「男の躾け方」 6  愛人



「、、愛人という表現は、単に『愛する相手』であるばかりでなく、ある種の暗示を含んでいる。」
(ウイキペデイア 百科事典)



d0004856_0514143.jpgさて、、、
どういう暗示を含んでいるのかは大人の貴方なら大方察しがつくものとして、或る人によると、「愛人」とは、「最もコストがかかる情熱」、と定義されるものらしい。

カトリック的な婚姻制度が、人間社会に出現して以来、「愛人」もまた、禁断の果実として、共に存続しつづけてきた。

穿っていえば、それは神が人間を試すために用意したスリリングな罠とも思える。

しかし、どうして、こうも男たち(場合によっては女性も)は、「愛人」という言葉に弱いのだろう。

たしかに、「愛人」は、単に「美人」と言うより、気弱な男たちに甘い幻想を抱かせるものかもしれない、、、

「愛人」、、、彼女たちは決まって、いつもいい匂いをさせている、きゃしゃな白い首筋をしていて、待ち合わせ場所では、向こうから飛び込むように腕を組んでくる、その拍子に、その やわらかな乳房が軽く、しかし確かに触れてきたりする、、、それを、小悪魔の計算ずくのしぐさと今夜に期待を馳せるのか、単に偶然と受け流すべきか、そう考え始めた時点で貴方は、すでに危険な罠に絡められ始めている。



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愛人という「職業」があるのを知ったのは、私がまだ20代の頃のパリでだった。当時は、1920年代、30年代生まれの人間が、まだまだ社会の中枢に現役として残っていた時代で、いまだ50年代、60年代のパリが忘れがたい思い出のように街に縋(すが)りついていた。

ピガールやモンマルトルには、そういう昔ながらの胡散臭さがそこかしこにまだ潜んでいて、パリの宵闇は深く、長く、独特の夜の匂いがした、その「夜の匂い」は一種の媚薬のように肺に深々と吸い込まれ、誰もが「夜」に愉しみを期待していた。
有閑人種は毎夜、「カステル」や「ニュージミーズ」というナイトクラブに集い、彼らはそれぞれの宴を夜毎勤めていた。それは、何か、「祭礼」にも似ていた。そう、アフリカかどこかの辺境部族の祭礼を思い起こさせた。誰もが流行の服に着飾って、女たちは宝石の煌きを身に着けていたが、どこか土俗的なものを思わせた。それは、パリという都会の夜に蠢く原始の祭りだった。野生の木の実から作られた怪しげなドブロクの代わりに、華やかに泡立つシャンパンが振舞われたが、シャーマンがいて、ときに生贄が供えられるのは同じだった。

誰もが、まだ「夜の匂い」の媚薬的世界に信頼を寄せていて、そこでは馬鹿げたことが平気で行われ、許されるものと信じられていた。
それに、ここはパリなのだから。


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その夜、私はアベス通りの街頭で煙草を喫っていた。指定された占いの店の看板を探していたのだが、なかなか見つからないのだ。通りを迷うことに飽きた私は、煙草を片手に看板があるであろう建物のもっと向こう、モンマルトルの夜空を見上げる、少し風が吹き始めて、それはノルマンデイーの海を思い起こさせた、一昨日(おととい)まで、私はそこにいて毎日、海で小さな船を走らせていたのだ、少しの風でも波のうねりは大きくなる。海の潮を含んだ風と違って、モンマルトルに吹く夜風には匂いがなかった。店の名は、たしか「リーヌの占いの館」といっていたように思う。その店を教えたのは友人のリュックで、彼とは今夜、その店で落ち合うことになっている。


「リーヌの占いの館」は、「占い」とは名ばかりで、実際にはある種の秘密クラブだと噂されていた、それも、いま最もスノッブなジェットセットが夜毎、大陸を越えて巡礼者のように集まるパリの夜のメッカと喧伝されていた。モロッコ風にしつらえたサロンには、東洋趣味の朱の房がついた行灯が幾つも吊るされ、アフリカの虎や熱帯の動物の剥製がそこかしこに飾られているという、噂には尾ひれがついて、ある夜は、ゲーンズブールが酔っ払って正体を失くしたバーキンに馬乗りになって享楽の宴が朝まで続いたと伝えられた、しかし、実際にその場所を知る者も、訪れた者も少なく、噂は実体を見せないまま羨望と期待を残していった。

合法、非合法を問わず、享楽の限りを提供する「リーヌの占いの館」は、一説には移動遊園地よろしく或る時は華やかなシャンゼリゼの真ん中に、或る時はひっそりとしたモンマルトルの片隅に、その居を始終移して司法当局の目を逃れているとも云われていた。


