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「愛人」 その3




六義庵歳堂


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デカダンに赤く塗られた仄の暗い小部屋で、俺が傷だらけのハミルトンカーキを覗きこんでいたら、横から気の良いヴェラが「今日はやけに時間を気にするじゃない、モロー」と囁いてきたので俺は慌てて顔をあげた、
「誰か良い人と待ち合わせでもしてるんじゃないでしょうね、」、言葉というのは時にしてやっかいだ、虚をつかれた俺は咄嗟に適当な言葉を探し切れず、なんとか唇に指を当てて「シッ、黙ってろ」と虚勢をはるのが精一杯だった、

ヴェラは、なおも身体を摺り寄せてきて「あら、良い時計をしてるのね、アメリカ製ね、」と俺の腕を覗き込む、
思わず俺もいっしょになって覗き込んだ、made in U.S.A.、小さな傷痕のある毛むくじゃらの俺の腕にまるで秘密の刻印を押したように、小さな文字が浮かんでいる、

その文字が仄めかす通り、モンマルトルのチンピラを気取っている俺はアメリカ国籍の生粋のヤンキーだ、

戦後、フランス娘にイカれてパリに居残った俺が「マダム」リーヌと出会ったのは、リーヌがまだ極く当たり前のハウスワイフでいられた、もう15年も前のことになる、出会ったきっかけは、単純にそのリーヌの亭主だった男が、昔は少しは勇気のあるレジスタンスの「英雄」で、「戦友」だったからだ、俺は軍隊時代にその男と秘密裏に連絡をとりあっていたことがある、

戦後、俺たちは再会し、一人身だった俺を彼らは、よく日曜日の午後の食事に誘ってくれた、


当時から、リーヌは強い個性を持っていた、ユダヤ人との混血であるリーヌは4年間あまりをドイツの片田舎の収容所で死と背中あわせの長い時間を送っていた、その人生の仕打ちが、この華奢なブルネットの美人を強固な個性をもった「マダム」に仕立て上げたともいえる、リーヌの強固さを示す一例は、戦後、パリに戻ってからも同じ収容所にいた仲間をドイツ人に協力したかどで忘れることなく告発したことからも分かる、少しでも心当たりのある者はリーヌを恐れた、


リーヌがこの商売をはじめたのは、その亭主が戦後のパリとは折り合いが悪かったせいもある、はっきり云えば戦後の混乱をなりふり構わず生きていくには商売下手で、とくにリーヌの告発騒ぎはたとえ正しいとしても昔からの仲間を遠ざけた、

しばらくして、戦争と英雄的行為が忘れられない亭主は、激しい口論の末、リーヌを捨ててアルジェリアに旅立っていった、そうして残されたリーヌはモンマルトルで「世界最古」の職業に身を投じることになった、

そして、亭主と別れた後は、自然につきあいも疎遠になっていき、俺はしばらくリーヌとも会うことはなかった、




そのリーヌと再会したのは、モンマルトルのボクシング場だった、影さえ見せないほど、煌々と人工の強い光に照らされたリングで俺は溌剌とした黄金色の肌を持つ若者相手に6ラウンドを戦っていた、空をくう俺の渾身のパンチ、その度に観衆のヤジ声が大波のように押し寄せる、、、実際、俺は強力なパンチを持ったボクサーだった、それは自慢できた、しかし、若干のろまなところがあるのが弱いところで、とくに小柄で敏捷な相手には、そのパンチ力を生かす前に相手のジャブに翻弄させられがちだった、
その日も、幾度かの危うい場面の末、ようやく判定で勝てたという有様だった、試合を終えてボロボロになった俺を、リーヌは更衣室に訪ねてきた、リーヌは上等のキャメルのコートを着ていて羽振りがよさそうだった、そのコートは、俺のゴツゴツした裸の体とは対照的に、触れば溶けてしまいそうなほど柔らかに見えた、、、久しぶりね、まだ意識があるようだったら一杯おごらしてちょうだい、


