯爵は、召使の制服から、愛車まで、自身の身の回りをすべて、カナリア イエローに塗りかためた。そして、本人はピンクや、白地にピンクのキャンデイーストライプのシャツを愛用した。

公が、1930年、当時としては、かなりアウトレイジャスであったピンクのシャツを派手な格子のプラスフォーのスーツにあわせて(しかも、足元は赤と白のストライプの靴下、、)、フランスのトウーケの飛行場に降り立ったときも、かなりな波紋を引き起こした。公自身は、「フランスでは、誰しも着たいものを着れると思っておった」と嘯いたものだ。事実、公の写真が報道された翌日には、どの店でもピンクのシャツは売り切れとなった。こうして、メンズエレガンスのタブーは、ウインザー公のパブリシテイによって、次々に壊されていく。































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copyright 2006 Ryuichi Hanakawa

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by rikughi | 2006-12-09 12:06 | 1.19世紀と20世紀 その壱