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夜の向こうから女が歩いてくる、夜空から通りに視線を移した私は、そこに彼女を見つけて、その姿に魅きこまれざるを得なかった、黒いパリの夜空には星がなかったが、地上に彼女がいた、夜空を見上げていた私には、まるで星の化身のように彼女が舞い降りてきたように思えた、

華奢にみえて意外に背丈もある、豊かなブロンドを巻き毛にして、白いウサギや小鹿や、小動物を思わせる小作りの顔をしている、多分サンローランのリブゴーシュであろう黒い短いドレスが、まるでいつもそれしか身に着けないように似合っていた、そして、ここからでも華奢なからだに不釣合いな豊かな胸が歩調にあわせて揺れているのが分かった。

いま思えば、そんな時間のモンマルトルを彼女が一人で歩いていることが不自然だった。


深い天空に未知の星を探し出した天文学者のように、私はどうしても彼女から目が離せない、

鋪道の向こうに点在する街灯の灯りを背にして、彼女が歩みをすすめる一秒はまるで何時間にも思えた、彼女の細く伸びた脚、夜に浮かぶ白い肌、、、ふいに、彼女はノルマンデイーの海で走らせていた小さなヨットを私に思い起こさせる、海の風を帆にいっぱいためて波を砕いて走るヨット、彼女が放つ性的魅力にはためらいがなかった、夜の鋪道に帆をひろげて彼女はやってくる、おあつらえ向きに風がひと吹き街を洗ってゆく、


そのとき不思議なことに彼女は私の存在をもう了解済みのように軽く微笑んできた、、、ぶしつけな私の視線は、彼女に受け容れられたのだろうか、或いは単に習慣のようなものに過ぎないのか、夜のモンマルトルの鋪道に開いた微笑みは、私にそれ以上の期待を抱(いだ)かせた、



私と彼女は顔を合わせる、
「煙草を一本ちょうだい」、私は慌ててジタンの袋から引き抜いて彼女に差し出す、ライターで火をつけてやるとき、その炎は何かの儀式の始まりを思わせた。

細く煙をそのルージュがひかれた小作りな唇から吐き出すと、彼女はつぶやいた「あなたもリーヌの店に行くの?」


その意外な言葉は、彼女のからだの匂いと言葉に混ざる吐息とともに、私の耳を擽(くすぐ)り、私は、答えるタイミングを失った、それより彼女のミルクのような肌をもっと見つめていたい。
私の気持ちとは裏腹に、彼女は、言葉も待たずに煙草を捨てると、「いきましょう」と短く呟き、手馴れたしぐさで私の腕をとり、歩き出した。

あれほど迷った「リーヌの占いの館」は、彼女の登場であっさりとその扉を開けた、

まるで手品のように私は快楽の園に連れ去られる、夏蝉の鳴き声に似た「ジー」という扉が開くブザーの合図を聞いて入り口をすり抜ける時、私に何の躊躇い(ためらい)も無かったかというと嘘になる。

私は、連れ去られる間、彼女の匂いについて考えていた。女のからだには匂いがある。

それは、いままで知らない種類の匂いで、姿から想像したゲランのシャリマーや、ジャンパトウという香水がからだと合わさって香り立つものとも違う、もっと、女のからだを思わせるもので、むしろ最初は、その匂いの意外な強さに戸惑いも感じさせる、いや、意外な強さというのも正確ではない、それはたしかに遠くから匂いはじめるのだが、しかし10秒か20秒もするとその匂いは、こちらの意識を支配しはじめるのだ。それはブルガリアの薔薇や、中国のオスマンタスや、ベルガモットという調合師の秘密から生まれたものではなく、微(かす)かに汗ばんだ彼女の肌や、秘められた体液の匂いを想像させる。


彼女の姿と、その匂いの相反は、遺跡に刻まれた古代文字のように謎めいて魅せる。それは、解読の瞬間を待っている。


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横長のベネチア鏡と大理石のカウンターがあるだけの細い獣道のようなエントリーを抜けて、大人二人が乗れば窮屈そうな旧式のエレベーターに彼女と乗り込んだとき、それは何か動物を閉じ込める檻を思わせた。実際、それは獣の爪痕のような長年の傷跡がそこかしこにある使い込まれたオークと真鍮でできた檻、そのものだった。