俺たちは、キュスイテーヌ通リにある地元のカフェでささやかな祝杯をあげることにした、聞くところによるとリーヌはこの時、既に小さな「組織」をつくりあげていて「成功」を収めていたという、その噂は風の便りで俺の耳にも届いていた、彼女には「商才」があったのだ、

何杯かグラスを重ねたあげく、リーヌは予定通りという風に切り出してきた、成功した多くの経営者の例にもれずムダな誘いはしないのだ、いつまで殴り合いゴッコをつづけるつもり、モロー、あんたがもう少し利口な生き方をしたいならば、良い話があるんだけど、、、



たしかに、ボクサーとしての俺には限界が見えている、リーヌがいうように「成功」の見通しは薄いだろう、
しかしそれでも俺は、観衆に囲まれて光り輝くリングで戦うことにとり憑かれていた、それは、リーヌの前の亭主を妻を捨ててまでアルジェリアに出掛けさせた「何か」に似ている、戦争を経験した或る種の男が抱えるひとつの後遺症のようなものだ、
何と説明すれば良いんだろう、それは男が生きていくうえで欲しがる「手ごたえ」のようなもので、いまの俺の日々の信仰の芯になるもの、といえるかもしれない、そう、ボクシングは俺にとって、より肉体で感じることのできる「信仰」だった、俺は殴るだけでなく殴られることに安心さえ感じていた、試合の後、傷ついた肉体を煤けたアパルトマンのベッドに横たえ、俺は休息と身体の傷が癒えるのを辛抱強く待っている、試合に勝利したときは甘い達成感とともに、負けたときは焦燥とともに、、これが、戦後、なんとか正気を保つために選んだ、自分なりの「信仰生活」なのだ、



しかし、リーヌには抗いがたい不思議な魅力があった、リーヌの野望、リーヌの溌剌さ、リーヌには優れた経営者だけがもつ、「事業」に対する単純で力強いビジョンといえるものさえあった、名だたる企業を任されても、リーヌならそれなりにやりこなしただろう、

結局、俺はリーヌのカリスマに取り込まれ、コンビを組むことを承諾した、
なにより、リーヌはたしかに戦後を新しい「考え」で生きていこうとしていた、いまだ戦争の記憶をひきずっていた俺には、それが強烈な印象だったのだ、
いまだ俺の周りには、そんな人間はいなかった、こうして俺は、時代に取り残された、ボクシングを軸とした「信仰生活」を捨て、金と快楽という新しい20世紀に向き合うことを選んだのだ、



リーヌと会って話した者は、いつしか、リーヌこそが自分の人生を変えてくれる頼もしい女神のように感じたことだろう、それがリーヌのカリスマだ、

それに加えて、リーヌは独創的な「経営者」だった、リーヌは当初から「特別な」顧客のための特別な「秘密の館」をめざしていて、そこでは金の受け渡しひとつさえ「エレガントである」ように工夫され、女たちが直接、お客に「報酬」について口にすることはなかった、スタイルがあったのだ、


俺たちがコンビを組んで、最初の幸運はデンマーク生まれの類まれなブロンド美人、ジャンヌと出会ったことだった、
利口にもリーヌは、彼女に限っては顧客のなかでも極く特別な上流の客しかとらせなかった、
時代はすでに戦争の記憶を忘れてしまおうとしていて、ヨーロッパには人生の快楽を求める「洒落た」上流階級と、戦後の新興成金が幅を利かせ始めていた、顧客を限定したことが、かえってそうした人種のエリート意識をくすぐり、リーヌの店へ自由に出入りできることが、いつしかひとつの隠れた「ステイタス」となっていった、

それをきっかけとして、リーヌは「プロの女」たちを排して、美貌に恵まれた下積みの女優やモデル、ダンサーを集めることに専念した、
特筆すべきは彼女たちに「館」にふさわしい「教養」を身に着けさせたことで、リーヌの店の女たちは数か国語を話し、上等なクチュリエのドレスを身に着けていた、こうして「リーヌの占いの館」は、雪ダルマ式に成功を収め、ごく限られた上流階級の「秘密クラブ」として、名を馳せていった、




