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「百歳堂 散策日誌」 サイケデリック 5  ニューヨークのダンデイ





五月の少年木霊のやうな貌をして
(たむらちせい)



ココのところ、ニューヨーク通いが続いている。

ニューアーク空港から、プライベートカーに揺られて、ホーランドトンネルを抜けると、マンハッタンへの入り口はトライベッカで、カジュアルさとスノビズムが混ざりあった、あの独特な街が現れる。


d0004856_12452159.jpg午後の陽光が、まだ残っている街角には、下町の雑然としたグローサリーと、スノッブなデイスプレイを競うブテイックが統一感もなく並んでいる。


茶色い紙袋に食料品を詰め込んで、家路に向かう住人、街角に椅子を並べて、夕食の客を待つレストラン、( きっと、アメリカ和牛のステーキには、細かく刻んだシイタケや、ほろ苦いハーブが付け合わされるのだろう。)、、、車の窓越しに覗く、初夏のソーホーの夕刻は、都会のぽっかり開いた時間を映している。

皆、今日の仕事は終えたのだろうか? 車の内で、ひと息つきながら、私は、ゆっくりと、身体を街に滑り込ませていく。


、、、突然の風に、通りを横切ろうとした白いサマードレスの女の髪が、メドウサのように暴れだす。


この時期、マンハッタンは、空気が乾いていて、時折、強い風が街を洗っていくのだ。



まだ、自分をもてあましていた若い頃、将来に漠とした不安を抱えていた私は、この街に来る度に元気づけられたものだ。
ここでは、嫉妬や羨望をしている暇はない。懸命に働いたものには、それなりの報酬が与えられる。誰もが、何とかチャンスを得ようともがき、才能や能力に磨きをかける。
何より、自分が、(ある程度)正当に評価されるというのは若い人間には魅力だった。

私は、マンハッタンからチャンスをもらったし、一度、訪れると、また戻ってこようという気持ちにさせる街だと思う。しかし、歳をとり、ヒネくれてくるにしたがって、そのストレートさが、正直、うとましくもなって、私は、しばらく、この街から遠ざかっていた。

それが、仕事の関係もあって、続けて通ってみると、やはり、この街の魅力をあらためて感じる。

マンハッタンには、確かに魅力がある。そして、その魅力というのは、人と街の在り方だと思う。

この街は、その時折の「人の在り方」に敏感なのだ。
だから、マンハッタンは、どの街よりも早く人の欲望や、不安を街に映し出す。この街に住む者は、どうしても「現在」ということに向き合わなければいけないのだ。(ニューヨークの友人たちは、まるでウッデイ・アレンの映画のように、いつも何かしら小さな問題を抱えている。)


そして、誰もが言うように、この街の魅力の源は、「混沌」にある。


失望とチャンス、ソーホーとアッパーイースト、ブルジョアとボヘミアン、、、混在し、相反し、すこぶる自由で、すこぶる保守的なこの街は、それゆえに、いかにもマンハッタンでしか生まれないであろう人間を各時代に輩出してきている。それを、我々はニューヨーカーと呼ぶ。



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70歳を過ぎた老ダンデイ氏もその一人で、パークアベニューの豪奢なアパートメントに暮らしている。アメリカンルネサンス様式の、その建物は、ワシントン広場のアーチでも知られるスタンフォード・ホワイトの設計によるもので、もとはジェントルメンズクラブ(通称スフィンクスクラブ)として使われていた。外壁の赤煉瓦は時を経て紅唐色になり、世紀を越えた時間は、円柱で囲われたバルコニーや、壁に嵌め込まれた神話的なレリーフに、新参者には真似のできない古色と風格を与えた。その建物は周囲でも特異な空気を放っている。そういえば、このあたりには、同じくホワイトが設計したモーガンライブラリーや、マンハッタンの象徴のひとつともいえるグランドセントラルステーションと、アメリカンルネサンス様式の建物が近接している。
、、、その老ダンデイ氏が暮らす部屋は、ちょうどクラブの読書室にあたるという。
(スタンフォード・ホワイトの名を、何故覚えているかというと、彼がマジソンスクエアビルの屋上庭園で暗殺されたからだ。それは、ミュージカルの初日を祝うパーテイの真っ最中の出来事だった。ホワイトを撃ったのは、嫉妬深く、性格破綻者として知られたミリオネアーで、彼が愛人と浮気していたと思い込んでいたからだという。建築家としてのホワイトは、かなりの数の建築をマンハッタンに残している。ジェントルメンズクラブを数多く手がけているのも面白い。)