私は彼女に押し込められるようにして、その檻に乗り込む、ドアを閉めようとする私を制して、彼女自身がドアを閉めると、行き先階のボタンを後ろ手に押して、驚いたことに倒れこむように無言で私に身を預けてきた、それが、あまりに唐突だったので、彼女が気を失うでもしたのかと訝ったほどだ、彼女は私にしがみつく、そのふくよかな胸のふくらみが黒いクレープ地のドレス越しに私を誘い、私はその感触をもっと確かめるために、思わず身をさらにすり寄せる、彼女の豊かな胸は、私と彼女のからだの間でおしつぶされ、それは熱帯のしっかりと果肉の詰まった未知の果実を思わせた、あの匂いがより強く私を包み込む、いま気づいたのだが、その匂いは、やはり熱を持った国の、背丈の高い植物がうるさいほど生い茂ったジャングルとか、素晴らしい体つきをした競走馬のような野生の匂いなのだ、それは、私に彼女のセックスを想像させた、太ももが重なりあって、ドレス越しに触れ合う肌がすぐに汗ばんでくるのがわかる、、しかし、それはどうしたことか恋人同士の抱擁と呼べるものではなかった、赤ん坊か、幼子が母親にしがみつくような形で、私はそれに違和感を感ぜずにはいられなかった、それでも私は彼女の引き締まった腰に手をまわし、その唇を探した、しかしぴたりと私にしがみついた彼女は私の唇を避けるように私の胸に顔を埋めたまま動かず、私は為すすべもなく、彼女のからだの触感とあの匂いが私の欲望に戸惑いを残すのを許すしかなかった。そして、いったん欲望を忘れると、そのしがみつく力の強さに驚いた、それは、まるで彼女に或る想いがあって、それを彼女のからだを通して私にのり移らせようとするかのようだった、

念じるように彼女は私にしがみついてくる、それは何かの「儀式」なのか、

何分たったろう、私たちを閉じ込めていた仮想の檻は鈍い音をたてて行き先に止まった。数秒の間をおいて彼女は身を離し、今度は私の手をとって引きずるように何の目印もないドアに向かった。彼女が檻のなかで念じた想いは、私にはとうてい理解できなかったが、かわって彼女の匂いは私の身体に確かに移り住んだ。思わず、私はスーツの袖を鼻先に持っていく。残り香があるのかどうか、それさえも私には判別できなかったが、確かに記憶に匂いは染み着いている。

扉は案外にさっぱりしたもので、それはノックも無しにあっけなく開いた。開いた先は、暗い赤で塗られた小部屋で、男が一人待っていた。男も無言のまま、私たちを迎え入れると、その先に通じるこれも赤く塗られた扉を開いた。

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これが、噂の「リーヌの占いの館」なのか。
床、壁、天井ともに漆の黒に塗られ遠近感を排したそこは、いわば人工の夜だった、もしかしたら外の闇よりも完成された夜の闇ともいえる、その薄暗い店内に浮かぶ東洋趣味というよりはベネチアの色が複雑に重なり合った行灯が、蠢く人影をぼんやりと密かに映し出し、そして、現実の街に覆い被さってそれを神秘的な異郷の都市にかえてみせる夜の霧のように、人の心に滑り込んでくる匂いがここにもあった、、、

、、、それよりも私を突然驚かせたのは、店内に気を取られる私のその隙を狙ったかのように彼女が、ふいに、私の手を振りほどいて足早に暗がりの向こうに立ち去ってしまったことだ。私は当惑して立ち尽くし、その後を追おうともするが、その私を誰かが既に見咎めていたことには気がつかなかった、

、、、「追いかけても無駄だ、彼女はパイロットだよ、」、、すぐ後ろから投げつけられた、その言葉にも驚いて、私は後ろを振り返る、、「リュック、」、、それは、友人のリュックだった。

背は飛びぬけて高くはないが、鈍い金髪に青い瞳をしていて、光沢のある実に良い仕立てのミッドナイトブルーのスーツを着ていた、柔らかく優雅ななで肩のラインを描いて、控えめな細めのラペルをもつそれは、腕の良いテーラーの細心の注意が払われた特別誂えの品だということを示していた。女たちが、彼を硝子のショーケースに入れて飾っておきたいとでもいう目で、惚れ惚れと眺める気持ちが良く分かる。
しかし、リュックの本質は生まれついての貪欲な狩人なのだ。女たちも、いづれ自分が単に珍しい獲物に過ぎなかったことを知ることになる。そのブルーの瞳の奥に極く一瞬、現れる酷薄さ以外、リュックは、その本質を優雅なマナーの内に上手に隠し、

まるで貴重な観賞用の魚

のように、音も立てずにこの街を泳いでいた。なにより、そのオーク色に健康的に陽灼けした肌と真っ白に輝く歯はパリで愉しみを狩るには頼りになる武器となったことだろう。しかも、リュックはアルゼンチン生まれの鍛えられたポロ選手なのだ。