ただ、行過ぎた成功には、時として罠がある、それは、「リーヌの占いの館」も残念ながら例外ではなかった、自分たちでは全く気が付いていなかったが、いつのまにか「館」はある機関、第三者にとっても価値のあるものに映っていたのだ、

その巧妙な罠は、こんな風に仕掛けられていった、、、


或る日、正午過ぎに目覚めた俺は、着慣れたツイードのジャケットを引っかけて、いつものようにサン ドニ通りのカフェに遅い朝食を摂りに出た、8月も末になって季節は秋に向かっている、乾いた空気に混じって通りに漂う食べ物の匂いが俺を幸せな気分にした、

この雑然とした通りには昔から他の場所では目の飛び出るような値段を請求されるだろう食材と料理が、有難いことに下町の手ごろな値段で腹に収められる店が軒を並べているのだ、

行きつけのカフェ、「3匹の魚」にはすでに常連たちが集まり食べ物屋らしいにぎわいがあった、

俺はいつものようにソーセージやベーコン、スクランブルエッグなどが豪勢に盛り付けられた「アメリカンブレックファスト」を特別注文し、絞りたてのオレンジジュースを手始めに一口飲みはじめたとき、同じアパルトマンの上に住んでいるマルクが不機嫌な顔で声をかけてきた、おまえさん、マダム・ヴィルモンに会ったか、、、
マダム・ヴィルモンは俺たちのアパルトマンのおかみ兼管理人で、俺は金に不自由しなくなった今も、この下町の古めかしい棲家を離れることが出来ないでいた、
それは、小柄でやせぽっちで、毛玉が目立つ古ぼけた茶色のジャケットをいつも着ていて、気の良い子鼠のような表情をみせる愛すべきマルクをはじめ、ボクサー時代からのつきあいの仲間たちがいてその気がおけない生活を捨てるのも忍びなかった、第一いまさら俺に金にあかした生活が似合うはずもない、

俺は、慎重に普段通りを装い、周囲には肉体的にボクサーに限界を感じて、今はやりのガキ相手のデイスコテイークの用心棒に雇われたことにしていた、



「ゆンべ、俺が食事にでかけようとおりていったとき、お前の部屋のドアが開いてたんで、中を覗き込んだら、マダム・ヴイルモンと紳士面した男がいたんだよ、モロー、お前、なにか探られなきゃいけないことでもやらかしたのか?」

俺はとっさに、リーヌの店のことが脳裏に浮かんだが、表向きはナイトクラブを装うそれが俺とつながりを持つことをこの界隈の人間が知るよしもない、

俺はとりあえず何もいわずに、首を横に振った、マルクはなおも不審がって、「モロー、何か心配があるなら、俺を信じて話せよ、俺だってこの界隈には長いんだ、少しばかりのコネだってないわけじゃない、お前、ズイブン立派な本の全集をもってたな、その紳士づらしたやつは、さんざ部屋を探ったあとに、あの本を見て、モローさんは文学にも素養がおありですなとかヌかしやがった、モロー、悪いけどあの本は確かにお前には不釣合いだ、あれが盗品ってわけじゃないだろうな、」

「マルク、お前一部始終を見てたのか、」、「一部始終どころか、その紳士ヅラに挨拶したさ、何か知ってることがあれば連絡しますからって云って、名刺ももらっといたさ」

マルクが、くたびれ果てたジャケットの胸ポケットから取り出した名刺を、俺は引っ手繰った、その小さな紙片には、「弁護士 ジャンニ・メンケス」と住所と電話番号があった、