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若い時分は、サビルロー仕立てのスーツ(トミー・ナッターの相棒だったエドワード・ゼクストンの仕立てだった)に、ロブのビスポークシューズを合わせて、ニューヨーク社交界では一、二を争うダンデイとして鳴らした。トルーマン・カポーテイが催した、あの伝説的な夜会「ブラック アンド ホワイト ボール」を知る、いまや数少なくなった生き証人でもある。

60年代からニューヨーク社交界の本流を生き抜いてきた彼の人生も興味深いが、先ず、私が惹きつけられたのはその住まいだった。

アパートメントといっても、天井の高い2層にわかれたメゾネットで、真紅の壁のエントランスには2階につながる螺旋階段がある。

圧巻は広いリビングルームで、その壁は絵画で埋め尽くされ、所々に置かれた飾りテーブルの上には、彫刻やオブジェが犇き、大理石の大きな暖炉の上には対になった18世紀の兵士の彫刻がこちらを睨んでいる、、、この夥しい量の収集品。


そして、それらが絶妙の配置で「美」を生み出している。


感嘆(正直、本当にソノ価値はある)している私に、ウイスキーが入ったグラスを手渡しながら、ダンデイ氏は悪戯っぽくコウ聞いた、「あなたも、何かコレクションしているかね。」、、、


西洋には「アンソリット」と呼ばれる、異なる様式、種類、つまり一見、まったく統一感のないもの(主には、その人の収集品)を自身の美意識で配置して、その主(あるじ)独自の感性を表現する(競う)という装飾技法がある、、、この部屋には、18世紀から19世紀の絵画、シュールレアリストの奇妙な彫刻、グラマラスなゼブラ柄の丸い大きなソファ、常に半開きになっているベネチアンブライドの窓にはストライプのカーテンが合わされている。

どれ一つをとっても単純な符号はなく、しかし、細部にわたってその組み合わせの絶妙に感嘆する。ただひとつ、「統一」を生み出すものがあるとすれば、それは、ある種の「暗さ」だろう。
窓は少し開かれているが、そこからもれる光は部屋を照らすというよりは一条の光の線で、それさえもオブジェのひとつに数えたくなる。天井から吊るされた古めかしい街灯のようなランプと、各所に配されたテーブルランプ、壁の絵を個々に照らす蛍光灯が部屋に陰影をつくっている。美は陰影にあり、、、これは、日本の家に通じる。

ただ、その圧倒的な「量」、、、

「私には子供がいないんでね。結婚もしてみたんだが、極く短期間に終わった。だから、私が死んだら、これらは全て美術館に寄贈するんだ。私の名前をつけた部屋をつくってもらうのを条件にネ。いま、キューレーターと打ち合わせしているンだ。」


彼は、60年代から活躍するコスチュームジュエリーデザイナーで、その作品は、オードリー・ヘップバーンや、ジャッキー・ケネデイ、そして歴代のファーストレデイ達や、ライザ・ミネリなどスター達の身を飾った。あのウインザー公夫人、ウオリスの遺品のオークションカタログにもその作品が載っている。それで、ウインザー公について尋ねたくなった。

「チャーチル曰く、大人になりたくない男、トップ(王)になりたくない男。それがウインザー公だと思うね。何度か、パリの邸宅に招かれたし、、、実に素晴らしい邸宅だった、、、ウオリス夫人はユーモアのセンスもあるし、率先してみんなを仕切るという人だったけれど、ウインザー公は言葉少なめで、デイナーの後、必ずカードゲームをするんだけれど、ウインザー公が参加することは稀だったな。
夫人がなんでもやっていたという印象だったね。ウインザー公は社交界好きで、王様になりたくなかったのは、王になると宮殿の中に引き込まざるを得ないからだとチャーチルはいっていた。おおぴらに社交界に顔を出すことは立場上できなくなるからネ。」


私は、時々、妙な感覚に襲われることがある。プルーストが、失われた時に想いを馳せることで、人の世の深遠に触れようとしたように、この時も老ダンデイ氏と昔話を重ねていくにしたがって、「現在」という時間が次第に曖昧になっていくような、、、おかしな理性の浮遊感を覚えた。多分、記憶が詰まったこの部屋も影響しているのだ。ソウダ、この部屋はどこかに似ている。ソレが、もう少しで思い出せそうなのだが、、、


「或るイタリアの公爵夫人が、エメラルドの十字架のネックレスを持っていたんだ。それは、継ぎ目の無い、つまり、巨大な一個のエメラルドから十字架を削り出したものだった。全く、見事なものだった。ところが、ソイツが或る日、盗まれた、、、」