リュックは、ニヤニヤしながら、わざと微動だにせず立っている、私はと云うと、リュックの姿を認めて、正直、安堵した、やっと慣れ親しんだ現実に戻れた気がしてホッとしたのだ、彼女との出会いからここまでの十数分間にすぎないだろう短い道のりも、私には少々非現実だった、私たちは、互いの背中を軽くたたきあいながら、挨拶の抱擁をする。

「パイロットだよ、彼女は水先案内人だ、この店ではそう呼ばれている、お前をここに連れてくるのが役目の女だよ、」まだ訝る私に、リュックは続ける、

「この店では、最初の客にはデタラメな住所を教えるという決まりなのさ、当然、道に迷う客を見つけて、値踏みして、連れてくるのが彼女たちの役割なのさ、ちょっとでも客に不審な匂いがあれば彼女たちは素通りしていくだけだ、悪く思うなよ、まあ、どこにでも‘やり方‘っていうのがあるさ、」

なおも訝る顔を見せる私に、「お前の風体は、俺が伝えておいたよ、こんなモンマルトルの夜に英国製のスーツで洒落のめしている東洋人はそうはいないだろう、まあ一杯やろうぜ、紹介したい友達も一緒なんだ、」、そう、リュックは云うと、さっさと席へ向かおうとする、


私はそんなことが聞きたかったわけじゃない、あのエレベーターでのことも、その「やり方」とやらに含まれたことなのか、



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闇をかきわけて、席につくとそこには、中世の動物が細かく織り込まれたエキゾチックな絨毯が敷かれ、ベネチアのシルクにくるまれた円柱を思わせる大きなクッションと中東風の金属のトレイにのった果物や、チーズ、ルシアンキャビアやシャンパングラスが我侭な王様への供物のように、犇(ひし)めき合っていた。それは、人工の夜に浮かぶ、アラビアンナイトのハーレムの一角を思わせた。

既に、私を二人の女性が待っていた、ひとり目はブダペスト生まれのウイーンの資産家の娘で美しい横顔をしていた。もう一人は、ドイツに住むアメリカ人で、美人と云えたが、話しをするとき、必ず眉間に皺を寄せて目を細めながら喋る癖があり、それが何かの神経症の名残りか、他人と話をすること自体に勇気がいるほどの内気なのか、私にはどうもそれが気になった、

前にも彼女とは何回かパーテイで会っていた、しかし、親しい間柄というわけでもなく、会えばいくらか言葉を交わす程度にすぎなかった。私を少し驚かせたのは、何度目かに出くわした時、「あなたは、ベルエポックが好きだから、、」と彼女から話をきりだしてきて、いくつかの街の美術館と本を薦めてくれたことで、確かに私はその時代に興味が魅かれるのだが、それは、何ヶ月も以前に出くわした時に何かの拍子で洩らしたとりとめのない話題のひとつに過ぎず、彼女はその時零(こぼ)れた私の言葉を記憶の箱にしまって、何ヶ月も保管していたということになる。

それはアメリカ女性が持つ、少しおせっかいな人の良さを思わせもしたが、私には彼女がそんな社交上手な人間とも思われなかった。

彼女は、確かに当時の社交界で多くの有力者たちの知己を得ていたが、それは父親の影響力のおかげだということは誰もが承知していた。

彼女の父親は駐独アメリカ大使館の情報担当のボスで、なおかつ東ヨーロッパのアメリカ情報局の長でもあるということだった。

その眉根をひそめる癖は私にはその父親のことと何か関係しているように邪推されて仕方なかった、それに、何気なく話した私のベルエポック好きのことを覚えていたのも何だかその父親の職業を想いださせた。事実、幾人かの友人は、冗談まじりに、彼女と喋るときは気をつけろと、まるでスパイ扱いするような陰口をたたいていた。



闇の中から「パイロット」と呼ばれる女の一人が席に近づいてきて、グラスに泡立つ黄金のシャンパンを注いでまわる。「まあ、乾杯といこうじゃないか。」、注ぎ終わるのも待たずに、リュックの陽気な笑顔が呼びかける。

今日のリュックは、いつにもましてご機嫌で、それは所属するポロチームが、何度目かの優勝を間近に控えていたせいもある。ウイーンから来た娘は、そんなリュックに好意をもっているように見受けられた。その無垢さが、こんな場所には不釣合いだった。

、、、「乾杯といこうじゃないか」、私たちの夜のために。


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copyright 2008 Ryuichi Hanakawa

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# by rikughi | 2008-07-19 02:48 | 「愛人」 Ⅰ