「ところであの本、ギリシャ神話かなんかか、ユリ、、、」、「ユリシーズ、、似たようなものさ、」


ユリシーズ、、、ホメロスの「オデュッセイア」になぞられて、ジェイムズ・ジョイスによって書かれた18章からなるダブリンの1904年6月16日、その日、一日を描くこの物語は、俺の「信仰生活」の旧約聖書代わりだった、俺はリングでヘトヘトになるまで傷つき、ベッドで、この20世紀の奇書を読みふけりながら肉体を癒した、


リーヌと再会してから、そういえば俺は、この本を開くこともなくなった、

まさか、、、

俺は、まさかと、思いながらも、心に不安の種子が一瞬にしてはびこっていくのを隠すことが出来なかった、

まさか、、、その不安のわけは、俺が戦後、自らを「信仰生活」に閉じ込めたその理由の核心となるものだった、そして、それはこの書物とつながっている、

せっかくのリヨン産のソーセージの味もわからないまま、俺は上の空でつぎつぎに食物を腹に収めていった、マルクは心配そうな子犬のようにそれを見守っている、

「よお、とりあえずその弁護士のところに行ってみないか、案ずるよりは生むが易しっていうじゃないか、モロー」


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俺には選択の余地はなかった、マルクの意見に従って、俺たちは、その足で名刺が告げる住所に向かった、マルクに言わせると善は急げ、奇襲に勝る戦術はなし、、、

1区の瀟洒な小道にある古びた小さな建物に、弁護士メンケスは事務所を構えていた、入り口の真鍮の表札によると3階にその事務所はあるはずだった、建物に入ると、年老いた善良そうな玄関番が古びた机の向こうで新聞を読んでいたが、俺たちは、その不審な表情を無視して、ギシギシ鳴る急な階段を勝手に昇っていった、

3階には2つの扉があり、しかしどちらにも看板に類するものはなかった、仕方なく俺たちはひとつづつ、最初は丁重に、続いて今度は無遠慮にノックしたが、どちらの扉からも返事はなかった、


俺たちが途方にくれていると、ゼイゼイいいながら玄関番の老人が階段を上がってきた、「あんたたち、誰かさがしておいでなのかね、」咎めるような表情で老人は続けた、「だが、生憎、3階には誰も住んでおらんよ、」

口火をきったのはマルクだった、俺が手にもっていた弁護士の名刺を引っ手繰ると、それを老人の顔の前に突き出しながら、「ジイサン、俺たちはこのメンケスっていう旦那に会いたいんだがね、ホレ、この通り、ここの住所だろ」、

老人は、マルクの勢いに気圧されていたが、メンケスという名をきいて平静を取り戻したようだった、「ああ、ムッシューメンケス、メンケスさんはもうココにはいない、、」

「ナニ、引越ししたっていうのかい、」マルクはいまにもとびかかりそうな勢いだった、

「イヤ、一ヶ月前に亡くなったんだよ」、、、


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それからの一週間の俺の気持ちをどう表現すれば良いだろう、

マルクは、第三者の名を語った「不審な人物」を不用意に下宿人の部屋に入れたかどで、本質的には気の良いマダム・ヴィルモンを責め立て、おかげで俺は、マダム・ヴィルモンから不審がられることもなかった、

だが俺には、これが単なる茶番で終わるはずのないこと、何らかのメンドウに巻き込もうとする正体の知れない何者かが動いていることが分かっていた、その7日間、ジャンニ・メンケスの一件は、俺を生殺しにするような不安を残していった、

その不安が具体的な姿を現したのは、それからきっちり一週間後、パリの美しい秋の到来を予感させる朝だった、

その朝、俺は、無数の黒いカタツムリがシーツのうえに這い上がってくる夢にうなされて、声にならない叫びとともに思わず目を開いた、
その時、冷たい汗に濡れた俺の耳に、ベッドの脇のこれも不吉な黒をした電話のベルが鳴り響いた、いや、それはずっと鳴り続けていたのかもしれない、