卵ほどもあろうかという、妖しく光る緑色の鉱物が、まだ整理されないままの脳裏に割り込んでくる。たしか、石言葉は「新たな旅立ち」だったはずだ。ふいに、、、幼い頃、母に抱かれて、その首にある真珠のネックレスを引きちぎったことを思い出す。微かな音を立てて床に零れ落ちる真珠の玉、、、何故、ソンなことをこの歳まで覚えているのかというと、皆の一斉に驚く声に怯えて泣く私に、誰かが「世の中に怯(ひる)みなさなんナ」と恫喝したからだ、、、女の声ダッタ、、確かに、ソウ聞こえた。
それが、どのような意味でいわれたのか、ソウ聞こえただけで別の言葉だったのか、母が言ったのか、或いはソコに居合わせた別の大人がいったのか、、、ただ、意味不明だったソノ言葉が幼い頭にこびり付いて、成長するに従って、いつのまにか天の警句にスリカワッタ。私はその言葉を、勝手に免罪符のようにして、「世の中に怯む」のを良しとはセズ生きてきた。
ただ、コレほど鮮やかに覚えている記憶なのに、中年にさしかかった頃、母と昔話をしていて、私がフト、この真珠のネックレスの件を持ち出すと、母はキョトンとして「ソンナことはなかった、覚えがない」と言い出した。「あなたの思い違いヨ。」、、イヤ、母さん、私は、確かにソレを記憶しているのデス。


「 泣いてゆく向ふに母や春の風 」 (中村汀女)

ようするに、「夢」なのかもしれない。すぎっ去った「時」は、ちょうど夢と同じほどの重さなのかもしれない。

「、、、私は、印度には何回も出かけたンだよ。南から北、印度のすべての地域を旅して回った、、、」

いつの間にか、話はローマのビラから、遠く印度へと移っていた。なるほど、ウイスキーのチェイサーの水が入ったグラスは昔の印度にあった金属細工のものだった。、、、それにしても盗まれたエメラルドの十字架は、それから、どんな運命に弄ばれたのか、、、。もう一度、聞きなおそうかと思っている矢先に電話のベルが鳴った。


「チョット、失礼するよ、、、」

老ダンデイ氏は、電話口へと向かう。今夕のデイナーを共にするイタリアから来た友人のようだった。d0004856_21215634.jpg

私は、迷い込んだ小さな虫のように、部屋を散策することにした。
ヴィトール・ユゴーからユイスマンスの例をみるまでもなく、好みの時間軸や空間軸で自分の部屋を再構築することは、ダンデイたちの密かな楽しみであった。
ユイスマンスの「さかしま」では、外界の音さえコルク張りの壁でさえぎり、部屋の中という内なる世界の創造主になることで、主人公は「安定」を得ようとする。
そういう意味では、ダンデイたちにとって部屋は、精神の健常を保つための箱舟なのかもしれない。
私は、部屋の右半球から、左半球の方へ移動することにした。








マンハッタンの魅力のひとつは、建物だと思う。古い建物の美しさといえば、ヨーロッパだけを思い勝ちだが、ココには、19世紀後半から、20世紀初頭のアールデコ様式まで、なかなか見応えのある建物が並んでいる。

定宿にしている、「ユニオン リーグ クラブ」も、そのひとつで、 建家家、ベンジャミン・ウイスター・モリスによって設計されたジョージアン様式のメインエントランスには、素敵な大理石のスパイラル階段がある。

クラブ自体は、1863年に設立されている。ルーズベルトも、メンバーだったそうだ。このクラブは、ロンドンのクラブの提携クラブで、ニューヨークでは、他に「プレイヤーズ」、「ロートスクラブ」などがある。
ロートスクラブは、マーク・トーウエンもメンバーだった文学関係のクラブで、こちらは、秀麗なフレンチルネサンス様式の建物になっている。

ニューヨークには、他にも「エールクラブ」など、いくつかのクラブがあり、そのそれぞれが、魅力的な建物にある。

ユニオンリーグクラブに限っていえば、そのオーバーナイトルームは、ロンドンのクラブより、小奇麗で、ベッドも快適だ。ニューヨークのホテルは、総じてベッドや、ベッドリネンが良いように思う。

朝食は、メインダイニングでサーブされる。だから、朝食時にも、タイと背広が要求される。(原則的に、どこのクラブも、メインダイニングでは、タイと背広が要求されることになっている。)ロンドンでは、いまや、けっこうカジュアルな格好も許されているのを思えば、ニューヨークの方が、かたくなに、規律通りなのが面白い。