「ムシュー モロー」、それはこの界隈では聞くことのない深みのある、洗練された声だった、

「あなたとは、まだお目にかかったことはないが、私の名前はジャン・マンゼルと云います、あなたにとって重要な問題でお電話をかけたのです、」

俺にとっての「重要な問題」、その言葉は俺の心の不安に突き刺さったが、俺はわざと素っ気ない声で言い返した、

「ちょっと待ってください、あなたは、ジャンニ・メンケスという名に聞き覚えがありませんか、、、」

マンゼルと名乗る男は、俺の唐突な質問にもひるまず、話を続けた、

「あります、その件に関してはお会いしたときにお話します、」

「マンゼルさん、アンタは覚えがあるとおっしゃった、いったいどういうことなのか、今、説明してもらえないですか、それが出来ないなら、お会いするつもりもありません、」

「困りましたな、私は単に仲介者にすぎないのです、これ以上、ご説明するよりは実際に一度お目にかかった方がよろしい、
それに、あなたが思っているほど胡散臭い話ではないのです、まともな取引の話です、あなたに、犯罪まがいのことをお願いしようという訳ではないのです、」

「取引?いったい俺とアンタが何を取引しようって言うんです、俺には取引するモノすら見当たらない、」

俺の剣幕に、マンゼルがためらっているのが、その少しの沈黙の間から察せられた、

「モローさん、あなたがご不審なのは分かります、、ここで、あまり細かいことはお話ししたくなかったのですが、致し方ありません、実は、あなたがお持ちのジェイムス・ジョイスの書物を50万フランでお譲り頂きたいのです、」

俺は、その金額と申し出に驚いた、と同時に警戒もした、

「それは、有難いが、あれは、稀観本でも初版でもない、そんな大それた価値があるとも思いませんがね、」

「存じてます、古本屋に持っていっても、まあ、せいぜい20フランか30フランでしょう、ただ、価値というのは人が決めるものです、まあ、あの本の『思い出』の価値といえるでしょうか、」

俺は、その「思い出」という含みに不安を感じた、俺には覚えがあるのだ、マンゼルはサハラのタランチェラのように、毒針を静かにもたげた、

「モローさん、その『思い出』にはお心当たりがおありのはずです、あの書物は、あなたのものではなかったはずだ、、、さあ、少しお話しがすぎました、明日午後2時に車を迎えにやらせます、よろしいですね?」


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翌日午後2時きっかりに、マンゼルがいった迎えの車はアパルトマンの前に止まった、


それは、ツヤツヤした黒い棺桶を思わせるリムジンだった、運転席から降りてきたのは、これも黒の制服を着こんだ、やせっぽちの蝙蝠を思わせる50代前後の男だった、こけた頬に比べて、耳が蝙蝠の翼のように大きくひろがっている、

「ムシューモロー、どうぞお乗り下さい」、芝居じみて手を広げる運転手のその向こうにある、その日のパリの空は低く、グレーに曇っていた、空気は冷たく、少し湿っている、夕方には小雨が鋪道を濡らすかもしれない、

やせっぽちの男の運転は職業的にスムーズで、そして職業的に無言のままだった、車は、サンドニ凱旋門の角を曲がると当然の如く西へ向かった、


俺は、何度かやせっぽちに言葉をかけるが、運転手から返ってくるのは、言葉にもならない相槌か、うなづきだけだった、

俺は諦めて、シートにふかくもたれ掛かると、盲目の吟遊詩人によって語られたオデュッセイアの冒頭の一句を口ずさんでみる、

「あの男のことを、わたしに語りたまえ、ムーサよ、 数多くの苦難を味わったあの男を、、、」


俺はどうしても、オデュッセイアの苦難の旅物語と今の俺をだぶらせずにはいられなかった、俺は旅から無事、戻ってこれるのだろうか、


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車は、まるで黒い液体のようになめらかに午後のパリの街並みをすべり抜け、流れていく、俺はその革張りのシートに埋もれて戦争以来の過ぎさった「時」を反芻せざるをえなかった、マンゼルの「思い出」という言葉が重いパンチのように肝臓の辺りにひびいていたのだ、この閉ざされた快適な車内から窓の外を眺めていると、現実世界からしばし逃れた夢の繭のなかにでもいる気になる、、、オペラ座を通り過ぎるとき魔女のように黒いドレスを幾重にも着た老婆が道の向こうで俺をしきりに見つめていたような気がする、、運が尽きたね、アンタ、、俺は窓の外に流れすぎる見知らぬ顔を眺め続けていた、幸福そうな顔、不幸せな顔、空虚な顔、顔、顔、顔、、、ラファイエット、オープランタンの前を通って、黒いリムジンはモンソー地区にはいっていった、ブールヴァール クールセールで車は道をそれるとついにグロッタのような石造りの邸宅の前で止まった、



「さあ、着きました」、運転手の声に導かれ、俺はドアを開け、丸い小石が敷き詰められたファサードに出ると、その岩から削りだされた大いなる伝説の怪物のような建物を見上げた、何もかもが古代の岩の遺跡のようにいかめしく、威圧的だった、それだけで、今日の運勢が俺の味方ではないことを悟らずにはいられなかった、


メイドに案内され建物に入ると、そこは磨き上げられたオークパネルに囲まれ3階まで吹き抜けになった巨大な円形の広間だった、天井高くに、これも巨大なシャンデリアが吊り下げられている、目の前には凝った細工の手すりがついた大理石の悠々とした階段が広がっていて、それは中2階で二手に別れ、さらに天上へと繋がっている、


俺が詩人だったら、この建物と天上へ向かって延びていくひんやりと冷たい、貴婦人のようにエレガントな大理石の階段について一遍の詩を捧げたろう、無意識に階段の方へ進もうとする俺を制して、メイドは別の扉に誘う、その扉を開けると今度は鼠の通り道のように、天井の低い薄暗く、細長い廊下が現れた、その両脇には、工作室、狩猟の道具や銃が仕舞われている部屋、ランドリー、料理室、何かの倉庫、そしてやっと突き当たりに、檻のような旧式のエレベーターがあった、


その二人も乗れば精一杯の小さなエレベーターはチェーンの音をガラガラ立てながら、上昇を始めた、メイドは前を見つめたまま人形のようにまだ無言だった、あの痩せぎすの運転手も然り、この家の使用人には厳しい言論統制が行き届いているかのようだった、それがこの屋敷を、優雅な高級住宅地にある邸宅というよりは、まるで徹底して統制された軍隊の指令本部のように思わせた、

エレベータのなかで、俺は檻に閉じ込められた動物が先ずそうするように孤独のままに天井を見上げた、木のパネルを張ったそこには、引っ、かき傷のような落書きがしてあった、、、マリアンヌ、、、稚拙な書体で何か尖った先で書かれた文字はそう読めた、


ギシギシ揺れながらも、エレベーターは「約束の地」に到着し、メイドは無言のまま扉を開けると振り向きもせず先を急いだ、そこは、建物の端から端へ横切る長い回廊だった、一方には大きな窓がいくつも続き、もう一方にはオークパネルが延々と続いている、時折、古びた椅子や、ソファ、細長いテーブルが壁際に置かれていた、まばらに置かれたそれらは、この建物のなかでは、すでに居場所を失った古家具のようだった、窓からふり注ぐ午後の陽光に照らされた色褪せたその家具のせいで、俺は廃墟に迷い込んだ気分になった、


ついに、メイドはひとつの部屋を探し当て、静かにノックをした、扉が開かれたとき、最初に声をあげたのが、多分マンゼル本人だろう、部屋には数人の男女がひかえていた、

「ムシュー モロー、お待ちしていました」、それが俺の「裁判」の始まりを告げる「木槌の音」だった、



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copyright 2008 Ryuichi Hanakawa








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by rikughi | 2008-11-16 21:10 | 「愛人」 Ⅲ