クラブには、お決まりのカードルームや、ビリヤードルームのほかに、3面のスカッシュコートと、「ユニオン リーグ ゴルフ クラブ」という「ゴルフ コース」もある。(ただし、スクリーンに向かって、球を打つバーチャルなものデスが。)

そして、料理がおいしい。友人と、期待もせず、昼食を摂ったとき、意外なおいしさに驚いた。クラブのメインダイニングだから、当然、フランス料理なのだが、前菜のイチジクのサラダや、メインで頼んだエビとロブスターのソテーなど、付け合せの野菜のコンビネーションや、なかなか古典的で美しい盛り付けなど、ロンドンより、よほど、おいしくて、手抜かりがない。

























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copyright 2007 Ryuichi Hanakawa

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by rikughi | 2007-05-28 05:05 | ニューヨークのダンデイ

私家版・サルトリアル ダンデイ 「19世紀と20世紀」 その参




「眠りにつくときに、翌朝、目覚めることを楽しみにしている人間は、幸福である。」
(哲学者ヒルティの言葉)





「優雅なる無関心」





公は、ホーズ&カーテイスでシャツをつくる際に、シャツ生地で、幾つもボウタイを作らせている。コレを、春夏のスーツに、よく合わせているのだが、タイではなくて、コットンのボウタイなのが、品の良さと、不思議に軽やかなカジュアル感を醸し出して、秀逸な着こなしだと思う。

写真で見る限り、公のボウタイの結び方は、デインプルをつくらない、ナチュラルな結び方で、これは、気取りのない優雅さを感じさせる。
ウインザー公が、「ウインザーノット」でタイを結んだことは、生涯なかったというのは、有名な事実だが、タイも、デインプルをつくらない、シンプルなプレーンノットかダブルノットだった。
面白いことに、少年期や青年期の初め頃には、キチンとタイを締め上げて、公は写真に収まっている。それが、ウインザー公としてのスタイルが出来上がるとともに、結び方も変わっていく。

そこには、公の内容の変化があったはずなのだが、そう言えば、公がどういう人物なのか、最後には、どういう人物として、死を迎えたのか、そういう、公の内面を示した記述は、資料を探ってみたが、意外に少ない。





「スタイル」というものが、人の内面と密接に関係するとすれば、そもそも、ウインザー公なる人物は、いかような人物だったのか?





ダヌンツイオの「スタイル」なら、察することができる。それは、多分、「懐古的なエレガンスへの憧憬」と「ロマン的な英雄崇拝」から生まれたものだと思う。
事実、ダヌンツイオは、そういう人生を送ろうとしたし、ある意味、そういう人生を生きたと思う。敬愛すべきは、その「スタイル」の軸は、少なくとも、自身の内で完結し、生涯、ぶれることはなかったということだ。

翻って、ウインザー公の内実を、推測した時、奇妙な空白感を覚えるのは、何故だろう?






「王位放棄」後の、公の「政治活動」としては、幾度かにわたるドイツ訪問と、「有事の際(ヒットラーによるイギリス占拠ということか?)」には、英国の交渉窓口は、唯一ウインザー公とするという、ヒットラーとの、イノセントな「密約」ぐらいなもので(公の行動を不穏に思ったチャーチルによって、第二次大戦中は、バハマに総督として「幽閉」される。)、公が明確な意思を持った政治的人間であったとは思い難い。

また、或る夜のデイナーで、同席した紳士によると、公の話題は、カントリーハウスのガーデニングに終始したという。

また、乗馬や、狩猟など、公は、意外(?)にスポーツ好きで、特に、乗馬の障害競技を好み、落馬による、2度にわたる骨折を心配した家族をしりめに、障害競技をやり続けたという。

また、ウインザー公の回想録を読むと、やはり、それなりに興味深いが、一人の男の人生としては、どこか、生々しさに欠けるような気がする。翻って、「ウオリス・シンプソン」の生涯を考えれば、それは、一人の女性の生涯としては、かなり生々しく、ドラマチックだ、、、




こうして考えていくと、思い浮かぶのが「優雅なる無関心」という言葉だ。

ソサエテイーにおいて、最もエレガントとされるのが「優雅なる無関心」という態度で、これは、幼少時より、徹底的に教育される。しかし、今の時代に、この態度を、正確に説明するのも、実感として納得するのも、難しいと思う。

ここでいう、「無関心」という範囲は、物事に動じないというだけではなく、有事にあっては、自らの危険や死も意に介さないという所までをも含む。といって、「勇猛果敢」とか、「厭世観」とか「ニヒリズム」というのとも違う。自然に体が向かうというのが正解で、武士道とは、根本的に違う。


それは、「哲学的」なものではなく、身体に近いものなのだ。


これに、「優雅なる」という形容詞がつく所で、これは、モウ、付け焼刃では適わないことがわかる。これは、意識して身に着けるというものではない。



ウインザー公の人生に、スタイルがあるとすれば、それは、この「優雅なる無関心」に他ならないだろう。そういう意味では、前代未聞の「王位の放棄」は公のスタイルにおける頂点であり、それ以降は、一種の引退生活であったのだろう。




セシルビートンの言によると、戦後、公の表情には、しだいに、自身の「人生の空虚さ」への苛立ちがみえはじめたという。
「ウインザー公は、首を仰け反らせながら、無防備に笑うんだ。まるで、狂犬病にかかったテリアのように。」、、、

陽光ふりそそぐ、南仏の公の広大な別荘「La Croe」の毎日も、公の気分を安らがせはしなかったようだ。公は、落着きがなく、「失われた日々」に縋りつくように、日中はテラスで、バグパイプを奏でることが日課だった。そして、その物悲しいウエールズのメロデイーは、デイナーの合図まで続いた。


d0004856_18103981.jpgしかし、誰もが認めるところだが、それでも、公の生来のチャーミングさと、ある種のグラマラスさは消えなかった。それは、公に染み付いたもので、意識するとか、しないとかではなく、ウインザー公という存在そのものだった。
それこそが、公の「優雅さ」であって、それは、悲しいことに、人生の充足感とか、そのようなものとは別のところにあった。




私は、公のスタイルを、最も理解していた一人は、フレッド・アステアだと思う。聞くところによると、アステアは、ロンドン公演の際、楽屋を訪れたウインザー公の装いの、エレガントな「軽さ」に敬服したという。それで、さっそく、ホーンズ アンド カーテイスに駆け込み、公と同じ衣服を注文しようとしたが、ホーンズ アンド カーテイスは、これを丁重に断った。

結局、アステアは、アンダーソン アンド シェファードで、背広を作り、アンダーソン アンド シェファードは、アステアのおかげもあって、それ以降、サビルローでも、最もアメリカ人顧客の多い、米国の流行を追う特異な存在となる。


アステアが、仕立て上がった背広を、一度、壁にたたきつけてから着たという風説は、本当かどうか知らないが、アステアは、それ以降、「エアリーエレガンス(空気のように、軽やかなエレガンス)」と称される、ハリウッドでもダンデイとして知られるようになった。


この「軽やかさ」=「優雅なる無関心さ」というのが、エレガンスの本質だと見抜いたところが、さすが洒落道楽のアステアといえる。

実際、公の装いは、靴下に至る細部まで選び抜かれているが、といって「シリアス」さが無い。それは、公自身の人生のように、客観的には、波乱に満ちていながら、重苦しい現実の「シリアス」さからは、無縁なように見える。


極論すれば、公がどのような服を着ていようとも、或いは、自身の置かれた立場を、いまさら嘆いていようとも、多分、公は軽やかに、エレガントに映るようにさえ思う。

それは、拭いきれない「染み」のようなものだ。

「身についたエレガンス」というのは、良い仕立ての服を着続け、そういう生活を送り続けなければ身につかないが、かといって、金がかかった服や生活が「エレガンス」というわけでもない。

結局、そういったものがどうでもよくなって、それでも、そういう生活を、無作為に送り続けているうちに、それは、「染み」のように、ポツポツと現れてくるような気がする。
これを、別の角度から説明しているのが、「鬼火」で、この映画のモーリス・ロネをみたとき、コレは、ウインザー公の一変形だと思った。
この「エレガンス」のあり方は、極めてヨーロッパ的で、ある種の「クラス」にしか存在しないものだ。

この監督(ルイ・マル)は、どうして、コンナ映画を撮りたい思ったのか。筋としては、ナイーブすぎて、見る方が、かなり、のめり込まないと成立しないと思うのだが。しかし、確かに、昔は、こうした、無防備な「染み」のようなエレガンスを持った男がいた。


こうして、考えていくと、本質の「エレガンス」というのが、論理よりも身体に近いもので、意図するものではなく、より無意識にあるものだと分かってくる。そして、大袈裟にいえば、場合によっては、健全な人生を狂わせかねない「厄介な」ものでもあるような気がする。


多分、「ダンデイズム」というものも、ボー・ブランメルの最期をみるまでもなく、そんなモノなのだと思う。







しかし、アステアが、時折、ストライプのスーツにボタンダウンのシャツを合わせているのは、ホーンズアンド カーテイスへの彼なりの返答だったのだろうか。






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by rikughi | 2007-05-03 14:48 | 3.19世紀と20世紀 その参